32.不穏な動き
寮に戻ってきたエディスは、扉を閉じた途端にへなへなと座り込む。
(他意はない、他意はないのよ、きっと!)
自身にそう言い聞かせながらも、エディスの鼓動は速まるばかりだ。
再び頬を押さえると、あの時のことが思い起こされる。
突然引き寄せられて、左の頬に唇が触れた。
「あああああああ!」
エディスは立ち上がり、一目散に寝室へ駆け込みベッドに飛び込んだ。そして、右に左にゴロゴロ転がる。
(待って、ちょっと待って! 落ち着け! 落ち着くのよ、エディス!)
おかしな呻き声をあげながらベッドの上を転がる姿は、とても人には見せられない。
令嬢としての記憶しかなければこういった行動には出ないだろうが、これは前世の影響だろう。
その時、エディスのペンダントが光り、石から声がした。
「エディス、今大丈夫か?」
「おおおおお、お兄様っ!」
「……ん? 何をそんなに慌てているんだ? ひょっとして、間が悪かったか?」
「そ、そんなことないわ! ちょっと驚いただけなの!」
エリオットからの通信に、エディスはハッと我に返ってベッドの上で正座した。──これも、きっと前世の影響だ。
「まぁいい。少し気になる情報を得たから、知らせておこうと思ったんだ」
「なに? どんなこと?」
食い気味に尋ねるエディスに、エリオットは溜息を零す。
「落ち着け。魔石獣と直接関係があるかは、今のところ不明だ」
「そうなのね……。ううん、今はどんな情報でも欲しいの。教えて、お兄様」
エリオットは小さく笑い、得た情報をエディスに話した。
情報源は、一人の魔導士。下っ端ではあるが、個人主義で世間から浮いた存在になりがちな魔導士の中でも一番の情報通らしい。エリオットは彼と付き合いがあるとのことだ。
その彼によると、筆頭魔導士の様子がおかしいということだった。
ロランド王国の筆頭魔導士は、デイル=アンブラー子爵である。彼の出自も、元は平民。だが、最年少で魔導士になった逸材だ。その魔力量の多さから、高位貴族の落胤ではないかと噂されるが、真偽は不明。着々と力をつけて、三十五歳という若さで筆頭になり、それと同時に子爵に陞爵された。
そんな人物が、おかしな動きをしているという。
「アンブラー子爵は、他国の人間と頻繁に接触しているそうだ。どこの国かはわかっていない。あと、彼はシートン男爵に魔道具を転送していたらしい。普通なら手渡しで十分なのに、それを転送となると、送り先はマドック帝国……」
「魔道具!? 何をするものかわかる?」
魔導士は、普段は魔塔と呼ばれる場所で仕事をする。魔道具もそこで管理されている。
それを転送、相手がミックとなると、エリオットの言うようにマドック帝国の彼の元に送られたのは明白だ。
「通訳の魔道具だそうだ」
「通訳? 通訳が必要なら、最初から持っていくはずよね?」
「ああ。それに、使節団のメンバーは帝国語ができる者限定だったはずだ」
「そうなの?」
「そもそも、貴族であれば帝国語はマスターしていて当然だ」
「……お義母様とリビーは?」
「あれは貴族じゃない」
エリオットはバッサリ切り捨てる。
あの二人は無理やりついていったようなものだから、そこまでは問われなかったのだろう。
「ロニーもちょっと怪しかったと思うけど」
「確かにな。でも、とりあえずはクリアしたんだろう」
リビーもだが、ロニーはあまり勉強が得意ではないし、勤勉でもない。それでも、一応は名門伯爵家の令息であり、高位貴族として最低限必要なことは叩き込まれている。だから、なんとかなったのだろう。
「となると……その魔道具は、何に使うつもりだったのかしら?」
「他国の人間がいたのか?」
「いいえ」
「そうか。……シートン男爵は、誰と会話したかったんだろうな」
「……待って、お兄様」
「どうした?」
エリオットの言葉に引っ掛かりを覚えた。
「誰と、会話したかったのか」
「ああそうだ。通訳が必要な相手が……」
「お兄様! その魔道具、相手が動物であってもいいのかしら?」
「動物? 動物が言葉を……あ!」
エリオットも気づいたようだ。
会話をする相手は、人ではなかったのかもしれない。
「シートン男爵の話が聞きたいわ」
「そうだな。だが、彼には会えない」
「どうして?」
「帰国して以来、仕事をずっと休んでいるそうだ。邸に行っても会えないらしい」
「……どういうこと?」
エリオットと付き合いのある魔導士は、仕事をずっと休んでいるミックを心配し、邸まで出向いたそうだ。しかし、彼には会えなかった。ミックは、邸に引きこもっているのだという。
「通訳の魔道具は、魔塔に返却されたのかしら?」
「いや、まだのようだ。たぶん、シートン男爵が持ったままだろう」
「そう……」
これは、かなり有力な情報なのではないだろうか。
筆頭魔導士のデイルは、通訳の魔道具をマドック帝国のミックの元に転送した。ミックはそれで、魔石獣との会話を試みようとしたのだ。
おそらく、それは実行されていない。というのも、されていれば、魔石獣が報告するからだ。
(誰に試したとしても、彼らは私たちに話したはずだわ。でも、そんな話は一切聞かなかった……)
となると、それを試せないままミックは帰国したことになる。
そして、いまだその魔道具は返却されていない。
「魔道具が返却されていないのは、まだ必要だからだわ」
「そうだろうな。すると、行方不明になった魔石獣は、ロランドにいる可能性が高い。もしかすると、シートン男爵邸で監禁されているのかもしれないな……」
ミックが引きこもっているのは、それが原因なのか。
ロランド王国とマドック帝国との距離、それを酷くもどかしく感じる。
(ああ、今すぐロランドに飛んでいきたい! ……そうだわ!)
そうとわかれば、ここで手をこまねいているわけにはいかない。
エディスは、固く決意した。
「お兄様、私、ロランドに行くわ」
「エディス!?」
「ラータはロランドにいる。だから、助けに行くの」
「そんな簡単に……」
「絶対に行くから! ヒューと、エセルバート殿下に許可をもらうわ!」
「……はぁ」
呆れたような溜息が聞こえてくる。しかし、エディスの決心は揺るがなかった。
「……こっちに来る時は連絡してくれ。拠点を用意する」
「お兄様……!」
エリオットは、どんな時でもエディスの決めたことに否を唱えなかった。最後にはいつも受け入れ、背中を押してくれるのだ。
「お兄様、ありがとう! ……大好きよ」
「エディスは言い出したら聞かない。だが、お前のその迷いのない決断に間違いはない。だから……安心して前に進め。フォローはこちらに任せればいい」
エディスは、見えないながらもエリオットに何度も頭を下げ、ペンダントをぎゅっと握り締めた。