第六話 きゅうびがおとなになったらなりたいもの。
4 がまさんたちときゅうびの本音
がまさんたちと住んでいる家につくころには、太陽がしずみかけて、あたりが群青色になっていました。
玄関をあけると、がまおばさんがふたりをむかえにいく準備をしているところでした。
「おそくなってきたから、心配したのよ」
ただいまをいったきゅうびとがまおじさんに、そういいました。
「悪かったな。でもだいじょうぶだ。こうやって帰ってきたんだから、もうなんにも心配なことなんてないだろ?」
かえるは夜行性といって、夜のほうが元気になります。
それはきつねもいっしょです。
でもそれは人間の世界でのお話。
ばんざいやまでは、九時か十時かおそくても十一時にはふとんに入って、朝は六時、はやければ五時になるまえ、おそくても七時になるまえには起きて、一日の生活をはじめるのです。
早寝、早起きでみんな元気にくらしています。
それと、ばんざいやまには電気はありません。
だから夜のようにくらくなったときには『行灯』に火をつけて部屋を照らします。
ばんざいやまのお友だちは夜目がきくので、それでじゅうぶんに明るいのです。
部屋のまんなかのテーブルにひとつ、行灯がおいてあって、それをかこむようにきゅうびとがまおじさん、がまおばさんは座りました。
がまおばさんが、きゅうびにいいました。
「うちにきて二週間がたつけど、なにか、もっとこうしてほしい、こうなったらいいって思うこと、ないかい?」
きゅうびは考えました。
ないのにあるって答えたらうそをつくことになってしまいますし、あるのにないって答えたら、これからさき、ほんとうはあるけど、一回ないっていっちゃったら、やっぱりある、なんてなかなかいいづらいもんね。
だから考えたきゅうびはこう答えました。
「いまはないけど、もし、ああ、やっぱりこうだったらいいなあって思ったら、そのときはちゃんというよ」
「うん。おじさんもおばさんも、きゅうびのお父さんとお母さんとはもう百年来のお友だちで、家族みたいなものだから、えんりょはいらないよ。どんどんいっていいからね」
お父さんとお母さん、ときいて、きゅうびはすこしさみしくなりました。
でもがまおじさんたちのまえで悲しい顔はしたくはないので、むりにわらいました。
こくりとうなずいてから、きょうは漢字を習ったんだよ、そう話しだしました。
がまおじさんもがまおばさんも、うんうんときいてくれました。
時間がすぎていきました。
きゅうびがねむる時間になって、おやすみをいって、きゅうびは自分の部屋にいきました。
自分の部屋といっても、もとはがまさんたちの子どもがつかっていた部屋なのです。
そのお友だちはいま、ばんざいやまをでて、ひとのすがたをして、人間の社会でくらしています。
そのようにばんざいやまをでて人間の社会でくらしているお友だちは、少数ではありません。
そんなに多くもありませんが、人間に妖怪とよばれてしまうお友だちが人間にまじってくらすことは、人間がまだ東大寺というお寺に大仏さまをつくるまえから、続いているのです。
ときどき伝書鳩で送られてくる手紙を、がまおじさんとがまおばさんはとっても楽しみにしています。
きゅうびだって、人間の話が読めるのは楽しくてしかたがないのですが、でも、人間の社会でくらしたいとは思いません。
手紙で、そしててんぐさまのお話で、あんなに目がキラキラかがやいてワクワクするのに、です。
なぜか?
きゅうびのお父さんとお母さんがそうしているように、きゅうびはおとなになったら仙人界に修行にいって、りっぱな『九尾のきつね』になりたいからです。
きゅうびという名まえも、九尾のきつねからとってつけられた名まえなのです。
正しくは、輝勇美と書きます。
かがやいて、いさましくて、うつくしい、という意味です。
いまよりもっと小さかったころから、なんどもなんども練習したので、きゅうびはこんなにむずかしい自分の名まえを、漢字で書くことができます。
そうなのです。
きゅうびの両親はいま、九尾のきつねになるために、仙人界に旅立って修行をしているのです。
それが二週間前。
だからきゅうびががまさんちにお世話になった最初の日も、二週間前ということになります。
さっきがまおばさんはいいました。
うちにきて二週間がたつけど。
それはつまり、そういうことなのです。
だから、きゅうびはがまおじさん、がまおばさんとよんでいますが、もちろん、ほんとうの『おじさん』と『おばさん』ではありません。
きゅうびはきつね、がまさんはかえるなのですから、それはあたりまえですね。
お父さんもお母さんも仙人界でつらくてきびしい修行をがんばっているんだから、泣いちゃいけない。
泣いたらお父さんもお母さんもぼくが心配になって修行ができなくなってしまう。
それじゃ、九尾のきつねになれなくなっちゃう。
きゅうびは思いました。
思ったのですが、やっぱり悲しくて、なみだがこぼれてしまいました。
ほんとうはお父さんとお母さんにあいたいのです。
きゅうびはまだ十歳の男の子なのです。
ふとんを頭からかぶって、声をださないようにして泣きました。
それをドアのむこうで、がまおじさんたちがきいていました。
そして、そっと部屋からはなれていすにすわり、きゅうびにきこえないように、小声で話しました。
「きょうも泣いたな」
「ええ。これで二週間。毎日ね」
「そりゃあ、きゅうびはまだ十歳だ。俺が十歳のときにおんなじ体験をしたら、やっぱり泣いただろうな」
「わたしたちの前では、あんなに明るくふるまって。ねえ」
「ああ。やさしい子だな」
がまさんときゅうびのお父さん、お母さんは友だちです。
つまり、きゅうびがうまれたときから知っているのです。
わが子のようにかわいがってきたのです。
きゅうびの悲しみが、自分のことのように思えてしまうのです。
きゅうびが毎晩泣いていることは、おれたちは知らないことにしような、とがまおじさんがいって、がまおばさんがうなずきました。
きゅうびはひとしきり泣くと、うででごしごしと顔をぬぐって、
「こんなんじゃだめだ。ぼくはつよい男の子になるんだ」
そう、わざと声にだしていいました。
きゅうびは知っているのです。
こういうのは声にだしていうことで、現実になるちからを持つということを。きゅうびがお父さんとお母さんを思い出しても泣かなくなる日は、もしかしたらすぐやってくるかもしれませんね。
そうして、きゅうびはねむりました。