君との別れ
カーテンを閉じきり暗くした部屋の中、私は彼が現れるのをじっと待っていた。
あの頃と同じように部屋の片隅で両ひざを抱えて縮こまって座り、ぼうっとするようにして世界から自分を切り離す。
いや、意識して切り離そうとしていたのだ。
あの日を思い出すように。
あの日々を取り戻すようにして。
時計にちらりと目を移す。
時刻は午前九時を過ぎていた。
外の光は部屋の中に無情にも入り込み、私の部屋の中を残酷に照らす。
その光の前ではカーテンの作り出す暗闇はあまりにも弱々しく感じられた。
今日は日曜日。
遊ぶ約束をしていた友人が数分前に「もう少しで着く」と律儀に携帯に知らせてくれていた。
つまり、もう時間がない。
逸る心の中にどこか落ち着きを払った諦観があった。
きっと、もう彼に会えるはずないのだと私は悟っていたのだろう。
彼はいつだって、光のない世界にしか現れなかったから。
そう、諦めかけていたとき、不意に声がした。
『何をしているのさ』
呆れた声。
私だけにしか聞こえない声。
耳に響いた声を抱き締め、私は静かに息をはいてそちらを向いた。
『久しぶり』
口を閉じたままに彼に告げる。
その場に居ないはずの人間。
私にだけしか見えない姿。
私だけの友人。
『そうだね、久しぶりだ』
彼は苦笑いをしながら私に言うと、そのまま私のとなりに座り込む。
『もう僕のことなんて忘れていると思っていた』
私の想像し、望んだ通りの言葉を語る彼。
『忘れるわけないじゃない』
声を出さないままに私は彼に答えた。
『初めての友達なんだから』
『そうだね。僕は君の初めての友達だ』
口を開かずに話す私とは対照的に、世界に微かにも影響しない声で彼は言う。
『だけどもう君のたった一人の友達ではない』
私は無言のままに頷く。
初めて出会った日を思い返しながら。
『君はもう僕のことを必要としていない』
否定しようとした。
しかし、閉じた口からは声は出なかった。
先程まではあんなにもすらすらと声が出ていたのに。
彼がカーテンを開ける。
『とても嬉しいことだよ』
太陽の光が私一人を暖かく包む。
『君が僕を忘れていくこと。それが何よりも嬉しいんだ』
私は自分自身が立ち上がりカーテンを開いた現実を受け止めながら彼を見つめる。
いや、見つめようとしていたのだ。
しかし、目が映すのは誰一人居ない部屋だけだ。
『君はずっと一人だった』
私は頷き、口を開いて声を出した。
そうしなければもう、自分が誰かと話しているのを忘れてしまいそうだったから。
「うん。あなたは私の大切な友達だよ」
彼が笑う姿を私は必死に思い描く。
これまでと同じように。
いや。
かつて、思い描き続けていたように。
『だけど、君はもう一人じゃない』
すがるように。
かつて、一人から逃げるため彼を思い描いた時と同じように。
彼の存在を必死に繋ぎ止める。
世界に。
私の心に。
私の世界に。
『嬉しいけれど、もうそんなことをしないでほしい』
そんな私に彼は優しく告げた。
『もう僕を描かなくて良い。存在もしない僕を描かなくていいんだ』
声を出そうとした。
しかし、声は出なかった。
自分が部屋の中に一人きりだと知っていたから。
そこに誰も居ないと分かっていたから。
彼は私が描き、望まない限りそこには居ない。
私が孤独に苛まれたために生まれた存在。
だからこそ、私が孤独から抜け出したために消えていく。
そして、今。
私はその存在さえも忘れそうになっていた。
『それでいい』
彼はまるで劇の台本を読むように言う。
その滑稽さが私を彼から引き離し、彼の存在がより一層薄れゆく。
今や、蝋燭の火が消え去るように。
「ねえ」
私は一人きりの部屋で声に出す。
「また会える?」
最早姿さえ思い出せない彼の声が聞こえる。
『君が挫けたなら会えるかもしれない』
息を吸い、静かに吐く。
「また会ってもいい?」
誰も居ない空間に尋ねる。
『僕は望まない』
胸の奥が微かに痛む。
「そっか」
もう会えないのだと確信した私に彼は告げた。
『だけど、ありがとう』
その感謝と共に彼の存在は完全に消えた。
最早、自分が何をしていたかも思い出せないほどに。
携帯が静かに震えた。
『もう着いたよ~』
友達からの連絡だ。
私は初めて出来た友達に会うために部屋をあとにする。
扉を閉める直前、私は部屋の中を一瞥した。
陽光に照らされた部屋は誰もいない。
私は言い知れぬ寂しさを抱いたが、一歩踏み出したときには全てを忘れていた。