時代の文明
──何分、何十分何時間経ったのだろうか。
メシカは今か今かと待ち侘び時すら忘れる姿は恋する少年そのもので、焦がれた想いを胸中に抱くばかりである。そわそわと、ムズムズと……。
「着きましたよ。四千五百円です」
「お釣りはいりません!」
「お客さま勿体無いですよ! 自動販売機で飲料五個は買えますのに……」
メシカは五千と書かれた紙切れを一枚渡し、運転手の言葉には聞く耳も持たずに車から飛び降りた。そこには言葉では表せないくらいの大きな建物を尻目に、メシカは足早で歩みを進める。勿論、お土産らしき梱包も忘れていない。公爵邸の周りだからか、まるで芸術品だと言わんばかりに富と権力を誇示している建物は多い。それもそのはず、ここ一体は富裕層が住まう領地なのだから当然と言えば当然だろう。だがメシカには興味の欠片も無く、かような建物に目も暮れずに通り過ぎていく。
すると、目的地に辿り着いた彼の眼には、チューチエ公爵邸の離れにある一つのお家が映っていた。ティア・ローレン・チューチエが住む尊きお城である……といっても大きくはないが。まあでも、敷地でいえば体育館くらいはあるだろう。庭がその三分のニってとこくらいか。
ピンポーン、というチャイム音をあげてから数秒のこと、
「誰でしょう?」という問いに対して
「お菓子屋です!」と、答えるメシカは意気揚々としていた。
「すみません。いつもありがとうございます」
使用人の声と同時に固く閉ざされていた鉄格子が開口する。ウィーンと自動で左右に開く音は技術力の高さが窺えるだろう。門を抜けていくメシカの右手に広がるのはずっしりと立った古老の大木。桜は咲き溢れ、柔らかな風の中で踊る花弁は蝶舞のようだ。反対に視点を向ければ大きな池があり、地まで透いた濁りのない水には魚が気持ちよさそうに泳いでいる。そして足先に見える木性の扉が取り付けられた建物は古風なお寺のようなものではなく、かといってこの時代においては少々遅れた木材を前に見せた建築だ。お寺のような縁側が横に伸びた家というのが的確だろう。
メシカが扉の前に着いたと同時にガチャリと出てくるのは大人の魅力を持った女性だった。赤茶けた髪は肩口で整えられ、翡翠の粉末がうっすらと振られた瞳は凛凛と。豊満な体に身に付けている黒と白で基調されたメイド服は男の視線を身に付けて止まないだろう。
「いつもお綺麗ですね!」
「こちらこそいつもありがとうございます。入っていかれますか?」
侍女は柔らかい笑みを貼り付け、喉奥から澄んだ音色を響かせる。普通なら部外者なんて立ち入ることはできないが、メシカは日頃からの行いにより信頼を得ているのだ。まずよそ者では表の自動門すら越えられないが。
「いえ……やっぱりお願いします!」
メシカは若干の躊躇を見せながらも、覚悟を決めたように力強く言い放った。彼はいつも影ながらお菓子を渡しては帰路に着くのが恒例で、ティアに会いにきているわけではないのだ。ただ彼女に喜んで欲しい、それだけの思いで足を運んでおり邪な気持ちなど一切ない。だから迷ったのだろう。ただお菓子屋のやり取りの一件で疲れたのか、癒しを求めたいメシカは正常な判断ができなかった。
「あら珍しいですね。ティア様は二階の奥の部屋にいらっしゃいますよ。お上がりください」
侍女は目を丸くした、と思えば口元のほころびは力が抜けており、より自然な微笑を浮かべている。親密な関係だ……とも思うのも筋違い。侍女とメシカの双方の自己紹介は一度足りともしたことがない。その理由は一つ。メシカはティアにしか興味がないのである。
「お邪魔します」
扉の先に広がるのは漆喰仕上げの壁面や、木目が広がる床に羽目板天井。そんなもの、メシカの視界には当然入っておらず、上の階に軋む音を鳴り渡らせて『路地裏』の奥の方へと進む。公爵家……とはとても思えない人の少なさは片手の指に入るくらいで警備の面では不安が過ぎることもしばしば。そして──
「ふう」
「どうしました?」
「死ぬ準備がまだできておりません」
「死ぬ……ですか……。何回かはお越しなられたではありませんか。大丈夫ですよ」
背後から押すように付いていた侍女はからかうようにクスクスと笑う。ただただ扉の前で深呼吸を繰り返すメシカは、まるでどこかの戦場に赴くような雰囲気である。彼の頭の中に映るのはこれまでの人生のハイライトシーンばかりであった。まだ何も為せていない。まだ何も成し遂げられていない。こんな所で死んで堪るかと、メシカはそう思っていた。しかし現実は彼に非情だった。ガチャリと部屋内から回される銀のドアハンドル。空気が入れ替わるようにして開かれた扉。そこに立っていたのは一人の少女だった。