お菓子屋の日常
あれこれと忙しなく回る厨房。花柄の入ったタイルの床は古みがかり、そこら中に溢れる砂糖や牛乳は見ていられない。シンクに積まれた汚いポールは数知れず。ホイッパーに厚手のめん棒ボウルヘラ。色んな物がごった返し、整頓という言葉が知らないのかと言いたくなるさまで、はたまたキーキー鳴くヤカンですら鼓膜を潰しにかかっている。目を背けたい、耳は伏せたい、唯一の香りはただ甘い。
──それは『表』舞台に立つ彼の心中である。そんなキッチンでメシカは怒鳴っていた。
「メシカ店長すみません」
「カモミル今度は何をした!」
白のコック坊に隠れる金髪は顔立ちと同じく爽やかで、鼠模様の瞳には気力が満ちていた。同じく白で統一されたすらっとした料理服は卵を投げられたみたいにべとべとで、黒いパンツも動くたびに滲みが見え隠れする。ここで働く者の正装だ。無論、ここまで汚れているのはカモミルだけである。
「卵と牛乳の配分を誤ってしまい、卵二十に対して牛乳はコップ一杯にしてしまいました」
「お前という奴は……」
数あるスタッフがいる中でもカモミルは常習犯だ。きちんと起立している姿は一見好ましく見えるが、悪びた様子も無く反省の二文字が全く見えてこない。
「そしてそのまま作り上げたケーキをお客様は買っていかれました」
「なんだと!!!!??」
「そしてそのお客様が来たので、メシカ店長対応をお願いします!」
「……」
声も平常のトーンなのが恨めしいのか、あるいは呆れを通り越したのか、虚な眼といい、固まった顔といい、挙句の果てにはそんなメシカに仕事を投げつけるカモミルは、これまた平然としているのだ。大体一般の人からしてみれば、失敗作をそのまま出す者なんてこの世にいるのかと問いたいところだろうが、しかしこれがカモミルなのだ。
「はぁ」
カモミルの図太さにメシカはため息を吐きながらトボトボと整理のされてない調理場を歩き、左手のシンク上にある鏡を見やる。彼の端色の瞳に飛び込んでくるのは、ぼさっと沈んだ『亜麻色』の髪になよなよとした顔。制服は他スタッフと同じでこれが『表』の姿である。だが、それもすぐに切り替えて表情を引き締まらせる。ここはメシカが経営する菓子屋の厨房。カモミルの粗相もそうではあるが、客の対応こそが第一。
(ティア様。会いたいです……)
気を取り直したメシカはとある少女のことを思いながら、商品が置かれているカウンターと工房の境界線にあたるカーテンを抜けて、お客様の元へ辿り着き、「申し訳ありません、この度は……」と、精神誠意の謝罪をする……が、途中でその言葉は途切れた。
「先程食べたケーキだが……美味いぞ!? お前凄いぞ!」
その言葉によって、お辞儀をしていたメシカは顔を上げながら、「え、はい、あそうですか!」と、驚きのあまり声が跳ねてしまう。
「もう一度作れ」
メシカを凝視したまま指を指す少女。頭の双方から腰元に落ちたつやる深紅の髪は、黒薔薇をモチーフとした髪飾りによって結われている。口から投げ出される言葉と赤い瞳孔はまるで猫で、ずいぶん小生意気な女だと分かることだ。黒いワンピースの上から主張する胸はまだ若く、人によれば丁度いい魅力と捉えることもしばしば。
「さっきと同じものをですか?」
「言わなくても分かるだろう。そうに決まっている」
味覚がおかしいのかな、なんて言わないのはメシカにも店長というプライドがあり、わざわざ失敗作を作りあげるなんて反吐が出るからだろう。それともう一度同じ商品を出すとしたら十中八九カモミルが携わる。メシカはそれがなによりも許容できないのである。
「大変申し訳ございません。現在少々立て込んでおりまして」
立て込んでいるのは嘘ではなく事実だ。店内の大きさと比較した時の顧客の頭数は多く、これでもかなり繁盛している店なのだ。『トゥラン』というお店である。
「お前、私がマヨールの組織の一員──セレナだと知っての狼藉か?」
「…………へっ?」
素っ頓狂な声が出てしまったメシカは仕方ないと言えよう。『マヨール』は彼の『裏』の組織の名であるのだ。若干の時差を経て、そういえば見たことあると、そんな顔を浮かべるメシカは鈍かった。セレナは毎回の様に何か持ってきては褒めて貰おうとする卑しい俗なのに、気付かなったメシカもメシカであるが、それもこれもとある少女にしか興味がないからだろう。
「いやそんな組織知りませんが」
「なら教えてやる。王はな、砂を使うんだ。それはもうとんでも凄いんだぞ。パーと砂を手から出して敵をザワッと囲んでシュパって倒すんだ。蓮華特士だぞ? どうだ? 凄いだろう怖いだろう」
「へー……そうですか」
メシカはなんとも言えない気持ちになるような、そんな台詞回しで自慢げに語り始めるセレナを適当にあしらった。ついでながら裏では『キビー』の華の核は砂として認識されているが、もう少し言い分があるだろう。最早何を言ってるのかと、一般の人には理解に困る発言であるし、手のレクチャーなんて怪獣の真似っこかなと、思われても仕方ないほどだ。
──そんな対応に追われるメシカの内心はこんな感じである。
「で、その王様がここにけしかけてくると」
「うむ!」
──得意げに頷いてるけど、ここにいるんですが。
「ちなみにですけど他の店舗もそうされてるので?」
「当たり前だろ! 力は正義だ。使わずしてどうする」
──それは正義のために使ってください。
「それ王様困りませんかねー」
「何故困るのだ!」
──この前の鼠といい評判が地に落ちてるのはお前が元凶か。
「これは王のために贈る品だぞ!」
──今までの物もそういうことか。
「貢いで貢いで貢ぎまくって私は昇格するんだ! あの人の隣へと」
──絶対無理です。
これがメシカの内心である。内心のはずなのだが表情にまで出てしまっているのは仕方ないだろう。そしてまた一人、卵に塗れた汚い制服を着こなすカモミルが乱入してきたのだ。
「メシカ店長どうしましょう! ムカついたので卵をお客様の頭に投げたら怒られました」
──どうしてそうなった、と一泊目。
「さあ、早く作れ」
「あれもしかして僕が作ったケーキ好評ですか?」
──白々しく卵の件を忘れるな、と二泊目。
「お前が作ったのか! お前は天才だ! 歴史に残るぞ」
「やだなぁ、照れるなぁ。やっぱり僕って天才かな」
──鼻の下をこするな、と三泊目。
「はい解散解散。この話は終わろう」
メシカがそんな三泊を心の中で思いながら出した結論は全て投げ出す。正にメシカらしい。この二人が関わると余計な事にしかならないと分かりきった対応である。
「待て! 作らないとお前たちの命はないぞ!」
「危ない店長下がってください! ここは僕が!!」
カモミルはその言葉と共にメシカの前に踊り出てセレナと対峙した。その姿は正しく勇敢で、頼もしさに溢れ、勇ましい。余談であるがメシカは『表』では蓮華低士の認識だ。砂糖を生み出すなんて日常において便利すぎるくらいで、正に唸る宝庫であろう。だからカモミルは庇おうとしているのか、セレナと同じくして蓮を練り、己の華を操る段階に入った。つまり空気中に潜む蓮素と体のエネルギー源であるブドウ糖を混ぜ合わせて『蓮を練り』、己の華に干渉する。深くいえば眠っている華を起こすので蓮華を『起こす』と言うのだ。勿論のことだが、脳の活動エネルギーはブドウ糖しかないように、蓮を練りすぎると段々と脳の司令塔が動かなくなり、身動きすらとれなくなる。正しく言えば死だ。そして二人は鬼の形相を向けながら対面していた。深呼吸をしながら生み出された蓮華。セレナは『黒鉛』の粉末がぱらぱらと、カモミルは『粘土』をゴニョゴニョと、己の前の虚空で繰り広げられた。蓮華士同士、『黒鉛』ⅤS『粘土』の戦い
──出来上がったのは『鉛筆の芯』。
「お前……」
「君は……」
二人は見つめあい……。
「名前を教えてくれないか」
「名前を教えてくれませんか」
「コントはやめろ!!」
メシカは自然とそう叫んでいた。二人の関係はもはや、ただの漫才師だったからだ。観客がいれば馬鹿笑いしてもおかしくない、そんな矢先のこと……
「ごらぁ! こんなふざけたケーキ作った奴出てこいよ!! ここは大きくて評判いいって聞いたけどなんだよこれはぁぁぁあ!」
また何か下手を打ったのか、髪が生え抜けた中年の男はカウンターに握りこぶしをバンと叩き、ドスの効いた声で怒鳴り散らしていた。
「またクレームヤロウですか。少し待ってくださいね。メシカ店長はクレーム対応向いてないんで僕がいきますよ」
「気をつけるんだぞ! ああいう奴は見た目に反して怖いからな!」
(お前こそ見た目に反してだろ……)
穏やかな声でそう言ったカモミルにセレナは助言をいれているが、メシカのダメ出しはとどまることを知らない。だがカモミルは気にせずに、今も罵詈雑言を並べ立てている男の元へと足を進めた。