血が騒ぐ街
2-❶
隆は長い一日に成ったように思え、どっと疲れが溜まっていた。酸素を吸引している姿を見ながら、追求するようにしなければ成らなかったから、いくら気丈に振る舞われても気になって仕方なかった。それでも長い話の中で気に成った事が一つだけあった。
其れは夜明け前に花村徳之進が目撃した美香に似た女性の事で、それを美香と言い切った花村氏であったが、もしやすると杉原良助の息子の女友達ではないかと思いついた事であった。
隆は帰ろうと自宅を目指したが、その時ふと選挙に出る積りであったが、長瀬地区のみんなに潰されて、思惑が外れ、涙を飲んだ杉原良助って男の家を見てみたくなった。
それは帰り道の途中にあり、今は朽ち果てた空き家に成っていて、人手に渡り【私有地につき立ち入り禁止】と言う文字だけが目立つ状態であった。
じっと見ているとどこからか一人の老人が近付いて来て、よく見ればお隣の篠塚の親父さんで在る事が直ぐに判った。
「あぁこんにちわ」
「あんたは田所さんちの旦那さんだったね?」
「はい。」
「それでこの家に何か用事でも?」
「いえ、春江さんと選挙の事を話していて、それでこの家の主人の事が出てきて、それでなんとなく気に成りまして。つまり春江さんが選挙に出られた経緯を聞いていて、この家の主が登場したものですから」
「そうだったね。正直私はこの家の事は可也嫌っていたから、あの時はすっとしたね。
みんなで叩き潰したように成ったから。自業自得ってやつだよ。杉原良助って男は詰まらん奴だったからなぁ」
「ええ、其れもお聞きしました。其れは春江さんではなく、篠塚兵衛さんに」
「そうですか?同じ苗字ですが全くの他人で、あの方はまだご健在で?」
「ええ、酸素を吸っておられましたが」
「そうですか・・・あの方が頑張って下さったから、平田川町も汚されずに済んだと思いますよ。
杉原良助の周辺には同じ狢が居ましたからね。この男が選挙にもし通っていたなら、平田川も長瀬地区も大きく変わっていたかも知れないでしたから、それだけ重大な出来事だったのですよ。」
「子供さんも随分評判が悪かったようですね。」
「ええ、仰る通りで。あのころ夜遅くまでこの家で喧しく騒いでいたのを覚えています。
内の畑などにも平気で入って、柿やイチジクを取ったりされましたから、まぁ、そんな事は然程問題では無かったですが、問題は、そんな事をしても親は平気でしたから、それが問題であったと言う事です。
子を見ても親を見ても、同じ穴の狢って事でしたから、厄介でした。」
「それでは居なく成って良かったと言う事ですね。」
「ええ」
「でもどうして出て行かなければ成らなく成ったのでしょうか?」
「そりゃぁ御覧の通りでお金に詰まったからだと思いますよ。丁度この辺りで背広を着た人たちが突っ立って、何やら揉めていましたから、それから間もなく紙が貼られて、おそらく債権者とか言う人達だったと思います。
選挙に出る筈の人が、ほとんど同じ時期に家屋敷を取られていたのですから、一体どうなっていたのか計り知れませんなぁ」
「その時に内の父と母は殺されていたのでしたね?」
「え~と、あの事件があって、其れから選挙にこの男が出る事がみんなに伝わって、慌てて春子さんに出馬を依頼して、だからお父さんたちが亡くなられてから、半期ほど過ぎた頃に選挙があって、その時この男は既に居なかったと思うな。水面下で動いたいたとは思いますが・・・
確かこの家にテープが張られていた時に、選挙カーでみんなで話し合った事を覚えているよ。
だからそれまではお金の事を隠していたのだろうね。議員報酬で乗り切ろうとしていたのかも知れないし、兎に角狡賢く生きていた男だったから」
「何か父と母の事件にくっつけるものなど無いしょうか?」
「事件に?もしですよ、もし田所さんの家に強盗に入ったならお金を取るでしょう?困っていたのだから。でも金庫は手つかずであった。お金も可也眠っていた。
それにこの男の仕業なら、慌てて長瀬を出て行かないと思いますよ。疑われるから。」
「そうですね。やっぱり選挙には関係ないですね。父と母殺しは?」
「でも犯人は今でも判らない事は確か。あのころ随分言ったのは、犯人は身近の者である様な言い方でしたから、警察もその様な動きをして居たのか、随分聞き込みに来ていましたね。」
「こんな小さな町で一体何が起こったのでしょうね。嫁の美香を思うと可哀想で・・・正直辛い半生であったと聞かされています。
ですからこんな私には何も出来ないかも知れませんが、出来れば犯人を見つけ出して、本当の幸せを掴ませてあげたいと思います。せめてもの夫としての気持ちで」
「えらいですね。優しいお人だ貴方は。良い人が長瀬に来て下さった。美香ちゃんもあんなに幸せになって」
「有難うございます。其れでこの人たちは何方へ行ったかご存じないでしょうか?」
「確か奥さんの実家の方とか聞きましたが、奥さんは思いもつきませんが、漁師町から来ている人で、杉原さんがどんな経緯があってか知りませんが、見初めたようで連れて帰ったのですよ。
それで別れるとか別れたとか、誰かが言っていましたが、其れも噂で、それ以後についてはわかりません。」
「有難うございました。」
然程得るものもなく家路についた隆は、子供たちを連れて河原へ行き、魚釣りをしている釣り人を眺めながら戯れる様に時を過ごしていた。
「あ~ぁ野呂さんだね。」
年配の男が近付いて来て笑顔でそのように口にした。
「たしか・・・井村さん?そうでしたね。井村さんでしたね。春子おばさん家のお隣の?」
「はい、井村です。」
「魚釣りですか?」
「ええ、鮎ですよ。毎年の事で」
「いいですね。楽しい趣味があって」
「ええ、何もない田舎はこんな事でもしないと、でも子供の頃からだから随分やってます。毎年毎年飽きずに」
「いいじゃありませんか。継続は力なりって言うではありませんか」
「そうですね。私と同じように昔から魚釣りをしても、居なくなった人も何人か居ますからね。
亡くなった人も居るし、事情があり平田川から出て行った人も、あなたが住まれている長瀬地区にも私の連れだった男もいますよ。杉原良助って男が、あいつは借金まみれになって出て行ったのですが、同級生で同じように悪さをして遊んだ仲ですよ。
ただ町の皆はあいつの事相当嫌っていて、可哀そうな男でした。みんなに干されたようになって」
「確か遠い昔選挙に出られたのでしたね?」
「ええ、田所春子さんが初めて出た時に、出る筈だったわけです。でもみんなに干されて」
「そうそう、そうでしたね。春子おばさんから聞いています。」
「でもあいつが出て通れば助かった奴も相当居ましたよ。平田川の町は田所家が全てだから。あいつは一番底辺で生きていたから、気持ちは解るのですよ。私だって同じような立場だから。
ここから見てください。四方八方見えている山のほとんどは田所の物ですよ。貴方も田所の一族だけど」
「でも俺はこちらへ移住して来た時は、花村さんを応援していましたから、何もわからずに。」
「ええ、あの方は立派な方ですから何ら問題はありません。決して間違ってはいませんよ。寧ろあなたはそんな事があったからこそ、値打ちが上がった事はみんな知っていますよ。
言っちゃ悪いが、あれだけの事件があったお家ですから。
平田川町が村から町に格上げされたのが三十年前この三十年間に誰かが殺されたと言う話は、後にも先にもあの事件だけですあら、誰も忘れる事は無いでしょう。まして犯人が未だ逮捕されていないのですから。」
「亡くなられた花村さんって立派な方と仰いましたが、どの様に立派な方だと思われるのですか?」
「真面目で温厚な方です。大らかだから、どんな事でも丸く収める術を持っていましたね。我慢強くて信念もあり、実に惜しい人を亡くしました。」
「奥さんは?」
「似たもの夫婦で、でしゃばって旦那さんの上を行く様な事は絶対しない方です。控えめな女性ですな」
「よくご存知ですね。在所が違うのに」
「ええ、でも長瀬地区には親戚もありますし、田も少しばかりあるのでよく行くのです。
野呂さん。話は反れますが、遠い昔の事に拘るより、こんな綺麗な川があり、鮎も沢山取れますから、釣りでも始めればいかがです。
綺麗な空気を吸って、伸び伸び生きるって事はとっても大事だと私は思いますよ。」
「ええ、釣りですか・・・」
「あの事件は忘れられない事件ですが、忘れようとする事も大事ではないかと私なんかは思います。
おそらく犯人もあんな事件を起こして尋常ではない筈、おそらく脅えながら毎日暮らしている筈、
其れも今では二十何年も経っていて、毎朝起きれば警察が気になり、外へ出ても事件の事を気にしながら、生きていかなければ成らないのですよ。
鮎を釣っていても、側に誰かが居れば、警察ではないかと気にしなければならないのですよ。
疲れると思いますよ。この綺麗な山々だって透き通って流れているこの川の水だって、見えないかも知れないのですよ。そんな人生嫌でしょう?」
「井村さん、今度また釣りを教えてください。こんな田舎で住んでいて、釣りも知らなかったら、あの子らにも笑われる様に思えて来ました。」
「ええ、容易い事ですよ。」
隆は井村氏と別れて川辺で遊ぶ子供たちの方へ行き、きらきらと腹を見せて泳ぐ鮎を見つめながら、井村氏が言った言葉を思い出していた。
遠い昔の事に拘るより・・・と言った言葉を。
その言葉だけが隆の胸に引っ掛かっていて、今自分がしている事は誰の役にも立たないばかりか、害を受ける者が居る事だけであると思われた。
花村さんが書き残した日記が事実なら、そして白日の下に晒されたなら、美香が男と組んで実の両親を殺した事実に繋がるかも知れない。
もしそうなら自分は、笑い者に成って、この街から出て行かなければならないだろう。
そしてこの子たちはどうなる?肩身の狭い思いをして生き続けなければならないのである。
それは美香の両親殺しの犯人が、今味わっているものと似たものを感じながら、母親が人殺しと言う剥がす事の出来ないデッテルを貼られて生き続ける事に成る。
もっと大事な事は、万が一美香が犯人なら、二十年余りの間圧し掛かっていた逃れられない心と、これから始まる新たな罰を受ける事になるわけで、どれだけ苦痛か計り知れない。
死をもって清算する事もありうる話で、泥沼の道だけが見えて来る。
翌日隆は仕事の合間を利用して、釣り道具屋に足を運んでいた。そこに二人客が来ていて、隆の顔を見るなりギョロッとした鋭い目になり、七十近い男が椅子に座りながら、
「珍しい人が来た。あんた田所さんの娘さんと一緒に成った人ですな?え~と名前は」
「はい、野呂と申します。」
「野呂さんか・・・わしは岩井地区の矢代って言うのだけど、選挙の時に何度かお話ししましたね。」
「はい、その節はお世話になりました。」
「奥さんはきついだろうが?」
「いえ、何ですかそれ?行き成り?」
「いやぁ失敬!おやじはなぁ、えげつない人やったからなぁ」
「えげつない?まぁ、きつかったとは聞いています。事故に遭ってから特にきつかったと、」
「唐突に失礼な事を言ってしまって面目ないな。
親父さんとは一緒に山仕事をしていて、親父さんがまだ若かったから面倒みて上げていた事があって、それでつい身内の様な失礼な事を言ってしまって。 あの事故も側で居たから大変な事だったんだよ。
手はつぶれるし、血は噴き出すように出ていたし、良く助かったものだよ、今から思えば。
救急車も早速来てくれないし、まだ高速も無かったから・・・命だけは助かったけど。」
「初耳です。相当お世話になったのですね。」
「お互い様だけど、でも親父さんはきつい男だったな。事故に遭ってから人が変わってしまって、でもまさかあのような死に方をしなければならないなんて因果なものだな。口は災いの元だったのかな。
親父さん、事故に遭ってから見舞いに行っても、励ましに行っても・・・やりにくかったなぁ」
「辛かったんでしょうね。おそらく」
「そりゃぁまだ二十代の半ばだったからな。あの事故は。それから田所家に養子に行って、一人息子の親父さんは涙を流しながら話を受け入れたと思うよ。おふくろさんだって、あんな気丈な人でも息子の事を思って耐え忍んだんだと思うよ。何しろ田所家が相手だから」
「其れじゃ親父さんは苦労したのでしょうか?」
「でも手の事以外はそんな事ないと思うよ。第一経済的に満たされていたから。山へ行っていた頃は安い給料で、結構文句言っていたし、その日暮らしだった事を思うと、でも心の内は誰にも解からなかったけどね。
其れであんたも鮎釣り始めようと?」
「昨日、春子おばさん家の隣の井村さんに、こんな田舎に来たのなら鮎釣りでもしませんかと言われまして」
「どうせ奥さんもきつい人だと思うから、川に行って逃げ場を作っておかないと・・・と言う事ですなぁ、ハッハッハッ?」
「まさか・・・そんなに嫁がきつい女だと言われているのですか?」
「いやぁ親父さんの血を引いているからですよ。」
「でも嫁はそんな事全くないですよ。私の知る限りでは。いい嫁ですよ。」
「そうでしたか・・・亭主のあなたが言うのだから間違いないですなぁ。わしはおやじの事を知り過ぎてるから同じ様に見えて。悪い先入観を持ってしまった様ですな。これ以上しゃべると嫌われそうだからお暇します。」
矢代と言う老人はそう言って笑いながら店から出て行った。
「あの人も随分口が悪いのですよ。」
店主がそう言って笑いながら隆の顔を見たのでほっとした。
「行き成り失礼な事を言われてびっくりしました。」
その隆の声に店主も笑った。
「でもね、あの矢代さんは、貴方たちのお父さんが亡くなられた時に、一シーズンの間釣りを止めていましたよ。喪に服すように・・・
それだけ弟分のお父さんが可愛かったんでしょうね。随分一人で泣かれたと思いますよ。あの様に口が悪いのも、もしかするとお父さんを思い出しているかも知れませんね。」
「そうでしたか・・・では私こそとんだ失礼な事を感じていましたね。」
「結局田舎ってね、のんびりと鮎を釣って、ここで暮らし続けると言う事は、例え口が悪くとも間違った事をしていなければ、上手く生きて行けるのですよ。嫌われる事も無く・・・
私はそのように思います。決してあの方はあなたを嫌っている訳ではありませんから、あの方とお父さんは、まるでボヤキ漫才をするのような間柄だったと思いますよ。」
「良い話ですね。ほのぼのするような。では俺も鮎釣りでも始めますか・・・なんか楽しそうですね。河原で酒喰らって、みんなでおにぎりでも食って、わいわいがやがやと冗談言いあって」
「そうですよ。それが田舎ですよ。田舎の良さですよ。」
「ではまた教えてください。」
「ええ、いつでもお越しください。」
2-❷
隆はそれから間もなく、鮎釣りの装束から釣具をそろえて鑑札を買って河原に向かっていた。
早速指南役を買って出た矢代さんに、何もかもを教わりながら竿を出した。
「鮎はね、苔が付いた岩の周りに居座って縄張りを作るんだよ。苔が餌だから、そこへ余所者が行き成り断りもなく入ってきて、縄張りを荒らされれば守っていた鮎は腹が立つな。だから入って来た鮎の腹にぶつかって追い出すわけだ。『出て行け』って
でも入って来た鮎はおとり鮎だから、腹に針がついていて、その針に見事に掛かるってわけ。判るね?」
「ええ、人間の世界には無い話ですね。」
「そりゃぁあなたは入り人でもそんな事無かっただろうが、そんな話もあると思うよ。鮎ほどではないが」
「鮎ってそんなに嫌うのですか?入り人を?」
「生活が掛かっているからな・・・だと思うよ。」
「あっ掛かっているかも知れません?ビビッと来ています。急に・・・強い力で・・・」
「ほう、掛かっているな!うまいもんだよ。その感触を忘れない様に。それが鮎釣りの醍醐味だから」
「はい」
「ゆっくりと、ゆっくりと引き寄せて」
「はい。これは病み付きになりそうです。」
「面白いだろう。」
後ろから見ていた人が居り、二人のやり取りを聞いていて、それを見つけた矢代さんが、
「あぁ、井村さん来てましたか?」
「はい、今日はあまり追わなくてガッカリです。」
「今新人さんを連れて来て、早速一匹目を釣りましてほっとしています。」
「まさか野呂さんが釣りをしているとは、びっくりです。先日野呂さんに釣りでも始められてはと言ったばかりだから」
「そうですね。あなたに言われて、それから矢代さんとも釣具店で知り合いになり、矢代さんが家内の親と一緒に働いていた事も知り、これは釣りをしないでは済まされないと判断してこうなりました。
先生が良いから早速一匹仕留めました。」
「さすがですね。やはり選挙でも辣腕を振るう貴方だから、鮎釣りでも結果を出すのですね。」
「そんな大層な、全部矢代さんの言われるようにさせて貰っただけですから」
それからも鮎釣りに夢中に成って、時間が過ぎるのを忘れるほどに頑張っていた隆に、一旦帰っていた井村さんが、ビールを提げてまたやってきた。
「ちょっと休まれませんか?これ持って来ましたから」
そう言ってビールとスルメを石ころの上に置き、
「今日は野呂さんの鮎釣りデビューの記念日だから、私がおごりますから祝いましょう。
この辺で川に入る人の風習でね。お互い仲良く末永くやりましょうって事だから」
「そうですよ。私もこうして持って来ているから」
二人がそれぞれ石の上にそれらを並べて宴会が始まった。
更に匂いを嗅ぎ付けた様に、何人かが集まってきて宴会は更に盛りあがった。
始めて釣った鮎であったが、それも串に刺されて、こんがり焼かれ誰かの口に消えて行った。
「野呂さん心配なく鮎は一杯釣ってあるから」
名前も知らない人から優しく言われ、都会では考えられないほのぼのとした和やかなムードに、心が熱く成る思いであった。
みんな屈託のない笑顔、透き通ったような心の内、川も自然もそして住民も、
隆はお酒が入っていたが、其れでやや大げさだったかも知れなかったが、
「皆さん今日鮎釣りを覚えて、こんなにして戴き、言い様が無い位嬉しいです。良い所へ移住して来ました。今更ながら最良の選択だったと思います。良い人生になりそうです。
ここへ来るまでは妻とぎくしゃくしていて、其れで打開策として、新天地を求めて来させて貰いましたが、波乱に満ちた船出ではありましたが、今楽園に到達した様に思います。みなさんありがとう。」
「新米さん、今日はそれで何匹釣りましたか?」
「はい、八匹です。でも先生が殆ど鮎を動かしてくれたからです。」
「先生って?」
「矢代さんです。」
「へぇ~矢代さんが先生?矢代さん先生だって」
「からかうなよ。死ぬまでに一度ぐらい先生って言われても構わないだろう?」
みんなで大笑いになり、実に和やかな時間が流れていた。
そんなムードであったが、誰かが、
「こんな田舎でどうしてあんな事件が起こったのだろうね?野呂さんも何時話を聞かれたか知らないけど、びっくりされたでしょう?」
「そうですね。それはもう」
「平田川は誰に会っても、悪い人など居ない様に俺は思うのだけど」
「居ないね。まず出会わないな。ここは高速が出来るまでは、外部からあまり人は入って来ない場所だからだと思うよ。悪い事など出来ない環境だからじゃない。」
「そうだね。それも相当古くからだから、もしかして三百年とか、それ以上かも知れないな。」
その話に隆も遠慮気味に口を挟んだ
「でもそんな田舎で嫁の両親は、どうしてでしょうね?考えられないですね。」
「野呂さん、あの頃私は何度も考えたけれど、この町であの事件の様な残虐な事を、出来そうな人物が居るかって思ったが居なかったね。
ただ当時あの事件の後、この街から出て行った人物が居り、しいて言うなら、その人物は可能性があったと思ったな。」
「其れなら判るな。あの人だな。」
「それって長瀬の人を言うのでしょうか?」
「そう」
「皆さん、名前を出してはいけない様ですね。」
「当たり前じゃないか。未だに犯人は捕まって居ないからだよ。」
「と言う事は、何方もあの事件の事は、はっきり覚えていて、今でも進行形の出来事なのですね。
俺はとっくの昔の事と皆さんが捉えていると思ってましたが、あの事件は今なお脈々と生き続けているのですね。
それなら俺美香の為にも一生掛かってでも、あの事件の犯人を捜しますよ。そうしないと美香に本当の幸せが来ない様に思うのです。
もし何か知っている事が在りましたらお聞かせください。
あの事件を担当していた元刑事さんにも会ってきて、色々お聞きして参りましたが、解決に至らず、断腸の思いで退官されたようです。
何分遠い話で錆が湧いた出来事かも知れませんが、何とか出来るものならしてあげたいです。よろしくお願いしておきます。」
「野呂さん、お気持ちはよくわかりました。あなたがこの地を選んで来て下さったのも何かの縁、お役に立てるものが在るならお付き合いさせて戴きます。鮎を釣るように簡単には行かないでしょうが」
「感謝します。」
『当たり前じゃないか、未だに犯人は捕まっていないからだよ。』 強い口調でそう言ったのは、師匠の矢代さんでは無く、温厚な筈の井村さんであった。
井村さんの家は、春子おばさんの家のすぐ隣だから、可也な事を知っている気がした。
隆はその様に思いながら、井村さんがきつく言ったのは、間違いなく名前を出さなかった人物が、犯人ではないかと疑っているように思え、また同時にそうであってほしくない様にも思えた。
まさしくそれはあの事件があり、後に行われた選挙の前に長瀬を出て行った人物となれば二人と居ない。杉原良助とその家族以外に誰も居ない。
それを何故ひた隠しにするのか、隆には疑問に思えたが、形だけでも隠すようにしたのかも知れないと思えた。
其れは望まない火の粉が飛んで来ては困ると言う事かも知れない。
それだけ事件が発生した当時は、町中の九千人の誰もに、疑いが掛けられた事件で在った状態が頷けた。
まさか杉原良助と同級生の井村さんが、あの強い口調で・・・隆にはその事が可也気に成った。
何の事はない。隆はその日の夜から、あの事件後で選挙に出る筈が、誰もから干されて出馬を辞退させられた杉原良助について調べる事にした。
今日河原で酒やビールを飲みながら、酒の肴に聞かされた人物に間違い無かった。それはまさしく杉原良助とその家族であった。
それから少し経ってから仕事の合間を見て隆は、杉原良助について調べようと元刑事野平順平を訪ねていた。
「野平さん、当時杉原良助って人物について、何か引っ掛かるものなど御座いませんでしたか?」
「杉原良助ですか?一応マークしていたようだね。
其れは事件の直後慌てて長瀬地区を出て行った事で、しかしそれは金銭的な理由の様だったから、何しろ被害者の金庫は手付かずだった事もあって、
重要視はしていなかったと思うな。」
「実は先日ですね、平田川で鮎釣りを教えて貰っていて、そこで釣り仲間に囲まれて、、その時あの事件の話になり、何方も犯人の事は具体的には言えなかったようで、でも私には誰を疑っているか直ぐに判ったのです。
事件があって間もなく長瀬を出て行った人物だと、遠回しに皆さん言っていましたから、其れは他でもない杉原良助だと言っているみたいでした。でも名前を出さなかったのは、未だ未解決事件だからだとも言っていました。」
「我々もあの男の事はそれなりに調べましたよ。何故ならあの辺りでは珍しい位の悪だった様で、良からぬ噂の絶えない男だったようで、それに息子に至っては、再三ほっつき歩いているらしく、何せ三日とか四日とか家を開ける癖がついていたようで、息子の交友関係なども調べたと思いますよ。」
「その息子さんにどのような友達が居られましたか?」
「ここに控えてあるのは六人ほどだな。男友達五人に女友達が一人」
「住所までわからないでしょうね?」
「そこまでは調べていないようだな。」
「でも杉浦良助の引っ越し先は控えてありませんか?」
「どうだろう?これだ!ここに控えてあるな。
必要ならメモして帰りなさい。」
「はい。何か重要人物のように思えています。釣り仲間のみなさんの話からすると」
「当然警察もマークしていたと思うが、何しろ金庫に手を付けていなかった事で、更に杉原は破産して家屋敷を抑えられた事が同時期だったから、マークを外したのだろうね。」
「それでは言わば杉原に関して手つかずの状態でもあるのですか?」
「そうだな。捜査の方針として平田川全域に目を向けていたからな。何しろカメラに不審な車も人物も、出入りしたものは写っていなかったから、其れで案外近くの人物の犯行と認識していたと思っている。」
「それではこの住所を訪ね、杉浦良助を探ってみます。」
「でも幾ら奥さんの事を思ってるとしても、素人なのだから気を付ける様に。犯人はとんでもない鬼畜の様な心を持った奴だと言う事は間違いないから。」
「はい、気を付けます。」
隆は家路につきながら重いものを感じていた。
確信に触れて行けば触れて行くほど、嫁の美香の顔が浮かんできて、花村徳之進が残して逝ったあの日記が常に原点に在った。
『こんな事止めようか?何に成る?妻を追い詰めて何に成る。二十何年も前に殺された犯人を捜して、どれだけの意味がある。こんな事するよりみんなと鮎を釣って余暇を楽しんで過ごすべきではないだろうか?』
重いばかりの行き先に、うんざりして来ている事も確かであった。
花村徳之進の評判は悪くはなかった。大らかでどんな事でも纏め上げる術を持つ人物で、忍耐強く我慢強い男のようである。
其れゆえに間違った事や、いい加減な事など言わないだろうと隆には思えて、其れは言い換えれば事件のあった朝にトラックの荷台に滑り込んで、シートの下に隠れ逃避したのは、美香に違いないとその言葉を信じる以外になかった。
隆にとって複雑な思いで寝苦しい夜が続いていたが、それでも吹っ切れる事も忘れる事も出来ないでいた。
其れは万が一嫁の美香が犯人だとしたら、その女とこれからの人生を共に生きなければならないとなり、それもまた辛い事であった。
残虐な人殺しをしている女と一つ屋根の下で生きて行けるだろうか・・・?そしてあの子たちを今まで通り愛せるだろうか?この小さな町で耳の痛い流布に曝されながら暮らせるだろうか?
先日河原で祝ってくれたあの人たちを敵に回さなければならない事に耐えられるだろうか?
美香の立ち位置を考えて、両極端の結果に対して双方の想像をしなければならなかった。
夏のアユ釣りシーズンが終わり平田川の川も人影が見えなくなったとき、釣り道具屋の猪原から電話が隆に掛かってきた。
「野呂さん、助けてもらえませんか、実は鮎竿を注文頂いていたんですが、その方は遠方の方で返品出来ないかとなって、問屋に返しても良いのですが、貴方がこの前、来シーズンは長い竿を買わせて貰うからって言っておられたので、其れでお電話させて貰ったのです。
勿論お安くさせて戴きますから、それに貴方が望んでいた十メートルの長さだから、お得かと思いまして。」
「そうですか、今持っているのはやはり短いですから、其れはありがたいですが・・・断れそうにないですね。・・・良いですよ。買わせて戴きます。是が非でも欲しかったのは確かですから。」
「助かります。」
「それですぐに頂きに行ってもいいのですか?」
「ええ、いつでも」
「ではこれから行きます。」
隆は善は急げと言う言葉の様にお金を用意して飛んで行った。
釣り道具屋に着いたとき先客がおり、其れは春子おばさんのお隣さんで鮎釣りの初日に祝ってくれた井村さんであった。
「こんにちは、いつ度やははどうもお世話に成りました。私も本格的に鮎遣りますよ。」
隆は満面笑顔を浮かべて井村に挨拶代わりにその様に口にした。
「変われば変わるものですね。すっかりあなたも平田川町の住人になって来ましたね。」
「ええこれほどいい街は今までなかったですから」
「嬉しいですね。野呂さんはそのうち選挙にでも出られては如何です。当選しますよ。」
「いやぁ春子おばさんに叱られますよ。」
「そうかぁ本家だものなぁ気を遣うか・・・」
「まず来年は鮎を釣って上手くなりますから」
店主は隆の前に新品の竿を伸ばし
「これです。持ってみて下さい。しっかり風を切り重みのない竿です。きっと気に入って下さる筈です。」
「有難う御座います。迷惑にならないのですか?」
「ええ、元々これを注文された方は急きょ海外に転勤すると言う事で、この川にも来れなくなるって言ったいました。釣り自体が出来なく成るっても寂しそうに・・・」
「どなたでも諸事情あるのですね。長い人生には。」
その竿を見ていた井村さんが気なり層に
「いいですなぁ。こんな竿持てて・・・しっかり釣ってくださいね。素人とは思えませんなぁ」
「井村さん、来年は二十匹ほど行く度に釣りたいと思っています。自分の力で」
「釣れますよ。こんな竿を持てば、初めて行って八匹釣ったって言っていたでしょう。、もっと釣れると思いますよ。」
そんな雑談をしていた時、井村さんの電話が鳴った。
「はい、はい、あ~ぁ枝尾君。はい、はい えっ良助が・・・良助が死んだ・・・?
それで・・・わかった。へぇ~癌で・・・可哀そうに・・・
うん、あさってだね・・・午後一時、飯田市の市民センターの近くのセレモニーホールだね。わかった。
又連絡して、任せておくから。五千円なら・・・頼みます。」
電話が切れて隆にも店主にも電話の意味が分かった。良助と言う名の男が死んだ事がわかったが黙っていた。
井村が神妙な顔で
「同級生がまた一人死んだ。つまらん人生や。あいつは・・・杉原良助が死んだよ。野呂さんは知らないかな?」
「知っていますよ。顔は知らないけど名前は春子おばさんから聞いていますよ。井村さんもいつの日か同級だって言っていたでしょう。
春子おばさんが選挙の出る事に成った原因を作った張本人でしょうその人は?」
「そうだったなぁ。長瀬の皆に嫌われて干されまくって、其れで選挙に出る積りだったけど残念して、家は差押えされて紙を貼られるし、一家で夜逃げするように出て行って、可哀想な男遣った。
死んでしまって楽に成っただろうな。みんなに嫌われていた男だったけど、私等は同級生だったから、悪い事をしたり、ふざけたり川遊びしたり、あのころは楽しかったよ。」
「それでお葬式に行かれるのですか?」と、店主が口を挟んだ。
「うん、同級生が行ってあげようって、だから付き合う事にしたよ。飯田市で住んでいる様だから直ぐ判ると思うよ。喪主は息子と言っていたから。あいつ飯田市に住んでいたんだな。息子も喪主って言っていたから真面目に生きているのかな?
悪い評判ばかり立てられていたからなぁ・・・」
「同級生が亡くなったら辛いですね。」
「死んでしまったらおしまい!こんな日は町へ出てパチンコでもしますか・・・」
「友達が亡くなり、鮎も終わってこれから寂しいですね。」
「長らく会ってないからなぁ・・・でも死んだと聞いたらあんな奴でもジーンと来ますね。私はみんなが思うほど彼の事嫌いじゃなかったから、幼い時は本当に仲が良かったから」
「悔みに行ってあげたらどうです?」
「そうするよ。どうせ寂しい人生だったと思うから」
井村さんが神妙な顔をして出て行った。
店主が、
「井村さんは優しい人だから、あんな同級生が居るのに杉原さんはいい加減な生き方をして、情けないですね。こんな田舎で生き続けられないような生き方をして」
「でもああやって悲しまれて、悔みにも行かれるようですね。井村さんは優しい人ですね。飯田市って大きな町なのでしょうか?」
「ええ、十二万人ほどの街だから」
「そうですか可也大きな町ですね。」
「井村さんには申し訳ないけど、杉原って男は悪い噂の絶えない人でしたからね。死んで良かったのじゃないですか?誰よりも本人がほっとしていたりして」
「そうかも知れませんね」
「だから安らかな顔で眠るようにって言われるでしょう。あれって結構生きている時は波乱万丈って言うか灰汁が強い人かも知れませんよ。」
「なるほど・・・」
「でも気の毒ですなぁ。死んでしまうと言う事は、だから貴方の奥さんのご両親を思うと堪りませんね。どれだけ辛い人生であったか・・・」
「はい。」
「生きていてこその人生」
「そうですね。」
竿はあまりにも唐突だったから店に置いた儘でお金だけを払い、隆は釣具店を後にした。
凶悪犯のターゲットと思っていた杉原良助が逝った事は、思いのほか戸惑う事となり、二十年余り前の話で被疑者が死亡したとなると、雲を掴むような話に思えてきて、息が抜けたビールを飲んでいる面持であった。
秋になり行楽のシーズンが来て、家族で旅行する事となり、隆は思惑を秘めて妻美香にこの様に口にした。
「今度の休みを利用して日本海の島根に行こうと思うのだけど、島根って言うより沖ノ島だね、景色が綺麗だし魚も美味しい様だから、俺行ってみたいのだけど」
「いいわよ。子供たちも喜ぶと思うわ。」
何となく交わした会話であったが、隆には辛かったが策略があった。
それは島根と口では言ったが、そのついでに鳥取に車を走らせる積りであった。帰り道は国道九号線を京都まで戻る計画を考えていた。
何故なら、美香は学生時代に彼氏と鳥取を旅行をしていて、その途中で電話が入り、ただその時は電話を切っていたか、圏外だったから繋がらなかったが、やがて電話が鳴り、出てみると両親が殺されていた事を警察に知らされたと、あの時供述していた事をその状況を隆は過去に調べていたのである。
其れは美香の大学時代の同級生で、寮の同部屋だった里川由美に聞いていた。
その事が隆をいつまでも拘らせていて、美香の言った事に嘘がなかったのか知りたかったのである。
島根まで車を快適に走らせて、子供たちは随分楽しそうにして騒いでいる。
境港から高速艇で一時間、島前につき早速鯛めしでお腹を一杯にして海辺を散策。至福の時が流れている。
「隆さん有難う。こんな日が来るなんて思った事なかったわ。人生って我慢していればいつかこんな日も来るのね。不幸だけじゃないのね。」
美香が噛み締める様に口にした。
島前で三時間程ぶらぶらと名所を回り、鄙びた旅館で落ち着いた。
テーブル一杯に並べられた料理は、興奮するほどの光景で、誰もが驚きながら料理に生唾を飲む様に眺めていた。
「いいね、島根は。沖ノ島は最高!」
「沖ノ島に乾杯!」
楽しい一日が終わり、就寝したのは深夜になっていた。長旅の疲れがどっと出て、隆は美香の手を触りながら寝てしまった。
夜が明け、高速艇で境港まで戻り、車で土産物の販売所まで走り、たっぷりお土産を買いこんだ。
「倫太郎おじさん家にも、それから親戚の皆に買って帰らないと」
「いつもそのようにしているの?親戚が多いと大変だね。」
「いえ、初めてだから。こんな事するの」
「初めて?」
「そうよ。私からお土産貰えるなんて誰も思っていないと思うわ。新婚旅行の時以来でしょう?」
「・・・」
「私は田所家のお荷物だったのよ。
実際そうだったし、夢遊病者の様にして道をのそのそと歩いていたから仕方ないわ。隆さんが救ってくれなかったなら、私は狂った儘だったかも知れないわ。だれもが腫れ物に触るように思っていたと思うわ。倫太郎おじさんと春子おばさん以外は。
隆さんが何も知らず花村のおじさんの応援をして、私に、田所の私に花村さんに入れてくれってしつこく言われて、そんな馬鹿なって思っていたのに、いつの間にか隆さんの情熱に魅かれて行き、今日に至っているのね。
ありがとうこんな私に・・・私親戚の人たちの事も怖かったわ。何が悪いの?わたしたち家族に何か問題があるの?気に成る事を言われると心の中でいつもその様に思ったわ。でも何も言えなかった。」
「美香もう良いから。帰ったら楽しくお土産をみんなに配ってあげたら。お世話になりましたって・・・幸せにしていますって。それ以下でも以上でも無いから」
「ええ」
それから隆の運転に身を任せて妻と子供はわいわいがやがやと騒いでいた。
車は国道九号線を東に走り京都方面に向かっていた。
「鳥取砂丘へ行こうよ。俺行った事ないから」
「いこう、行こう」
こどもたちが元気に答えたが美香は何も言わなかった。美香から何か言葉が出る事を恐々期待していた隆は、それでも催促などせずに只管待ち続けた。
砂丘に着き、果てしないその砂の山に向かってみんなで歩き続けた。
「すごいね。本当にでかいなぁ。実にダイナミックだよ。」
そう言って美香の顔を見たが、それでも砂を気にして俯きながら何も言わなかった。
あの境港の土産物屋で口を尖らせて愚痴っていた事を思うと別人であった。
『まさか昔の男の事を思い出しているのでは・・・』
隆はあの過ぎし日の美香の行動を聞かされていたので、その事が頭に浮かんできた。
『男の人と鳥取へ旅行して、事件の前の夜は車で二人で眠った事に成っていた。それが事実で今美香はあの純真な時の事を思い出し、其れで人が変わった様にナイーブになっているのではないか?
其れなら大歓迎である。事実鳥取に来ていたのだから。両親の事件には全く関係ない事になり、これまで抱いていた疑義は瞬時にして消滅する。
『美香そうであってくれ。頼むから。この砂丘を懐かしんでくれ!美香頼む!』
「どうしたの?隆さん。目を押さえて」
「砂だよ。砂が目に」
「引き返しましょうよ。私も靴に砂が」
「そうだね。引き返そうか」
隆は涙が滲んできて美香の顔を見れ無かった。
伴侶の友を嫌と言うほど疑い、疑っている自分が嫌になり、それでも疑い、花村徳之進の日記を信じ、そして疑い、疑心暗鬼が頭の中で蠢き広まって行く。
『美香、真実を教えてくれないか、頼む!』心で叫んでいた。
車に戻り走り始めたが、隆は我慢出来なく成って来て、とうとう口にしていた
「美香はこの辺に来た事なかった?」
「解らないわ」
「鳥取だよ。」
「だから解からないわ。来た様な気もするけど、どうして?」
「いやぁ聞いてみただけ、この辺に友達居ただろう?」
「其れって京都よ、京都のずっと北側だから、もっと先です。この車ずっと先まで行くのでしょう?」
「行くよ。」
「じゃぁその辺りにあるわよ、彼女の実家が、宮津ってところよ。
でも今はそこでは居ないと言っていたわ。福井の鯖江って所で住んでいるようよ。
前に家まで来てくれた事があったでしょう。二十年ぶりに、あれから電話を何回かしあっているから」
「そうなの?」
隆は驚いた。仕事を利用して美香の京都の友達の、岩瀬由美を極秘で訪ねた事が、ばれていないかと心配に成ってきた。
探りながら聞き出そうとすると、思わず冷や汗を掻かされる。それでも知らなければならない真実がある。これから共に暮らす妻の事実を知る必要がある。
隆は心の中で葛藤している二つの思いが嫌と言うほど解かっていて、堪らなかった。
美香がなんとなく発した言葉に身がすくんだように成った隆は、違う話題を必死に探していた。
「この儘走って行くと温泉があるね。城崎温泉と三朝温泉」
「城崎?そこへ行った事があるかも知れないわ。誰かに聞いた事あるから・・・」
「其れじゃ城崎へ行こうか?温泉に入りに?泊まらなくってもいいと思うよ。」
「いきたい、行きたい。」
美香より先に子供たちが声を揃えてはしゃぐようにそう言った。
「行くね?」
「ええ」
「決まりだね」
「そこでお風呂へ入って美味しいもの一杯食べて」
隆は相当楽しそうに声を弾ませて笑顔でそう言い
そっと美香の変化を伺ったが、さして思う事はなく同じように笑顔で楽しそうである。其れは子供たちと何ら変わらない面持であった。
過去に男と行った城崎だったのか、それとも男と行ったのはあくまで作り話で、あの宮津の女友達で寮の同室だった里川由美に誘われて行ったのか、美香の屈託のない笑顔からは何も読み取れなかった。
車は九号線を只管走り続け、子供たちも美香も気が付けば深く眠りに就いている。
妻の寝顔を時々見つめながら隆は、
『この人が両親を殺す事など出来るだろうか?
自ら手を下さなくっても、男友達が手を下したとしても、その現状を間違いなく見ている事は確かで、その現実に耐えられるだろうか?
二人で犯行に及んだ早朝、トラックの荷台に滑り込むようにして乗り込み、途中でそっと降り、逃亡してアリバイ作りをした。
何食わぬ顔をして電話にも出ず、頃合いを見て電話に出ると、警察から両親が殺されていたと悲報、涙一杯にして大学の寮へ戻り、優しくて親思いの子となり、大学も辞め、気が狂ったような、誰でも想像出来る悲惨さを身をもって芝居して・・・長瀬地区を夢遊病者の様に徘徊して・・・親戚からも始めは同情されていた筈が、そのうち厄介者扱いされ、やがて引き籠りになり何年も流れ・・・そんな人間などありうるだろうか?・・・もし事実なら想像を絶する出来事に成る。』
堪らなく成ってきた隆はドライブインで車を止めハンドルから手を離して目を瞑った。
そして同じ様に眠り始めた。
目が覚め、気が付いたとき、三人は車から外へ出てはしゃいでいる。
美香と長男の歩夢がボールの投げ合いをして
弟の良淳がそのあたりで座り込んで絵を描く真似をしている。
隆は目をこすりながら、『どうかこの家族が本物であってくれ』と思わず祈っていた。
気を取り戻し、
「ここで食事をしようか?ちょうど昼前だし、美味しそうな物があるようだから」
「温泉は?」
「後で行くから」
「それならここで食べよう。」
長男の一声で決まり、レストランに向かった。
食事を済ませ、一路城崎温泉に向かっていたが、既に午後の半ばに成っていて、
「泊まれるなら城崎でもう一泊して明日帰ろう」
「連休だから無理じゃないの?」
「とりあえず向こうへ行ったら聞いてみようよ。」
「泊まれる所在ってくれますように」
「でも連休よ。予約していなかったら無理だと思うわ。」
「無理かな?でも聞くだけ聞こうよ」
みんなそれぞれ思い思いにしゃべっていた時、美香の口から出た言葉に大いに意味があった。
「そう、昔おそらく城崎だったと思うけど、どこにも泊まれなくて海岸で車の中で寝た事があったわ。
確かあれは城崎だったと思うわ。」
「何時の事?」
「はっきり思い出せないけど・・・」
「其れじゃ無理だろうな。昔なんかより客が多いと思うから。どれくらい前の事?」
「いやぁはっきり覚えていないわ。随分昔だから」
「そう」
「父さん、行かないの?」
「いやぁ行くだけ行ってみるよ。何件も探せば何とかなると思うよ。」
「探してね。見つかるまで」
「あぁ」
気が付けば美香はそれからあまりしゃべらなくなった。いろいろ思い出しているのだろうと隆は察しられた。
その過去にあるものは、昔恋い焦がれた志野村と言う男であったのかも知れない。岩瀬由美がはっきりそう言っていた。
『美香はかなり志野村さんを好きだったみたい』と、そして由美さんはむしろ『彼とは合わなかった』と、隆はそんな話をした事を思い出していた。
美香もまた何かを思い出していて、その何かが空気を重くしている様に思えた。
美香は過去の事を話す事を極端に嫌っていて、たった一度だけ両親の事を口にして強く叱咤された事があった。
『過去の話はしないで』と、それが夫婦で続けられる掟の様なものでもあった。その過去を今少しだけ開き紐解こうとしている。そして美香の表情が強張って来た様にも思える。
やがて城崎について温泉街をゆっくり車を走らせた。既にかなりの時間になっていて、是が非でも泊まるように心は傾いていた。
気を入れて宿を探すつもりで在ったが、思いのほか簡単に宿が見つかって、一安心して家族全員で温泉街を浴衣姿で散策した。
至福の時である。夕焼けが家族全員を満遍なく照らし、過去も未来も関係なく今を照らし続けている。幸せを家族でたっぷり味わいながら時が流れている。城崎の街がどこの町より綺麗に見えてきて暖かくさえある。鄙びた街並みは趣だって相当ある。
『美香、俺達許されない過去何て無いよな?』
幸せに感じれば感じるだけ、同じ不吉な思いも浮かび上がってくる。疑心暗鬼が見え隠れする。
旅館に戻り少々遅めであったが、お風呂に浸かってから食事を済ませた。
子供たちが眠ってから、美香は縁側の唐の椅子に座り外を眺めて、、
「もう二十年以上なるわ、大学の時だから。あの頃はそれなりに楽しかったのに、めちゃくちゃになって、本当にめちゃくちゃになって、よく持ったと思うわ。良く生きてきたと思うわ。」
「どうしたの?」
「おもいだしたの。歩きながら・・・」
「何を?」
「だから昔を、思い出したくなかったころの事を。
好きな人もいたわ。大好きだった。でもあの事件で何もかも無茶苦茶になって」
「美香、無理に思い出さなくってもいいから。せっかく楽しくここまで来たのに」
「隆さん、どうしてここにきたの?」
「城崎に?」
「そう、私の青春も大げさに言えば人生もこの地で終わってしまったの。
ここで居たときに警察から電話が掛かってきて、其れで父たちが殺された事を知ったの。どうしていいのかわからなかったわ。意味が解らなかった。お父さんもお母さんも殺されたって、意味が解らなかった。
長瀬って田舎なのに、そんな事起こる筈が無いと、それでも信じられなくて思ったわ。
飛んで家に帰って両親を見て、頭の傷を見て、包帯で隠されていたけど、包帯を持ち上げると、頭が割れていたわ。二人とも。ねぇ、そんな時子供として冷静で居られる?解かって貰えるでしょう?
泪がね。閉め足らなかった水道の様に、蛇口から水が落ちる様に出続けたわ。怖くて辛くて・・・」
「美香、思い出さなくっていいから、もういいから」
「ごめんなさいね。」
「泣くなよ、そんなに・・・泣くなよ・・・・・
美香ごめんね。悪かった。俺美香に・・・美香の事を・・・」
「どうしたの?隆さんまでそんなに涙ぐんで、ねぇ泣かないで。ごめん泣かせてしまって。
隆さん優しいから。ごめんね。本当にごめん」
「違うんだ!違うんだよ。俺美香に謝らなきゃ。
俺謝らなきゃ・・・」
「なんで?」
「苦しかったよ・・・辛かったよ・・・でもよかった!良かった。」
「どうしたの?何が良かったの?ねぇ言って?」
「美香、両親が殺された時、美香は間違いなくここで居たんだね?」
「そうよ。」
「鳥取へ行っていたと言わなかった?」
「其れは動転していて警察に言ったかも知れないわ。
だって土地勘ないんだもの。それがなに?」
「間違いなく城崎で居たんだね?」
「そうよ。慌てて帰ったの覚えているもの」
「そうか・・・そうか・・・とんだ取り越し苦労を。まいったなぁ・・・よかった。」
「ねぇどしたのよ。意味わかんない?」
「これを見せるよ。見て」
「何?メモ?」
「これ、花村徳之進さんが書いた日記」
「花村のおじさんが?」
「花村さんの一年の法事の後、奥さんから預かり、それを黙ってこのページをこそっと千切って持っている。読んでみて」
「解った。読むわ 」
「野呂君が結婚すると言う。奥さんとは円満に別れたようだが、私の選挙が相当絡んでいる事は間違いない。ただ奥さんも機嫌よく出て行ったからせめてもの救いだろう。お互い又新しい人生を幸せに歩んでくれる事を願うばかりである。
だから野呂君の結婚は目出度い話と捉えていいように思われる。披露宴は中止に成ったのは、別れた奥さんに対する思いやりだろう。
ただ隆君のその相手が美香さんだと聞いて、私は分かりつつも仰天した。田所の人間と思うと因縁めいたものさえ感じた。
美香さんと一緒に成ると言う事は、私には余りにも乱暴な事にしか見えない。
ただ幸せになって貰いたいものだ。
取り敢えずおめでとうと言いたい」
「今日は野呂隆さんと雑談。
一層美香さんの事を口にしたかったが、でも止めておくほど良いって誰かが言っているように思えた。余計な事を言えば、其れは余計になる。子供も出来たようだし更に御法度か」
「しかし私はどうしても忘れる事は出来そうにない。あの事実を忘れる事など考えられない。何故なら、未だあの事件は解決していないからで、犯人がこの街で潜んでいるかも知れないからである。
田所敏明、田所安枝夫妻が殺されたあの事実が、今なお脈々と心でマグマのように動き続けている事は紛れもない。
そう、はっきり覚えている。
あの日私は薄暗い中で、何時もの様に犬の散歩の準備をしていた。そして勝手口のドアを開け外へ出ようとした時、戸木村さんが椎茸の出荷で市場へ出る所であった。いつもの光景である。
二トン車に椎茸を一杯積んで、荷台は上からシートが掛けられて居て、見慣れた光景に何の違和感も無かったが、でもその時私はその荷台のシートの下へ、若い男女が隠れて乗り込む姿を見た。
何が起こっているのか私にはわからなかったが、よく目を細めて見ていると、男の方は見当がつかなかったが、女性は間違いなく田所の美香さんである事がわかった。女だからかもたもたしながら荷台に乗り込んでいた
不思議な事だったが、トラックはすぐに走り出し、木戸村さんはそんな事全く知らないように、私の前の道をいつものように通り過ぎて行った。
それでも何事か私にはわからなかったが、その日の昼前になって、大惨事が起こっていた事を知った。
其れは田所敏明さん、田所安枝さん夫婦が殺される残虐な凶悪殺人事件であった。
二十年余り前私はあの事件が起こった日の朝、美香さんが男と一緒に木戸村さんのトラックの荷台に乗って、出て行った事は今でもはっきり覚えている。
でも新聞によると、当日の美香さんは、警察には友達と旅行をしていたと成っている。だから何も知らなかったと、
其れも旅行は男友達と大学の寮から出ているので、同室の里川由美さんも同じ事を証言している。ただ行先は美香さんしか知らない様であるが・・・
私は毎日のように警察が来て、検証をしている姿を見つめながら、あの朝見た事を口にしたかったが、万が一間違いであればとんでもない事になり、両親が殺された一人娘に疑義が圧し掛かれば、ただ事ではないと思い、あの時は黙って何もかもを静観する様に努めていた。
2-❸
それから一日でも早く犯人が見つかるように願っていたが、外部と繋がる道のパトロールカメラには、不審者も不審車両も一切写っておらず、身近な者の犯行ではないかと警察は見解を述べ、町中に異様な空気が漂っていた。
もし美香さんが何かを知っていて、その時見たトラックの荷台に隠れて逃亡したのなら、カメラには映って居ないだろうと思えた。
あれから二十年余りが経ち、未だ犯人は判らないままで、迷宮入りしそうな感じに成っている。
美香さんも隆君と夫婦になり、今は幸せを掴んだようである。たとえ事実がどこにあっても、美香さんが今幸せである事は、更なる事実なのであり、何よりも優先されるのである。
だから私はこの様に書き記しながらも、この件に関して、墓場まで持って行くのが妥当かと思う。
とは言うものの、さてどうする・・・犯人はどこかに居る・・・これでいいのだろうか・・・これで迷う事なく人生を全う出来るだろうか?」
読み終わった美香は目を光らせて、
「おじさん、花村のおじさん、間違っているわ。私じゃないよ。おじさんしっかり見てよ。
隆さん、こんなものに惑わされて苦しんでいたのね?
しっかり見ろよ!おじさん、しっかり見てよ。おじさんのバカ!隆さんに誤ってよ!隆さんに助けてもらったのに・・・畜生!誤ってよ!」
「美香、いいから、もういいから、もう終わったから」
その夜は城崎温泉のひなびた宿で隆と美香は久しくして愛を確かめあった。
深夜になり、お腹が空いてきた二人はソファーに座り、美香が冷蔵庫からつまみを取り出し、頬張りながら、花村徳之進が書いた日記をテーブルの上に置き、
「怖いね。日記にこんな事書かれて、これがまるで真実に成るかも知れないのだから、堪ったものじゃないわ。」
「歴史なんてこんなものじゃないのかな?饒舌で達筆な人が歴史をおもしろおかしく書き残せば、それから何百年も経てば古文書と成り、それが歴史に成るような気がするな。怖い話だね。」
「よく言う冤罪って奴も、こんなものかも知れないのね。だってこれってすごい証拠に成るじゃない。まして書いた花村のおじさんは亡くなっているし」
「全くだね。それで一体誰だろう?美香に似た人って?」
「私に似たひと?でもこの日記本当の事かな?」
「まっさら嘘なんか書かないと思うよ。花村さんそんないい加減な人じゃなかったから。むしろ信頼の置ける人だったから。まして墓場まで持って行こうと思った話だし、それ故に俺は信じて、苦しまされて、辛い思いをさせられたけど」
「なら、現実の話ね。」
「俺はそうだと思う。美香が二十歳のころに長瀬、若しくは平田川町で、美香によく似た女性が居なかったって事だね」
「私に似た女性?同級生では居なかったなぁ」
「わからないかな?」
「待って、顔とかと言うより、同じような格好をしていた人を見かけた事があるわ。
何時だったか判らないけど、全体の雰囲気がよく似ていた人が居た事を覚えているわ。いつだったかなぁ~」
「それが誰だか判るの?」
「だれって?長瀬の人じゃないと思うわ。だって子供の頃からは見ていないもの。大人の女性だったと思うわ。どこかから来ていた人よ。
そうそう、思い出して来た。煙草をふかして居る姿を見たのよ。あの時、よく似た恰好をしていて、印象に残っているわ。」
「どこで?」
「私が道を歩いていて、それで家の前の庭でタバコを吸っていたのを見かけたんだっけ。目が合ってちょっと怖くなって・・・自分と同じ様な服を着ていたら嫌でしょう?」
「其れはどこで?」
「杉原さんってあるでしょう?あそこの家の前で」
「杉原さんの家で」
「たぶん息子さんの友達だと思うわ。派手な感じだったから、息子さんも結構派手だったの、遊び人風で」
「其れって間違いないかな?」
「ええ、段々と確かに思い出して来ているから。あの時の女の人の顔も思い出して来たわ。怖かった仕草も」
「どうも間違いない様だね」
「ええ」
「その人に聞けば何もかも解るかも知れないね」
「事件の事?」
「うん、間違いは許されないけど」
「あの人と私を見間違えたのでしょうか?でもこの日記には男の人も書かれているわ。つまり杉原さんの息子さんなのかな?」
「そうなるなぁ」
「ではあの息子さんが父さんや母さんを?」
「かも知れないね。」
「隆さん、怖くなってきたわ。同じ長瀬の住民が父さんや母さんを殺したかも知れないなんて思う
と」
「でも杉原さんは亡くなったんだよ」
「お父さんの方?いつ?」
「未だ最近に」
「では息子さんはどこで生きているの?長瀬には居ないでしょう?」
「それはわかると思う。親父の喪主をしていたようだから。平田川町からもお葬式に同級生とかが行った様だから」
「それでどうして調べるの?間違っていたなら悪いから?」
「それは何とかなるよ、元警察官って人が居るから春子おばさんが教えてくれたから。あの事件を担当していた元刑事さんなんだ。」
「そうなの。其れはそうと、でもこの旅行には大きな意味があったよね。一生忘れられない思い出になりそうよ。」
「更に犯人が捕まれば尚更だけど。とにかく帰ったら聞いてみるよ。」
「春子おばさんたちに言ってもいいのかな?」
「其れはまだ時期尚早だな」
「わかった」
人間は苦しんでこそ見い出せるものがある様で、そこを避けていれば、いつまで経っても結果も出ないし、トンネルを抜け出す事も出来ないのか、この度の家族旅行は、百年の計にも劣らない企画となった。
家族の中に歪になった出来事があると言う事は、其れは夫婦の関係なら亀裂となり離婚に繋がるわけで、隆にとって言うまでもない教訓であった。
どれだけ妻の美香を疑い苦しまされたか、近くに見える花村家の奥さんの姿を見ては、喉まで手の出る思いであった。
それでも花村徳之進は正義感に満ち溢れた自分でありたいのと、そこに人間としての奥ゆかしさを共に求めた結果だったように思われた。
それから数日が過ぎ隆の頭も美香の心も落ち着いてきた頃に、二人で元刑事野平順平を訪ねていた。
「そうですか、あなたがあの時の御嬢さん。あの頃は大学へ行っておられましたね。それから辛い毎日が続いていた事も十分把握させて貰っています。よく頑張られた。お子さんも二人ですか・・・
とっても幸せなのですね。よかった。お父さんとお母さんの分も幸せにならなきゃ。私も嬉しいです。応援しますよ。
それで本題をお聞きしましょうか?」
「はい、先ずこれを見て戴きたいのですが、この部分を」
「これは何ですかな?」
「事件当日に書かれた日記です。書いた方は町議会議員をされていて、既に亡くなられましたが、花村徳之進さんの言わば遺構の様なものです。」
「なるほど・・・読ませて戴きます。
《二十数年前私はあの事件が起こった日の朝、美香さんが男と一緒に木戸村さんのトラックの荷台に乗って、出て行った事は今でもはっきり覚えている。
でも新聞によると、当日の美香さんは、警察には友達と旅行をしていたと成っている。だから何も知らなかったと、
其れも旅行は男友達と大学の寮から出ているので、同室の里川由美さんも同じ事を証言している。ただ行先は美香さんしか知らない様であるが・・・
私は毎日のように警察が来て、検証をしている姿を見つめながら、あの朝見た事を口にしたかったが、万が一間違いであればとんでもない事になり、両親が殺された一人娘に疑義が圧し掛かれば、ただ事ではないと思い、あの時は黙って何もかもを静観する様に努めていた。
それから一日でも早く犯人が見つかるように願っていたが、外部と繋がる道のパトロールカメラには、不審者も不審車両も一切写っておらず、身近な者の犯行ではないかと警察は見解を述べ、町中に異様な空気が漂っていた。
もし美香さんが何かを知っていて、その時見たトラックの荷台に隠れて逃亡したのなら、カメラには映って居ないだろうと思えた。
あれから二十数年が経ち、未だ犯人は判らないままで、迷宮入りしそうな感じに成っている。
美香さんも隆君と夫婦になり、今は幸せを掴んだようである。たとえ事実がどこにあっても、美香さんが今幸せである事は、更なる事実なのであり、何よりも優先されるのである。
だから私はこの様に書き記しながらも、この件に関して、墓場まで持って行くのが妥当かと思う。
とは言うものの、さてどうする・・・犯人はどこかに居る・・・これでいいのだろうか・・・これで迷う事なく人生を全う出来るだろうか?》
成程、私はどうすればいいのかな?」
美香が語気をやや荒げて
「刑事さん、これってわたし知らないのです。花村のおじさんの見間違えだと思うのです。
其れで彼と話し合って、私に似た人があのころ長瀬でも平田川町でも、居たのじゃないかと話し合ったのです。
花村のおじさんは滅多に嘘を付く人ではないし、まして公にする気も無かった様だし、つまり私に似た人を見た事自体は事実だと思うのです。
それで、二人で思い出していると気が付いた事があり、確かに似た人とわたし出会っている様に思われるのです。」
「ほ~なるほど・・・しかしトラックへ乗った事を目撃されたとしても、其れであの事件と繋がるのかな?位置関係は?」
「私の家があり、それから二百メートルほど下ると、椎茸栽培をしている木戸村さんの家で、そこからほんの僅かで花村さんの家があります。」
「なるほど。それで貴方に似た人って?」
「はい、二十年以上前ですが、私が長瀬地区の町道を歩いていて、杉浦さんの家の前に差し掛かった時、杉浦さんの庭でタバコを吹かしていた女性が居り、派手な感じで、でもじっと見てしまい、目が合い睨むように見られドキッとしました。
何故気に成ったかと言うと、彼女が着ていた服が同じ様なデザインだったから、何となく恥ずかしいような、変な気持ちに成ったのです。
花村さんが見たのは、おそらくこの人ではないかと二人で話し合いました。」
「それでその杉原さんの家はどこに?いや待って下さいね。手帳を持ってきます。
お待たせ、これだ、これだ、
実は杉原って言われたから何か引っ掛かって、それで・・・成程・・・わかりました。取り敢えず調べる必要があるようだね。」
それまで黙っていた隆が満を持して口を挟んだ。
「野平さん、俺花村さんの一周忌にお参りして、奥さんからこの日記帳を渡され正直随分苦しみました。 美香がまさかあの事件に関係しているのではないかと、眠れない夜が続いていました。怖かったです。
余りにも残酷な出来事で、其れに関わっていると思うと」
「そりゃそうでしょう。前代未聞の事件でしたからなぁ」
「それで先日になりますが、妻が事件当時旅行に行っていて、そこで事件を知ったと言う島根まで行ってきました。時間を巻き戻すように
でも本当は島根ではなく城崎温泉だったのです。間違っていた事は間違っていたのですが、妻に確固としたアリバイがある事がわかり、胸の中に詰まっていた何もかもが瞬時に消える事に成ったのです。ですからこの日記でどれだけ惑わされたか計り知れません。」
「それであなたはいつの日か尋ねて来られたのですね?奥さんの身を案じて」
「はい。でもそれもあったけど、一つ屋根の下で、妻と一緒に暮らさなければならない事実が、正直怖かったです。」
「あの殺人の首謀者ならそれは大変でしょうねぇ。身の毛もよだつ話です。」
「其れで刑事さん、この杉原って人を調べて頂けるのですか?」
「調べる必用はありますね。貴方の記憶に狂いがないなら」
「私たちは何をすれば・・・」
「いえ、ここからは警察にお任せ下さい。私が平田川の派出所に話を持って行きます。私から言うほど話も早いでしょう。本署には瞬時に伝わり動いてくれると思います。
只二十数年前の出来事です。貴方と目があった女性も、今ではいいおばさんに成っているでしょう。
しかし犯人に繋がる可能性があると考えるなら、犯行は力のある男の仕業だと思われます。
中々女性で二人の人の頭を斧の様なもので、叩き割るって動作は出来ないと思います。
ですからこの女性が黒であるなら、間違いなく杉浦の倅も黒だと思われるのです。
よって時間が掛かるかも知れませんが、あなたが覚えている女性をまず探して貰います。
何故なら犯人なら落ちやすいから、それに反対にすると口封じの為に殺されるからです。主犯格は間違いなく死刑ですからね。」
「解りました。お願いしておきます。」
それから年も変わり五か月近く過ぎ、桜が川辺の色を変えて、見事に平田川の至る所で宴が繰り広げられていた。
「みんな酒が好きだなぁ全く」
町中で同じセリフを吐く酒飲みが屯していて、寒い冬の間眠っていた年寄りも、蕗の薹の様に息を吹き返した如く元気な姿で騒いでいる。
そのうち夏を迎えれば、また例年通り鮎釣りの季節に成る。
太公望が竿を並べて腕を競い合う。
隆も十メートルの竿を仕込んで、虎視眈々と腕を磨き釣果を狙う。
やがて夏になり、隆と美香が元刑事野平順平を訪ねた時から八か月近くが過ぎていた。
相当重要な話を持って行ったと思っていた二人にとって、可也期待をしていた事は間違いなかった。
それでも警察が何一つ言って来ない事に、少々苛立っていたが、丁度鮎釣りの解禁日となり、隆は心の中で嫁の美香が今は間違いなく幸せになって居る事実で、犯人追求は警察任せで半ば諦めていた。
隆にすれば犯人の逮捕より、美香の容疑が晴れた事が全てに近かった。
六月三十日、二人の結婚記念日である。隆は大袈裟な式をする事を避けていた。前の奥さんとの間で綺麗に成ってから間が無かったから、既に美香の家で住んでいて、役場の住民課に婚姻届を出したのが六年前のこの日であった。
鮎釣り解禁日、隆は真新しい竿を手にして、颯爽と平田川へ向かっていた。すでに多くの太公望が竿を並べている。
「おーぉ新米さん来ましたね。」
「おはようございます。よろしくお願いします。」
川は広いのであるが何せ釣り人も多く、隆は気を使いながら間に入れて貰った。
慣れない竿と覚えたての何もかもであったから、はっきり言って巧くなど行かない。もたもたしながらおとり鮎をつけていると、後ろから井村さんが見ていて、
「なかなか難しいでしょう。その内慣れますから」
優しくそう言って笑顔で見守っている。
「凄い人ですね。この街は春の桜と夏のアユで生き返った様に成りますね。こんなに人が来て活気があり、でも冬なんか人の気配すら無いですからね。」
「そうですね。若者は出ていくから、日本中同じ現象が起こっていると思いますよ。田舎は」
「でも俺の様に都会で住んでいて、こうして縁あって田舎に移り住んで、その良さを知って、今まで知らなかったゆったりとした満足感は、何か取り戻したような気に成りますよ。」
「そうですか?多分私はその所を感じているから、こうして田舎で楽しく暮らしているのでしょうね。」
「そうそう、前に釣具屋で出会った時に、丁度この竿を店主が買ってくれないかと言われて、それでお邪魔した時、あなたとお会いしましたね。」
「そうでしたね。それがこの竿なのですか?立派な竿じゃありませんか。本格的ですなぁ・・・相当釣果が上がりますよ。」
「えぇ楽しみにしています。
そうそう、あの時お友達が亡くなられた時でしたね。杉原さんて方が?」
「そうでした。あの時でしたね?あっけないものですよ。あの悪さ坊主ももう居ないのですから」
「同級だったと言っていましたね。」
「そう、貴方だってあいつの事は色々聞かれているでしょう?殆ど良からぬ話を。
長瀬地区の人はみんなあいつの事を嫌っていたから、あいつが選挙に出るって言った時、私なんかは賛成しましたよ。田所一族が牛耳っているこの街をどうにかしたかったからですよ。
貴方にはっきり言って悪いけど。でもこの街は田所一族にとっては問題無いと思うけど、過疎化が
進み、若者が出て行き、良い事なんて何もないでしょう?
我々のような年寄りがいくら住み良いって言っても、じゃぁ若者はって成った時、真逆でしょう。
随分前に成りますが杉浦は、平田川の将来を熟知した考えを持っていましたよ。ただ評判が良くなかったから」
「何故そんなに評判が悪かったのですか?」
「田舎だからですよ。何もかもをあの男に被せるって言うのか、何か悪い事があれば、先ずあの男を疑うって成ってしまって」
「でもそう成るには、それなりの根拠があるでしょう?誰も闇雲に人を疑ったり傷付けたりはしないと思いますよ。」
「あいつ山の仕事をしていたから、木を誤魔化したとか、人の山に手を出し勝手に処分したとか、其れなりの事はあった事は確かで、それにこの街でそんな噂が出れば命取りに成るわけですよ。
本人はそんな事無いと我々に言っていましたが、でも悪く言う人は語気を荒げて言うでしょう?
だから初めて耳にする人は、まるで全て事実に思うのです。
杉浦の子供も可哀想に、この上の神社のお賽銭が失くなった事があり、あっと言う間に噂で『杉浦の倅がやった』と誰かが言って、其れで広がって、私は杉浦から聞かされていたのは『絶対息子ではない』と言う言葉で、可哀想にと思いました。息子さんにも聞きましたが、知らないって言っていました。
いやぁ、折角楽しみにしていた鮎釣りに来られたのにこんな話をしてしまって、」
「いえ、こちらこそ。そうなのですか?人は見かけや噂だけで判断してはいけないですね。嫁の父親も山仕事をしていてあんな大層な事故を越し、本家の春子さんから見ると、きつい事を言う性格に成ったようですが、杉浦さんの事をどんな言い方をしていたのか・・・」
「そうですね。春子さんはそんな事よく言っていましたね。やりにくそうに。でも他の人はともかく春子さんにも倫太郎さんにも、お父さんは従順だったと思いますよ。二人とも優しかったから。」
「それで杉浦さんの息子さんは、今はどうしておられるのですか?」
「いやぁ立派なものですよ。飯田市でお好み焼き屋をやっていて繁盛しているようですよ。賽銭泥棒と言われたあの子が・・・随分前からやっているようですよ。」
「でも噂とは裏腹に実は真面目な人かも知れませんね。」
「ええ、その様に思いますよ。私なんか特に親子を知っていますから。ただたった一度でも間違った事をすると、それが親父の方でも息子の方でも、田舎では一瞬にして広がり、決して許して堪えないですからね。」
「でも息子さんが成功していてよかったですね。嫌な噂にも負けずに」
「ええ、親父も浮かばれると思いますよ。」
ところがそんな話を井村さんから聞き、杉原良助の息子伸介が、事業に成功した事を知った隆は、複雑な思いであった。
妻美香と一緒に考えた推理は見事覆され振出しに戻っていた。
元刑事野平順平も一向に連絡して来る素振りもなく、いよいよ事件は闇に包まれたままで晴れる事の無い出来事に成る様に思えてきた。
ところで鮎は全く追わず掛かりそうにもない。立派な竿を手にしながら、不甲斐無い腕に苛立つ思いであったがこればかりは仕方ない。
周りの連中はコンスタントに鮎をかけている。見るからにベテランと言わんばかりの連中である。何十年同じ事をして来たか、計り知れない。隆は竿を置き岩井の矢代さんを見つけて近付いて行った。
「師匠、こんにちは。さっぱりです。全く掛かりません。」
「掛からない?」
「はい」
「こんなに掛かっているのに、あんた掛かり過ぎて休んでいるものと私は思っていたのだけど、長らく井村さんと話をされていたから」
「いえ、まったく」
「掛からないって?私の竿を持って見て、」
「はい」
「それで軽く引きながらじっと待って、駄目ならまたそっと引き」
「あっ来ました。ガガーンと手元に」
「掛かった?掛かったね。鮎釣りなんて簡単だから掛かるよ。」
「どうして俺のは掛からないのでしょう?」
「下手だからだよ。良い竿持って、恥ずかしいね。」
「なるほど、旨いものですね。やっぱり」
「今と同じ事をすればいいから・・・簡単だから」
「はい」
そうこうしている間にまた大勢の釣り人が集まってきて大騒ぎになってきて、隆は慌てて酒屋へ行き、ビールとおつまみを両手に抱えてみんなの元へ戻ってきた。
「皆さん飲んでください。去年御馳走に成ったお礼です。今日は解禁日、お祭りでしょう?」
「そうだよ。鮎もいくらでも掛かるから、解禁日は特に楽しいなぁ」
「それが幾らも掛からない人も居るようだよ。」
「そんな人いるの?顔を拝みたいな」
「あんたにビール配っている人」
次話に続きます
お疲れさまでした。
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