二
深夜、俺は泥だらけになって街の防壁前まで戻って来た。
何とか森を抜けて街に辿り着いたはいいものの、この時間には門は閉ざされ、街に入る手段が無い。
壁を乗り越えようと思えば出来なくも無いが、余計な疑いをかけられては面倒だ。
俺は仕方なく外壁の隅にもたれかかり、深く眠らないように気をつけながら目を閉じた。
朝になった。
無事に夜を越せた俺は街の中に入ると、最低限の汚れを落とし、食事処へと向かった。
目の前にこんがりとした鶏の丸焼きが置かれ、俺はそれに勢いよくかぶりついた。
シンプルに火を通しただけの鶏肉ではあるが、噛むと口の中に肉汁が溢れ、焦げ目の香ばしい香りが鼻に抜ける。
確かにうまいが、今食べたいのはこれではない。
俺は骨ごと鶏の丸焼きを平らげると、フラフラと街の中を歩き出した。
辺りの街並みを見回してみると、家の前を掃除する住民や、笑顔で呼び込みの声を上げる商売人の姿が視界に入ってくる。
あの味が、まだ口の中に残っている気がする。
やむを得ない状況だったとはいえ、俺は人を食べてしまった。
それも命の恩人を、助からないと見限ってだ。
罪悪感や自己嫌悪の感情が頭の中で渦を巻き、不安で心臓を締め上げられるような感覚がある。
だが、それを差し置いて俺の頭に浮かぶのは、人間の血肉の不思議な味だった。
今まで食べた事のないような独特の風味に、塩気の効いた肉の食感がありありと思い出される。
もう一度、食べてみたい。
俺は吐き出すように唸り、道端にうずくまった。
通行人が驚いてこちらを一瞥し、早足に距離を置いた。
馬鹿げている、人が人を食べたいなんて、許されるはずが無い。
俺は内側から湧き上がる欲望と理性のせめぎ合いに堪え兼ね、頭を抱えて掻きむしった。
そうだ、自分の好きにしていい人間なら食べてもいいんじゃないか?
俺は人として考えられない結論を出すと、ある場所を目指してふらふらと歩き出した。
熱に浮かされたような気分のままやって来たのは、以前話に聞いた事のある、奴隷商の店だった。
簡潔に言うと、この世界の奴隷に人権は無い。
金に困った近親者に売られた者や、犯罪者などが奴隷として身をやつす事になる。
店の主人は俺を見るなり、よくある性欲を持て余した若人がやって来たと決め付け、注意事項のようなものを教えられた。
金があるなら誰でも性奴隷を買えるが、所詮子供では人一人を世話するのは無理だろうから、飽きたら手遅れになる前に返しに来いとの事だ。
俺が言われるままに唯々諾々と頷くと、奴隷商は鼻を鳴らして奥に案内してくれた。
部屋の中には首輪をはめた女が数人座り込んでおり、人が入って来たのに気付くと、伺うように俺と奴隷商の顔を交互に見た。
好きな女を選べ。
奴隷商がそう言うと、女達から数人が俺の元へ集まって来た。
好きにしていいから連れて行ってくれという年増の女に、日に数度外に出してくれるなら何でもするという少女。
俺は時折奴隷商に価格を聞きながら、ある女を選んだ。
良くも悪くもない顔立ちに、痩せた手足。
おまけに奴隷商が言うには喋れないらしく、この中でも一番の安値という事だった。
俺はその女を購入すると、街の中心部から程遠い拠点に帰って来た。
ここはコールズ達が拠点として購入した民家だが、主がいなくなってしまった以上、俺が好きに使っても問題はないだろう。
買ってきた女を座らせると、俺は品定めするような目でじっと見た。
安かったはいいものの、手足は細いし、あばらも浮いていて食い出が無さそうだ。
食べる前に、少し太らせた方がいいかもしれない。
俺はなんとなく回復薬を取り出すと、女の手に握らせた。
これは荷物持ちとして俺が預かっていた、パーティ共有の財産だが、あの時毒に侵されたコールズには効き目が無く、半分程使ったまま持て余していたのだ。
女は握らされた小瓶を不思議そうに見つめると、俺の顔を伺いながら一口飲んだ。
女は目を見開くと、信じられないという顔で小瓶と俺を交互に見た。
回復薬は値段が非常に高く、庶民では手が出ないような高級品だ。
俺は日光にあたれば大抵の怪我は治るので、使う仲間もいない今、奴隷に使ったとしても何ら惜しくはない。
不意に奴隷の女が涙をこぼし、地面に擦り付けんばかりに頭を下げた。
俺は面食らって呆然とし、身振り手振りで感謝を伝えてくる女を見ていると、次第に頭が冷えていくような感覚に陥った。
お前、料理は出来るか?
俺がそう問いかけると、女はこくこくと頭を上下に振って頷いた。
しばらくして俺の前に並べられたのは、見るからに美味そうな料理の数々だった。
どれもシンプルで庶民的な料理だが、この世界に来て食べた料理で一番美味しいと感じた。
頭の片隅に僅かに残る母の手料理の味が思い出され、思わず涙が出てきてしまった。
ひとしきり食べて満足した所で、立ったままこちらを伺っている女に気が付いた。
俺が一緒に食べるように促すと、女は恐る恐る一皿のスープに口を付けた。
こんな有用な人間を、ただ食べてしまうのは勿体ない。
俺が女に名前を聞くと、テーブルの上に指先で"パル"と文字を書いた。
俺はパルを食べるのは保留にして、しばらくは専属料理人として働かせる事にした。
奴隷を購入してから数日後、俺は街の外壁付近の森を散策していた。
あれから食人衝動も大分薄まり、日々パルが作る料理を楽しみに冒険者生活を続けている。
あの時の自分はどうかしていた、さっさと忘れてしまうに限る。
俺が香辛料代わりになりそうな木の実を採取していると、どこからか悲鳴のようなものが聞こえた気がした。
声の聞こえた方に森を進んで行くと、長大な蛇の魔物が何かを襲っているのが見えてきた。
あれは確か、青大蛇という魔物だったか。
何度か遭遇して倒した事はあるが、あれだけ大きいと骨が折れそうだ。
幸い魔物は獲物に夢中なようで、こちらには全く気が付いていない。
俺はこっそりと背後に忍び寄ると、魔物の細長い首に飛び付いた。
不意打ちに慌てた魔物は俺を振り落そうとするが、しっかりと首筋に指を食い込ませてしがみ付き、そのまま肉を抉るように腕を突っ込んだ。
やがて指先が硬いものに触れると、それを掴んで思い切り引き抜いた。
首に穴を開けられた上に、頚椎を引き抜かれてしまった魔物は倒れ伏し、しばらく痙攣した後に動かなくなった。
魔物が事切れたのを確認すると、襲われていた誰かに目をやった。
そこにはうずくまって震えている少女がいた。
下腹部を自らの小水で濡らしており、その目は恐怖と安堵が入り混じった色が浮かんでいる。
面倒くさいし、放置しよう。
俺は魔物の頭を抱えると、それを引きずったまま水場に向かって走り出した。
後ろから呼び止めるような声が聞こえた気がするが、無視して足を早めた。
街はそう遠くないし、一人で歩いて帰れない事もないだろう。
別に人助けのつもりで助けた訳ではなく、単純に青大蛇の肉の味が気になっただけだ。
早く水場で血抜きをして、ついでに返り血で汚れてしまった服を洗い流したい。
しばらくして小川に到着すると、引きずってきた魔物の頭をもぎ取り、水に浸しながら解体用ナイフで下処理を始めた。
大抵の魔物であれば、素手で殺せるようになった。
剣や弓なんかも見よう見まねで使ってみたが、安物ではすぐに壊してしまうので、魔物の肉を食らう内に強固になった手足で仕留めた方がコストが安く済む。
パルは、魔物の肉もそれなりに上手く調理してくれる。
簡単に壊れる武器よりも、彼女専用の高価な調理器具を揃える方に注力したので、硬い魔物の肉もサクサク調理してくれる。
この青大蛇も、さぞ美味い料理に変えてくれるに違いない。
上機嫌で魔物の腹を切り裂いて行くと、パンパンに膨らんだ腹わたがずるりとこぼれ出た。
その腹わたを取り外すために持ち上げようとすると、元が巨体だったとはいえ、やけに重い。
まとめて取りはずそうと思ったが、仕方ないので分割するために内臓の一部に刃を入れた。
どちゃりと嫌な音を立てて、内臓の中身が出てきた。
中身は人間だった。
思わず口を押さえて後退り、水底の苔で滑って背中を打った。
水を被って頭が冷えた所で、その人物を観察する。
その男性は見た目が綺麗な事から、まだ捕食されてから時間は経っていないらしく、念の為に脈や呼吸を確認したが、既に事切れていた。
魔物が人を食べる事は実際に目の当たりにしたが、まさか食べようとした魔物の腹から出てくるとは予想外だった。
これは一体どうしたらいいのだろう。
食べてしまおうか?
どうせ魔物の腹の中で消化される運命だったのなら、それを横取りした所で同じことではないだろうか。
薄まっていた仄暗い欲望が再び湧き上がり、俺は男の全身にまとわりついた魔物の粘液を洗い流した。
自分の鼓動がやけに大きく聞こえる中、男の亡骸に歯を突き立てた。
口の中に血が流れ込み、鉄臭い香りが鼻を抜けた後、脂がじわりと舌にまとわりつくような感覚を覚えた。
何とも喩えようが無いが、確かに美味い。
誰にも見られていないのをいいことに、俺は人の肉を思う存分貪った。
殆ど食べてしまった所で、ふと我に返った。
青大蛇は既に血抜きが済み、川の水で肉も程よく冷えている。
その巨体を持ち運びしやすいように、半分以上をこの場で食べる事にした。
やはり人の肉と比べると、魔物の肉はどこか物足りない。
コンパクトになった魔物の肉を担ぐと、僅かに残った人肉を袋の中にしまった。
この場で全て食べても良かったのだが、もしこれを調理すれば、もっと美味しくなるのでは、という好奇心が湧いたからだ。
俺は拠点に帰ってくるなり、パルに獲物の調理を頼んだ。
人肉は何も言わずに青大蛇の肉と一緒に渡したので、多分気がつく事はないだろう。
パルを騙すようで気が引けるのが、自らの好奇心には逆らえなかった。
パルは言われた通りに、渡された食材で料理を作った。
彼女は特に何かに気が付いた素ぶりは見せなかったので、何かの魔物の肉とでも思ったのだろう。
人肉料理の味は俺の期待通り、未知の味を体感させてくれた。
恍惚としながら料理を味わう俺を、パルはいつもと変わらない表情で見つめていた。
この日、パルは食事に手を付けなかった。