八十六のお話
進めば進むほど、息が苦しくなってくる。時々意識が飛びそうなこともある。
私は一生懸命歩く。
呼吸がしづらくて苦しい…全身が重くて痛い……
ボヤける視界…目をこすりたくても手が動かない。私は今、立っている?
「……い…。……よ…」
すすり泣く女性の声…
「お…母…さん…?」
私は絞り出すように声を出した。
「!?」
私の後ろから物凄い突風が吹き、私は少し高い場所から倒れ落ちた。この風は…死神さんの風…。バタッと倒れたが、体をぶつけた痛みはなく誰かに支えられた感じがした。
「美月!!」
私はどうにか体を起こし、声のする方を見た。
長い茶色の髪、クリーム色の長いスカート…
「お母さん…」
涙を流す母がしっかりと見えた。母はなんとも言えない表情で私を見ている。
「あのね…今までお兄ちゃんのとこにいたんだ…」
私の口は勝手に動いた。あぁ…こんなこと言ってしまえば、また母に打たれてしまうかもしれない…
母はずりずりと私に近づいてくる。
「そうなのね…でも…ちゃんと戻って来てくれたのね…」
「…へ……?」
母は私を打つどころか、私をとても優しく、大事そうに抱きしめた。母の温もり、何年ぶりだろうか…こんなの……
「ごめんね…ごめんね…あなたは…私の大事な子よ……今まで…散々酷いこと言ったりして…本当にごめんなさい……こんな私のところに…戻って来てくれて…本当にありがとう…」
オレンジ色の夕焼け空の下、母は私を抱きしめ泣いた。それも小さな子供のように大きな声で…
あのとき不思議の世界で見た母は、どうやら本物だったらしい。こんな優しい母、本当に久しぶりに見た…
「お母さん…」
「許してなんて言わない…一生恨んでていい……でも……図々しいかもしれないけど……私は…ずっとあなたの母でいたい…」
恨むわけないじゃないか…どんなに酷いこと言われても、どんなに打たれても…母は母、私の、たった一人のお母さんなんだから…
「恨んでないよ…お母さん…お母さんは…ずっと私のお母さんだよ…」
母の涙は私の背中を濡らしていく。とても、暖かい涙だ。
「みぃちゃん……」
優しい母は私の名前を呼んでくれる。夢じゃ…ないよね…って思うくらい嬉しいや…
私の意識はどんどん薄れていく。もう少し…こうしていたいけど…この世界には時間がある…時間はどんどんすぎていく……私はゆっくり意識を失った……
ピーヨピーヨという、よくいる鳥の声で私は目を覚ました。目の前に広がるのは真っ白な天井。それと真っ白なベッドに真っ白な枕。私の左側には、点滴のあれが見えた。これは病院のベッドだろう。
私は体を起こし、右側の大きな窓の外を眺めた。雲一つない綺麗な青空が広がっている。
正面にはテーブルとソファー、テレビまである。病院の一人部屋…少し怖い…
「あ…」
私はいつのまにか病院着を着ている。あの可愛いアリスの服ではなくなっている。それと…
「デイ!!」
クマのぬいぐるみのデイが私の隣に寝ていた。あのときみたいに大きくなく、ちょうどいいサイズに戻っていた。
「そうか…もう喋らないよね…」
少し寂しい気もする。でも、こうやって私の近くにいてくれるだけで元気になれる。
「あれ?」
デイの腕に、縫われた跡があった。そうだ、デイはあのとき壊されてしまったんだ。でも…誰が…?
「わあ…」
デイの背中を見ると、一枚の美しい模様のトランプが貼りついていた。それを取って表を見ると、綺麗な字で何か書かれていた。
『あのときはごめんなさい。全部ちゃんと直しました。』
これはきっとチェシャ猫が書いたのだろうと思い、少し面白くなった。デイの顔も、笑っているように見える。チェシャ猫は真面目だからな…
「チェシャ猫…ありがとね」
私が小さく呟くと、向かい側のカーテンがフワッと揺れた。窓も開いていないのに…とても不思議だ。きっとみんなが近くにいるのだろう。
「あっ、出雲さん!起きて大丈夫なの!?」
ガラリと扉を開けて、小太りの優しそうなナースさんが入ってきた。そして私の方へ近づいてくる。
「もう勝手に外へ出たりしたらダメよ!!」
「私…外に…?」
ナースさんは不思議そうに私を見て「覚えてないの?」と聞いた。
私は頷き、首を傾げた。
「出雲さん、突然目を覚ましていなくなったのよ。身も心もボロッボロなのにどっか行っちゃって…そして、神隠しにあったみたいに何日も見つからなくて…大変だったのよ」
「ほへー…不思議の世界に行ってたからかな…」
「不思議の世界?」
ナースさんはまた不思議そうに私の顔を見た。
そうか、私以外不思議の世界のことを知らないんだ。話してもきっと見ていた夢だって言われるだろう。あれは夢なんかじゃない…
「秘密〜」
私がそう言うと、ナースさんは「なんじゃそりゃ」と言って笑った。きっと私は変な子だって思われただろう。
「そうだ、仕事に戻らなきゃ…。目を覚ましたって先生に伝えとくね〜」
ナースさんは扉をゆっくり閉めて出て行った。
変なところ後で直します。




