七十九のお話
どうしよう、どこに行けばいい?
きっと兄は追ってくるだろう。そうだ、チェシャ猫はどこへ行ったのだろう。
私は角を曲がり、窓のない赤い廊下を走る。飾られている薔薇のいい香りが広がる。シャンデリアの優しい灯りだけが道を照らす。
ガキィィン
一瞬何が起こったか分からなかった。
大きな音、私のちょうど首の位置から、数ミリ先に剣が現れた。いや、現れたんじゃない、壁に突き刺されたんだ。そして、右側には涙を流す兄がいた。
「お願い……逃げないで……」
私の頭はやっと働き出した。そうだ…今…
兄に殺されかけたんだ…
『王子様は私を殺そうとしている』これは、本当のことだったようだ。だから…もう二度と元の世界に戻れないかもしれないって…言ってたのも…
「もう…離れたくないんだ……ひとりぼっちじゃ……寂しいじゃないか……」
私が、今ここで兄に殺されれば、私は本当のこの世界だけの住人になるんだ。辛いものも全て捨てて、ただただ幸せになれるんだ。…でも…
「私は…帰らなきゃいけないの…やらなきゃいけないことも…いっぱいあるの…」
「ダメだ…」
「お兄ちゃん……私……死ぬのは怖いよ…」
「…大丈夫だよ…?全然…怖くないからさ…」
今の兄には、何を言っても駄目そうだ。私を帰さない、それしか考えていないようだ。
「僕は一度『死』を経験した。死ぬ瞬間ってね、すっごく時間がゆっくりなんだぁ。痛み、恐怖、色んな感覚…そういうのが全部なくなるの。『幸せ』…ただそれだけが見えるんだ…あの醜い世界から…やっと逃げられるんだって…すごく…幸せだった…」
止まらない兄の涙は、赤い絨毯の上にポタポタ落ちる。
「でも一つだけ……みぃにもう会えないって思うと…本当に…本当に辛かった。だから…また…みぃに会いたくて…会うために…最後の力で不思議の世界を開いたんだ…」
「…ぇ…?」
難しい話、分からないよ…
考えることが出来ない…
「僕はここで…君を見ながらずっと待ってた。あの灯油缶を…爆発させたのは僕なんだ…」
「…な…なん…で…」
「…君を…ここへ連れてくるため……、それと…奴らをここへ引きずり込んで罰を与えるため…。ああするしかなかった…」
どうやって爆発させた?どこで見ていた?…聞きたいことがどんどん生まれる。聞くべきか、聞かない方がいいのか…それすらもう分からない。
「でも…」
「僕は絶対君を帰さない!!」
ダメだ、逃げなきゃ…
私は壁に突き刺された剣の下をくぐって素早く逃げる。
「みぃ!!」
聞いちゃダメ…立ち止まっちゃダメ…
私はひたすら走る。お城の奥の扉…早く帰る為の扉を探そう…
先をよく見ると、道がY字に分かれている。迷路のようなお城だ。
私は右の方へ曲がった。どうか行き止まりじゃありませんように…
「えっ…」
まさかの行き止まり!?……じゃない。
奥をよく見ると、壁ではなく扉が見えた。この扉の先にも道があることを願い、私は急いでその扉を開けた。
「あっ、鍵かけれる…!」
私はすぐにその扉の内側から鍵をかけ、前を見た。
「うわっ!!う…うさぎさん…?」
私の足元にあの赤い耳のうさぎがポツンと立っていた。そして、私をじっと見ながら口を開いた。
「安心して…ここは誰も来ない…」
「ほ…本当に?」
うさぎはコクンと頷いた。私はまだ周りを警戒しながら壁に寄りかかって座る。
「どうしよう…私…殺されちゃう…」
「…みぃは…ここが嫌い?」
「ううん、違うの。私…お母さんが帰りを待ってるみたいだから…帰らなきゃいけないの…」
うさぎはとても悲しそうな顔で、首からさげたグニャグニャの懐中時計を見た。
「親なんて…放っておけばいいじゃないか…。帰っても…どうせ…君を…メイドさんみたいに使うだけ…」
「…そうかもしれないけど……。あっ、そうだ、それよりあなたは誰なの?」
「僕は…僕は…」
うさぎは懐中時計をぎゅっと抱いて小さな声で呟いた。
「出雲蒼馬の……千切れた『闇』…」
「…やっぱり…お兄ちゃんなんだ…」
うさぎは少し驚いた顔で私を見た。どうして驚かない?どうして自分から逃げようとしない?…きっとそんなことを思っているのだろう。
「でも…千切れたって…何?」
「それは…、この世界を開いたとき、自分の悲しいと…怒りの感情も同時に大きく膨れ上がったんだ。それで…入りきれなくなった感情が千切れたの。それが…僕さ…。自分であって、自分でない…そんな感じ…」
じゃあ、私はこのうさぎさんのこともお兄ちゃんと呼んだ方がいいのだろうか?でも、今更そう呼ぶのは変かな…
「あのとき…不思議の世界は少し狂った。いつもの楽しいだけの世界じゃなくて…悪いアリスたちをどうやって殺すか…そればかりを考える世界になったんだ。チェシャ猫が一番変わってしまったよ…」
「チェシャ猫が…?」
「うん…、ものすごく怖い人になっちゃったんだ。自分の…本体と共に…」
うさぎは語るのが辛そうだ。これ以上聞かない方がよさそう…
「うぅ…僕だって…本当は分かってる…。君は元の世界に帰らなきゃいけないって……でも…君がこの世界からいなくなってしまったら…きっと…僕らは忘れられて消えちゃうんだ……寂しくて…寂しくて…」
「ううん、そんなこと絶対ない。忘れるわけないじゃない?こんなに幸せでいっぱいの世界…楽しい思い出もいっぱい作ったこの世界…忘れるわけ…ない!絶対忘れないもん!」
うさぎは私の目をじっと見つめた。そして、持っていた懐中時計を私に見せた。
変なことろ後で直します。




