手記(斜視のゆくえ)
初めまして、ゲロ豚と申します。
がんばって書きました。よろしくお願いいたします。
私は、自分がとても美しい形姿をしているということには理解がありました。
顎は細く、瞳は切れ長で、顔を縦に割ってしまいそうな鼻筋がすっと通っていました。四肢はすらっと伸びて、上背は男子よりもあり、それはそれは、見る者を魅了するシルエットであると自負しておりました。
しかし、ご存知のとおり、私は極度の斜視でありました。
それを“欠点”だと断じてしまうことには、ともすれば、私と同じ境遇の方からのご批判が伴うことは重々承知しております。けれども、それを“個性”だと崇め奉るだけの懐の深さも、到底持ち合わせてはおりませんでした。
その上、悪いことに、私の母はため息が出るほどの阿呆でありました。
母は、ことあるごとに“ごめんね”と言って私の頭を撫でました。ことあるごとに、と言うのは、私の身によくないことが起こるたびに、という意味合いであります。
たとえば、小学校からの帰路、転んで膝小僧を擦りむいた日。たとえば、運動会で思うような成績を奮うことができなかったとき。または、私が俯きがちに家の敷居をまたいだ日など。決まって母は、“ごめんね”と言いながら私の頭を優しく撫でるのでした。
思い返してみても、やはり、怒りが沸々と湧いてくる愚かさであります。
要するに母は、私の身に降りかかる益ならぬもののすべてを、この斜視の両肩に乗せていたのです。面白くないものはすべて斜視のせいにして、そうして自分は理解のある母親を演じ、少し物憂げな表情で私の頭を撫でることで、ヒロインチックな気分に酔っていたのです。
もちろん、この目でありますから、たしかに私の視力が完全無欠だということはありません。ふとした時に足元がぼやけて見えたり、運動会の玉入れでうまく狙いが定まらなかったくらいのことは日常茶飯事でありました。しかし、当の私自身が、そんなことはまるで歯牙にもかけていなかったのですから、やはりそれは、母の愚かなエゴイズムだと言うほかないのでしょう。
当時九つであった私にとっての最たる厄災は、やはり、外見の問題でありました。
私は、斜視であるということが、私の美しい形姿のすべてを台無しにするわけでないことは理解しておりました。しかしそれでも、私に物心というものがついて程なくした頃には、私はろくに鏡を直視することができない人間になっておりました。いくら、心の中で阿呆だなんだと嘲笑ってみても、やはり当時の幼い私にとって、母親とはそれなりには絶対的な存在であって、その母が暗に否定する斜視というものが、私の中でもこの上なく忌み嫌うべき対象に育っていたとしても、なんら不思議ではないのです。
しかし、しかしそれでも、です。
斜視というものが、私の中で黒々とした大樹に育っても、その大樹は、しょせん、私の人生を揺るがすほどの力は持ち得ませんでした。
外見の良し悪しで他人との格付けを図るなどということが、まずもって、大いに恥ずべき行為であるからです。
たとえば、私の父は私立大学の教授でありました。そのことが、まあ、世間一般的に見てかなり恵まれた環境であることを、私は幼心に理解しておりました。もし、今とは違う境遇の人生があったなら、たしかにその場合の私は真っ当な目を授かっていたかもしれませんが、一方で、父はフリーターで生計を立てていたかもしれません。ワイドショーを賑わせる殺人鬼でないとも限りません。
ここではあえて、そのうちのどれが最も幸せなのかということには言及いたしません。ただ、私の父は大学教授でありました。家はちょっとした豪邸で、なんら不自由のない生活をさせていただきました。そして、私は斜視だった。ただ、それだけのことでしかないのです。
しかし、歳の割には達観しすぎなその性分は、けっして、私に益をもたらすばかりではありませんでした。
まず、私には、友人と呼べる存在がただの一人もありませんでした。
大袈裟でなく、同級生などは、ジャガイモやタマネギくらいのものにしか思えませんでした。
今になって思えば、それは一種の防衛本能であったのだろうということが分かります。
私は、周囲の人間たちを見下すことで、自分という存在を遥か高みに置くことで、自分の身を守っていたのです。この目について嫌がらせを受けたことなど、一度や二度ではありません。しかし、それも、相手がジャガイモということならば叱る気にはなりません。なぜなら、彼らは頭が悪いのです。ならば、人の身体的特徴、それも障害の類であるものを嘲笑うという、この世で最もおぞましい行為に彼が手を染めたとしても、やむをえないことなのです。
そのように考えることで、私は私の自尊心を守っていました。
しかし、どんな嫌がらせを受けても、しょせんは阿呆のすることだと切り捨てることで精神の安定を得たかわりに、誰にも心を開くことができない、歪な人間が出来上がってゆきました。
転機は、十一になった春でした。
父の栄転に伴い、私は学び舎を他に移すこととなりました。とはいえ、だからと言って浅はかな期待を抱くほど、愚かな子どもではありませんでした。もしかすると、転校先は、今よりもいい環境なのではと。もしや、友人というものに恵まれるのではなどと、そんな期待で胸を躍らせるほど、頭の悪い子どもではありませんでした。
結論から申し上げますと、新天地でも、私の立ち位置はさほど変わりませんでした。
なにしろ、他ならぬ、私自身の心根が腐りきっているのですから、周囲の環境どうこうという問題ではありません。転校先でも、やはり私は、同級生たちを一歩外から、いえ、一歩上から、達観した視線で眺めておりました。そうして、心を開かず、または開かれず、時折嫌がらせを浴びたとしても、阿呆のすることだからと切り捨てて、精神の平穏を保っておりました。
しかし。
転校先の学級には、ひとつ、これまでとは大きな違いがありました。
特筆すべき、大きな大きな、環境の変化でありました。
転校から数日が経つころ、私は、ジャガイモだらけのクラスの中で、ひときわ耳障りな笑い声を上げる女がいることに気がつきました。腹の底から汲み上げてきたような、甲高くて、ばかにうるさい、本当に耳障りな声でした。
そいつは一体どんな顔をしてやがるのだろうかと、珍しく他人に興味を示した私が声の主を振り返ると、そこには、お世辞にも美人とはいえない女の姿がありました。なんだか笑いを誘うような丸顔で、鼻も団子のように大きく、まるで知性を感じない風貌でありました。そいつが、顔をしわくちゃにして、何度も何度も、あの甲高い笑い声を鳴らしているのでした。
私はいささか苛立ちを覚えながらも、むろん、そのことを本人に伝えたりなんてことはなく、女から視線を外そうとしました。
その、刹那。外しかけた視線の端で、私は、とんでもないものを目の当たりにしました。けたたましく笑っていた女が、やがて声を沈め、顔いっぱいに湛えていた笑みを解くと、そこには、とても見慣れた顔がありました。思わず私は、絵に描いたような“二度見”をしてしまったものでした。
女は、極度の斜視でありました。
その光景は、青天の霹靂のように私の身体を貫きました。
私と同じ目を持っている女が、こうも自然に学級に溶け込み、心から楽しそうに笑っている。それは、私からしてみれば到底信じがたいものでありました。いや、信じたくないものでありました。いやいや。それは決して、あってはならないことでした。
なぜならば。
私はそれまで、己の不遇を斜視のせいにしている節がありました。そのことを母の影響だとするのはいささか卑怯かもしれませんが、私自身、己の身に降りかかる益ならぬもののすべてを、斜視の両肩に乗せることで安心しようとしている節がありました。
悪いのはこの斜視であって、私自身にはなんら問題がない。そう考えることで、なんだかすっと気が楽になるのを感じていた自分がありました。
しかし、です。
現に、いたのです。私と同じ目を持っていながら、私のような陰鬱さをまるで感じさせない、太陽のように笑う女が。動悸がして、うまく息ができない自分がありました。その女の存在を認めることは、つまり、己の存在を否定するに等しいものがありました。
私はこのとき初めて、己の腹の底から“怪物”が右手を伸ばしてよじ登ってくるのを感じていました。それは、嫉妬という、あまりにも強大で、己の意思ではまるでどうにもならない、遥か恐ろしい化物でありました。
こいつにだけは、負けたくない。
私は初めて、強く、そう願ったのです。
そこから先は、筆舌に尽くし難い愚かさでありました。
女は、名を島津恵美子と申しました。私は島津に勝ちたいと心の底から願いながら、島津と同じように、周囲の人間と楽しく過ごしたり、笑ったりということはまるで想像ができませんでした。
であれば、島津に、私と同じ地点まで堕ちてきてもらうほかないと考えたのでしょう。私は島津に執拗な嫌がらせを浴びせたのです。
靴を隠したりもしました。教科書を水浸しにもしました。算数のノートいっぱいに『死ね』と書き殴ったりもしました。私自身、嫌がらせの被害者となる経験は豊富にありましたから、レパートリーは多岐に渡りました。
そうして、私は小学校卒業までの二年間を、島津への嫌がらせばかりに執着するという、あまりにも愚かな時間の使い方をして過ごさせていただきました。今になってみれば、始めから分かりきっていたことではありますが、そんなことで、私の島津に対する劣等感はまるで解消されやしませんでした。むしろ、私の嫌がらせに相対しても強くたくましい島津の姿を見て、ますます劣等感を募らせる始末でありました。
しかし、ついに迎えた卒業の日。私は、それまでの半ば遊びのような嫌がらせ(こんな言い方は、私にとってあまりにも都合のいいものでありますが)とはまるで違う、それこそ筆舌に尽くし難い、悪魔の所業を島津に下しました。本当に、今でもそのときのことを思い返すと、果てのない後悔が視界を覆い、嫌な脂汗が背中を走るのです。
卒業式終了後。私たちは、一度帰宅したのちボウリング場に集合するという段取りになっておりました。
これを最後の機会と踏んだ私は、島津が学校から帰宅し、再び出発するまでの時間を見計らって、島津の家に一本の電話をかけました。目論見通り、受話器からは島津の声が聞こえて参りました。
「ああ、島津さん? 福富やけど。なんかな、今日の会場、変更なってんて。十四時半に駅前集合だってな」
私は、島津の返答をきちんと聞かずして、殴りつけるように受話器を置きました。声がわずかに震えていたのを、島津が察していたのかどうかは今でも分かりません。
むろん、会場が変更になったなどという事実はありません。私は、島津が3月の駅前で凍えながら待ちぼうけになればよい、と思って、そんな誤報を伝えたのでした。
まだ携帯電話を持つ小学生などいない時代でありましたから、そう簡単にはバレないだろうと踏んでいました。また、ボウリング場は島津の家を挟んで駅前とは正反対の位置にありましたので、もし、少しして島津が私の言葉に疑いを持ったとしても、小学生の女の子がおいそれと行ったり来たりできる位置関係ではないことも私の計画のひとつでした。
もはや、あとは野となれ山となれという心境でした。
私は学級のジャガイモたちとは違って私立の中学校への進学が決まっておりましたので、どうせ二度と会うことはないというつもりで、そういう大胆な行動を起こしました。むろん、私は、ボウリング場と駅前の、そのどちらにも行きませんでした。ただ、自宅にこもって小学生最後の日を過ごしておりました。
それから月日は流れ、私も姿形だけは大人になりましたが、あの日以来の人生がいまいち見どころのない陰鬱としたものであることなど、わざわざ言及するまでもありません。
なんとなく大学を出て、なんとなく就職に至りましても、いまだに心を許せる人間など一人もおりませんでした。それどころか、就職前日の夜になっても、枕元に島津の姿を浮かべる有様でした。
私は、ひどく後悔しておりました。
これまた卑怯な言い回しになりますが、十数年という年月が、若気の至りを後悔できるくらいには私を成長させていました。
どうしてあんなことをしてしまったのだろうかと、歳を重ねるに比例して、己を責める夜の数は増えてゆきました。
“どうせ二度と会うことはない”ということが、そっくりそのまま、己を縛り付ける枷となっていたのです。
ある日突然島津の元を訪れて、その足元に額を擦りつけることができたなら、どんなに楽であろうかと想像を及ばせたこともあります。あの日以来の島津の人生に思いを馳せてみて、一人わけもわからず涙を流してみたこともあります。
もしもタイムマシンなるものがこの世にあって、あの日のあの場所に足を運ぶことができたなら、小学生当時の自分を殺してやりたいとも思いました。
そして、それからさらに数年の時を経たのち、その時は訪れました。
終電間際の地下鉄駅。残業に疲れた頭でぼんやりと時計の針を眺めていると、不意に私を呼ぶ声がしたのです。島津でした。声も、顔も変わってはおりましたが、一つだけ、変わらないものがありました。あえて、それがなにとはわざわざ申し上げませんが、間違いなく、島津でありました。
私は、いろいろな、伝えたかったことのすべてを飲み込んで、一も二もなく、島津を近くの居酒屋へと連行いたしました。ほとんど、拉致に近いものがありました。
そうして、二人並んだカウンター席で、山のような謝罪の言葉を述べるよりも早く、衝動的に口から言葉が飛び出しておりました。
「島津さんは、なんで、そないに楽しそうにできるん?」
私と同じ目なのに、とまでは申し上げませんでした。
ですが、島津は、私の言葉の意を汲み取ってくれているようでありました。困ったような苦笑を浮かべながら、私の言葉をゆっくりと飲み込んでいるようでありました。
そして、静かに、口を開きました。
「うちやって、別に、この目のことを気にしてないわけちゃうよ。楽しいことばかりやないし、嫌なことやって、やっぱり死ぬほどあったよ。福富さんとおんなじや」
やはり、島津は私の言いたいこと、問いたいことのすべてを理解してくれていました。
「そんなら、なんでよ? ほんまに、わからんのよ」
すると島津は、ふっと笑みを零して、両手の人差し指で、両の目尻を引っ張るようにして下げてみせたのです。
「笑ってもうたら、目ェが縦でも斜めでも、ようわからんくなるやろ」
――それは、撞木で頭をぶん殴られたかのような衝撃でありました。
島津は、決して、能天気な阿呆ではなかったのです。私と同じ、いやむしろ私以上に、斜視という己の欠点と向き合って、前向きに生きる術を懸命に編み出していたのです。
斜視だから、笑う。
それは、私などには及びもつかない発想でありました。
同時に、私は、私という人間の矮小さやくだらなさというものを、嫌というほど痛感させられました。私は、心の中で、“負けました”と唱えておりました。何度も、何度も。繰り返し、唱えておりました。
そうして、ぽろぽろと溢れそうになる涙を、歯を食いしばって、どうにか止めてやろうと目論んでおりました。
泣くことで、涙を流すことで、ややもすると己の罪が少しでも軽くなってしまうことが、到底許せませんでした。この、島津という女には、日を改めて、まっさらの素面で、きちんとした謝罪をしなければ、と、私の最後の小さなプライドが叫んでおりました。
けれども。やはり、私という小さな人間は、それすらも、叶えることができないのです。
あっ、という間に瞼のダムは決壊し、次から次へと、大粒の涙が頬を走るのでした。私はもはや、いかんともしがたくなって、涙をぬぐうでもなく、鼻をすするでもなくて、そのぐちゃぐちゃの顔で、ただひたすらに、ごめんなさい、と、念仏でも唱えるように呟くのでした。
島津は、なにも言ってはくれませんでした。
しかし、無言で、そっと、自分のジョッキを、私のジョッキの縁にぶつけてくれたのでした。
(了)