(93)
腕を抑えたまま立ち上がると、まるで地面を踏みしめていないような気分になる。
「えっ?」
慌てて足元を確認するが、しっかりと床に足がついている。
「ど」
雪を頂いた山々が遠くに、白く、青く見える。俺は不安定ながら空を飛んでいる。
「う」
何が冴島さんの様子が止まって見える。屋敷の中の風景に混じって、さっきの山々、そしてその一つの山に城が建っているのに気づく。風景の動き方から、俺はどうやらそこに向かっているようだ。
「し」
綺麗な冴島さんの声が低い声になり、ものすごく間延びして聞こえる。もう城は目の前だった。山の上にある、絵に描いたような白の形だった。
「た」
城につくと、中から側近たちが近寄ってくる。その一人一人に、短い指示を出すと、側近たちは自らの持ち場へ戻っていく。俺は城の中を知り尽くしているかのように、きびきびと目的の部屋に向かう。
「の」
止まっている冴島さんの姿に重なって、女王が出てくる。その不安げな表情。俺は何か言葉をかけて、不安を取り除こうとしている。
「か」
すべてが終わって、俺は一人で部屋に戻る。天蓋付きのベッドが中央にあり、どうやらここは寝室のようだった。部屋の端には壁に鏡がついていて、俺はおもむろにそこに近づく。
「げ」
鏡に映る自分の姿に、俺は恐怖した。青白い肌。充血した瞳。真っ赤な唇。そして特徴的な犬歯。俺のなかの、古典的なドラキュラの姿だったのだ。
「や」
俺は自身の姿を指さし、叫んだ。しかし、誰にも届かない。
「まくん。大丈夫?」
と、急にいままで見えていたものがすべて消え、屋敷の部屋の風景だけが見えていた。
体が軽いような、浮いている感覚もなくなった。
「ちょっと、聞こえてる? 大丈夫なの?」
「……え、ええ」
俺は思わず目をこすった。
もうあの風景は見えない。
「とても大丈夫な人の返事じゃないけど」
「ちょっと幻覚が見えたのかも」
「……イオン博士に連絡するから、それもう少し詳しく教えて」
スマフォを持った冴島さんが近づいてきた。
俺は今みた光景を丁寧に話した。
その間に三島さんへの投与が終わった。
すかさず冴島さんがたずねる。
「どお、三島さん。何か見える?」
「……いいえ」
三島さんは首を振って、そう言った。
「最後、上戸さん」
冴島さんが何か手で合図したようで、橋口さんが寄ってくる。橋口さんはコートの中でムチを握っている。
上戸さんが薬の投与を拒否するか、妨害をするとか、そういうことを考えているようだった。
「(影山くん。薬を入れた後で悪いんだけど、上戸さんが何かしないように上戸さんの後ろに立って)」
小さい声で、冴島さんが指示した。
俺は上戸さんの背後に近寄った。さすがに様子が違うのを感じたのか、俺の方を振り返って、言った。
「そんなに警戒して、何かするのを期待してるのかしら?」
とっさに冴島さんが赤井さんの前に入った。
上戸さんは冴島さんを見てため息をつく。
「はぁ…… 大丈夫。何もしないから。もし不安なら、影山くんに体を抑えてもらってもいいわ」
「じゃあ、遠慮なくそうさせていただくわ。影山くん。何かされないように抑えて」
「はい」
俺は上戸さんの注射をしない腕をキメるように後ろに引っ張り、背中手で抑え込んだ。上戸さんは『痛い』とも何も声を上げず、気丈なところをみせた。
赤井さんがスッと近寄ってきて素早く一方の手に注射した。
「終わりです」
「あっ……」
上戸さんの背中をみているところに、再び別の風景が重なって見え始めた。
すべての周りの動きがスローになっている。
『なに、これ』
見ると、上戸さんが立ち上がって俺の方を振り返ってそう訊ねていた。
『これ、なんの景色?』
冴島さんや、赤井さんは止まっているようにじっとしている。聞こえているなら、何か反応しているはずだ。
『なんで俺に聞く?』
『だって、私が立ち上がって振り返ったのを目で追ったのは君だけだよ?』
さっき同じような状態になったのは、薬を入れられているせいだと思っていた。上戸さんは薬を入れられた直後だが、俺はそうではない。
『上戸さんにはどんなものが見えるの?』
『天蓋付きのベッドと、青白い顔の男』
俺は周囲を見回す。確かに天蓋付きの豪華なベッドが見えた。さっきの幻覚の風景と同じだ。
『青白い顔の男って、それ、俺?』
『えっ…… あっ、確かに、重なって見えるけど』
じっと上戸さんの顔をを見ていると、俺にも上戸さんの顔に誰かが重なって見えた。
『私は、私はどう見えるの?』
『じょ……』
俺が話しかけた時、上戸さんの動きが止まった。
『上戸さん?』
呼びかけても答えが来ない。
さっきまで上戸さんもいたのに、今は俺一人だけが速く動いているかのようだ。
上戸さんの体から、抜け出たように女王が前に出てくる。
『どうしても戦になるのですか?』
俺は自らの顔を手で覆い、気持ちをまとめ、手を下ろした。
「影山くん?」
「はい?」
そこに女王はいなかった。すべては屋敷そのものだった。鏡を付けた壁も、天蓋付きのベッドもない。
上戸さんが転んだように床に座り込んでしまっている。
「また幻覚のようなものをみました。やっぱりこの薬は……」
冴島さんが首を振る。
「いまさら投与を止めることはできないわ。状況はイオン・ドラキュラに伝える」
「それとも……」
「なに?」
「この屋敷の霊力、なんでしょうか」
「影山くんにだけ効果が表れるってこと?
「いま、私もみましたよ」
上戸さんが立ち上がりながら、そう言った。
「古風で豪華な部屋の風景でした」
「同じ風景を見ている」
「……」
冴島さんは何も言わなかったが、俺を手招きして呼び寄せる。
上戸さんに口元が見られないような位置に回り込む。
「(さっき、周りがゆっくり動き出したって言ってたわよね?)」
俺は目を見てうなずいた。
「(今後、上戸さんに薬を投与するときはさっきと同じようにするわよ。あなたが抑えるの)」
「(はい)」
俺は納得はしたが疑問は残った。
振り返ろうとする冴島さんを引っ張る。
「(俺自体は薬を入れられた時とさっきと、二回発生しています)」
「(そっか…… 上戸さんに二回目があるとまずいわね。誰も抑えなれない)」
「(あ、あと、三島さんに起こらないとも言えませんけど)」
「(そうね)」
冴島さんは上戸さんの方を振り返って言う。
「影山くんは上戸さんと三島さんを一か所で寝かして監視して」
俺は返事をして、二人を別室に連れていくことにした。
冴島さんはホールに残って橋口さんと話を始めた。
「何、どういうことよ」
「なんてことはないですよ。少し薬の効果を観察するだけです」
「……まあ、さっきのは確かに不思議な感覚だったわ。ドラキュラ・ヴァンパイアの力を使っている時とはまた、違った感覚だった」
ドラキュラ・ヴァンパイアの力を使った感覚。俺にも牙があり、どうやら感染したようなのだが、力を使う感覚はない。




