(86)
立ち上がろうと体を起こすと、見えないものの壁のようなものにぶつかり、倒れてしまった。
お尻をついたまま、後ろに下がってから、ようやく立ち上がることができた。
「……」
絢美はゆっくり手を伸ばしながら階段へ近づいて、階段を上がらせない何かに触れようとした。
バリッ。
近づけた手に、見えない壁のあたりから、小さな稲妻が放たれたのだ。
絢美は驚きで手を引っ込めた。
そして手の皮膚を眺める。少ししびれた感じはあったが、手に外傷はなかった。
もう一度手を水平に上げ、少しずつ進んで、その見えない壁に触れようとした。
バリバリバリッ。
一度に近づけすぎたのか、今度は何本もの稲妻が指の先端を目掛けて走った。
電撃は、橋口の体を震わせ、気を失わせた。
そこには黒い霧状の絢美の本体が立っていて、後ろには伸びきった姿勢で橋口が倒れていた。
意識を乗っ取っていた絢美の本体と、橋口の体が分離してしまったのだ。
黒い霧状の姿の絢美は、階上を見上げて言った。
「何があるの?」
「何もありません」
絢美は、声のした方を振り返った。
黒い霧状の粒子がつながり、隙間なく形を作り上げると、黒い色から衣服や肌の色がよみがえっていった。
警察官の恰好をした絢美の姿が完全に表れた。
「何もないだと?」
「はい。絢美様。何もありませんでした」
「……奥にはなにもなかったのだな」
三島優子がうなずいた。
「そうか。ということはこの上、二階にあるということか」
「二階」
何も知らない三島優子は、そのまま階段をあがろうと近づいた。
ドン、と鈍い音がした。
ぶつかった、というより、カウンターを食らったように後ろに弾き飛ばされた。三島優子はクタクタのぬいぐるみのように、手足を振り回しながらゴロゴロと床を転がり、壁に当たって止まった。
「優子っ!」
絢美は慌てて三島優子に駆け寄る。
外傷は一つもないのだが、三島は眠そうにゆっくりと瞳を閉じていく。
「絢美、さま。すみません……」
「優子! 優子!」
そう言いながら三島を揺するが目を開けない。顔に頬を近づけ呼吸を確認し、次に胸に耳を当てて鼓動を確かめる。
規則正しい呼吸と鼓動。命に別状はなさそうだった。
体を乗っ取った橋口が倒れ、三島優子も倒れた。
残るは女性警官の姿をした上戸絢美本人だけだ。
絢美は階段を見つめる。
「ここで引くわけには……」
ピートから感染してドラキュラ・ヴァンパイア病に罹った絢美。普通の女性警察官であった時には知りえなかった、この屋敷の秘密を知った。
霊力の東西バランスを崩すかもしれない強力な力。その力を得れば、世界の半分を、いや力の半分を得たのだとしたら、世界で唯一無二の存在となる。世界全体を自らの手中にすることができるかもしれない。
屋敷の力を得ること。それが人間でなくなった自分が目指すものだ、と絢美は思った。
強大な力がこの屋敷に眠っていることは、最近ドラキュラ・ヴァンパイア化した絢美にもはっきり分かるほど、確かなものだった。
「そうか、この姿のまま上がろうとするからかも……」
絢美は、階段に近づいていき、見えない壁に当たる直前で立ち止まった。
スッと、絢美は影になったかのように真っ黒く変化した。そして指先から崩れ落ちる砂のように小さく分解していく。
そのうちに、体のすべてが、ただよう煙、真っ黒な霧に変わって、階段へと漂っていく。
絢美が変化した霧は、まず天井近くまでゆらゆらと漂い上がっていった。
それから、階段の方へ前進を始めた。
タバコの煙のように、ゆらゆらと漂う。
さっき、稲妻が発せられたあたりを過ぎても、黒い霧は前に進むことができた。
このまま霧の姿であれば階段の側へ抜けられる。
漂う霧である絢美が、そう思った瞬間だった。
小さい稲妻が黒い霧の見えないほど小さい粒子に発せられた。
パリパリ……
さっき三島優子を倒した時や、橋口のからだと分離した時のような、激しい音ではなかった。
しかし、確実に何かを破壊している。そんな音だった。
パリパリパリ……
見えない壁のあたりで、稲妻で弾かれる粒子と、階段の方へ抜ける粒子があった。
絢美はとにかく前に進む選択をした。
パリパリパリパリ……
その電撃で弾かれる粒子はそう多くなかった。
壁と思われる部分を、黒い粒子は抜けることができた。
そして絢美が壁の向こうで実体化しようと粒子を集め始めた時だった。
ドンッ! と激しい音がして、黒い粒子がすべて壁の外へ弾かれた。
その弾かれた先で、黒い粒子が集まり、一瞬で固体となり実体化した。
「うっ!」
そのまま、絢美は激しく床に頭をぶつけた。
ぐるぐると体側を床につけながら何回転かして止まった。
横になったまま微動だにしない絢美は目を閉じていて、意識がないようにみえた。
俺は左手で蘆屋さんを支えていた。
支えていないと立っていられないからだ。
『さやか』から戻って、いつもの蘆屋さんに戻ってはいるものの、足に力が入らないようでゆらゆらしている。
「だ、大丈夫?」
「何したの? なんか、ふわふわしてて、足が地につかない感じ」
それは『さやか』に対して屋敷の鍵を開けるためにした行為だったが、絶対に蘆屋さんにそれを告げることはできない。
蘆屋さんがヤキモチをやくかもしれない。俺の顔を叩く可能性もある。
「別になにも」
「前に屋敷の鍵を開けた時は、しばらく『さやか』のままだったけど、今日はどうしたの?」
それはさっき、蘆屋さんの体を借りて『さやか』がこう言っていた。
『鍵は開いてしまった。けれど、屋敷の力を手に入れることはできない。必ず外に戻ってくる。その時、私では勝てないから、蘆屋さんに戻らないと」
「奴らは必ず屋敷から出てくるって。だから蘆屋さんと戦えって」
蘆屋さんの体がふらふらと動く。俺は左手に力を入れて引き寄せる。
「さっきからこの調子で、とても戦える状態じゃないんだけど」
「ごめん」
「ごめん? ってどういう意味」
「……」
その時、突然ムチが緩んでずり落ちた。
「?」
俺と蘆屋さんはムチを見てから、顔を見合わせる。
「橋口さんの力が及ばなくなったんだわ」
来る。屋敷の中で何かがあったということだ。
『さやか』の予想通り、屋敷から奴らが出てくる。
「俺の背中に」
俺は姿勢を低くして、蘆屋さんに背中を向けた。
「どういうこと?」
「立てるようになるまで、オンブする」
「……馬鹿にしないで!」




