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正面に見えていたものがなくなっただけではなく、重くて何も動かなかった体が動く。
俺は左右を見た。
調理台や、食洗器が見える。厨房だった。俺は上体を起こし、テーブルに手をついて立ち上がる。
いつの間に厨房に来たんだ?
『かげやま、なんだお前、生きてたのか? あんなに突き刺して、えぐってやったのに』
店長が戻ってきて言った。俺は自分の顔を指さした。
『お前以外に誰がいるんだよ。ま、もう一回殺してやるだけだけどよ』
来ないでくれ…… 俺は目をつぶってしまった。そして両手を伸ばして、店長の方に向けた。
包丁を持って、狂ったような店長に、それがどれだけ効果があるのか。
また手を突きさされて死んでしまうのか……
駄目だ……
あれ……
俺は目を開けた。
店長は見えない何かに手をひねり上げられたように両手を上げると、包丁を落とした。
濡れた床に包丁が落ち、金属音が響く。
『なんだ、なにするんだ…… 俺は…… おれ……』
店長が誰に対して言っているのか、そう言うと再び厨房を出て行ってしまった。
俺は必死になって伸ばしていた腕を下ろし、店内に戻った。
『腹、減った……』
俺は店の床に膝をついてしまい、椅子につかまって立とうとした時に、その椅子を倒して、倒れ込んでしまった。
『なんなんだ……』
力が出なくなって、俺は目を閉じてしまった。
スマフォがテーブルの上で振動する音がした。
目を開くと、蘆屋さんの部屋だった。
「夢?」
何か、気になる内容だったが、見ていた夢を思い出せなかった。
それと、俺は…… いったいどこから俺を見ていた……
スマフォを見ると、メッセージが来ていた。
「三島優子?」
三島優子とメッセージ用のID交換などした覚えがなかった。
じゃあ、なぜ三島優子からメッセージが届く?
疑問だらけだったが、メッセージを開く。
『あなたへの訴えを取り下げてもいい。ただし、条件がある』
とだけ書いてある。
俺は、しばらく考えて、メッセージを返した。
『条件はどういう内容』
予想外に、すぐに返事がくる。
『会って話さないと言えない』
どうする…… 今はどこに行くにも冴島さんに連絡しないといけない。三島に会いに行く、など書けない。
『君が訴えているせいで、俺は勝手に出歩けない』
今度の返事には時間がかかっていた。
が、スマフォがスリープする前には返事が来た。
『そこ。今あなたがいる場所。あなた一人?』
俺は一人だ、と返そうとしてロフトを確認していないことに気付いた。
スマフォを持ったままロフトに上がり、蘆屋さんも加藤さんもいないことを確かめた。
階段を降りると、メッセージを返す。
『一人だけど、いつ人が帰ってくるかは……』
俺は時刻を見た。残りの授業が全部休講にでもなっていれば帰ってくるだろうが、普通なら後、四、五時間は帰ってこない。
『大丈夫だとは思うけど』
こっちも三島を拘束できるのなら、願ったりかなったりだ。慢性的なドラキュラ・ヴァンパイア病というのは、すなわちドラキュラ、ヴァンパイアそのものだ。
『すぐ行くわ? いい?』
俺は慌てた。
どうやって三島優子を拘束する? 警察にこの事実を言っていないのに、勝手に軟禁したら別の罪が増えてしまうだけだ。
『ちょっとまってくれ』
三島さんを捕まえる方法を考える。縄で縛る? どこの家庭にそんな人を縛る縄がある? 結界でとらえる? 俺の能力でそんなことが出来るだろうか。催眠をかける? 相手はすでにドラキュラ・ヴァンパイアに操られているのに、それを上掛ける力が俺にあるか?
とにかく難しい。縄を用意している時間はない。今やれるとすれば、タオルとか代用品を探して、手足を縛るしかない。
そんなことを考えているとメッセージがくる。
『時間がないの、待ってられないわ』
『分かった。今すぐ会おう』
俺はバスルームの棚に重ねてあるタオルを全部取って部屋の隅に重ねた。
一、二枚あると不自然に思われる。
洗濯、乾燥が終わって一時的にたたんで重ねてある、という体を装うのだ。
三島優子はどこまでドラキュラ・ヴァンパイアの能力があるのか。
ただ眷属として操られているだけならなんとかなるだろう。
身体能力が例えば常人の倍だったとしたらどうだ。女性であることを考慮しても勝てないことは大いにあり得る。
ならば霊力で勝負をするしかない。これも俺が使える力、といえば…… 霊弾を撃つしかない。殺さないで、拘束する。力の加減が要求される。
すると、部屋の呼び鈴がなった。
「もう来たのか……」
俺は慌てて扉のドアスコープで外の様子を見た。茶髪のショートカットの女性。間違いない。三島優子だ。
小さく深呼吸して、扉の錠を外す。
ゆっくりと扉を開けた。
「や、やあ」
俺が言うと、三島優子は不意に扉の隙間から中に入ってきた。そのまま俺の体に手を付いた。
何か果物のような、例えればもものような、甘い香りがした。
「早く締めて」
そう言うと、三島優子は靴を脱ぎ、さらに俺の横をすり抜けて勝手に部屋に上がっていった。
俺は鍵を閉めてから、ゆっくりと部屋に戻る。
「狭いわね」
三島優子は部屋の真ん中に立ってそう言った。
「……」
俺は住まわせてもらっている身だから、それに何と返していいかわからなかった。
「座ってもいい?」
三島優子が立っている位置だとしても、タオルに手が伸ばせる位置に俺が座れれば問題ない。
俺はうなずく。
そして積み重ねたタオルをすぐ背中にした位置に座った。
「条件って?」
「うん……」
三島優子は、そういったきりうつむいて黙ってしまった。
「どんな条件?」
三島優子は座ったまま体を動かし、少し俺の方に近づいてきた。
「う…… ん……」
「三島さん、具合でも悪い?」
言った時に、三島優子がパッと顔を上げた。
頬が赤くなっていて、熱でもあるかのようにとろんとした目つきだった。
どんどん顔を寄せてくる。
「ど、どうしたの?」
「う…… ん」
さっきの甘い匂いがしてきた。
俺の腕が勝手に三島優子の首の後ろに回っていた。
やばい…… 何か、何か霊力が働いている。このままだと、キス…… いや、まさか?
必死に両手を伸ばして体を引き離す。
三島優子は俺の血を吸うつもりだ。
「う…… ん?」
「そうか、やっぱり君はドラキュラの眷属になって……」
「?」
「見せてみろ、ドラキュラ・ヴァンパイア病にかかって、吸血用に牙があるはず」
俺は両手で三島優子の口を開いた。鋭い犬歯があるはずだ。
「いひゃい…… あにふうの?」




