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「……」
髪で覆われた顔から、口元だけが見える。橋口には、記世恵がニヤリと笑ったように見えた。
と、それに反応したように、横山医師のポケットから異音がする。
横山がすぐさまポケットに手を入れ、小さな丸い機械を取り出す。機械は、音を出すとともに赤いランプを点滅させていた。
「まずい! 塔が起動した」
「記世恵」
さっきまで冷静だった横山医師が慌てている。
「なぜ起動したかわからん。が、塔が起動した。ここから逃げないと、生き埋めになるぞ」
「えっ?」
「記世恵! 教えろ、どういうことだ」
横山医師が冴島を引っ張る。
「ほら、そっちのちんちくりんも協力しろ。塔が起動したら生き埋めになる」
「ちんちくりんじゃない! 橋口だ」
「橋口、早く!」
橋口は冴島の手を引っ張って、扉の方へ走った。
冴島はまだ記世恵の方に顔を向け、叫ぶ。
「どういうことなんだ!」
扉を抜ける。
警備員が顔を青くして待っている。
「早く抜けないと、塔の中に入っている薬剤が全部落ちて生き埋めに」
警備員がカードを操作する。
次に横山医師、橋口がカード操作をする。カードが触れる度「ピピ」と音がする。
「麗子!」
橋口は冴島の頬を平手で叩いた。
「!」
「はやくカードを操作して」
冴島が首からかけていたカードを操作する。
モーター音がして、扉の錠が動く。
後ろの大きな扉の向こうで、何かが勢いよく注がれているのが見える。
「記世恵はどうなるの?」
「記世恵なら多分、死なない」
モーター音が鳴りやむと、警備員が体全体を使って扉を引き開ける。
「走って」
螺旋の通路を上り始める。
「過去、この塔の薬剤が落ちて、完全に生き埋めになったことがある」
「……」
「記世恵は生きていたのさ。正直、人間とは思えない」
「話してないで、急いで欲しいんだケド」
橋口が後ろから、二人を押した。
「ほら、もう後ろ、落ちてきてますよ」
橋口が振り返ると、通路天井に開いた丸い穴から、透明な液体が流れ落ちてきている。
「なにあれ?」
橋口は走りながらたずねる。
横山医師が言う。
「後で落ちてくる液体と混ざり合うと、瞬間的に固まるんだ。強力接着剤みたいなもんだ」
「けど、もう通路にまで流れてるってどういうこと? 先の扉に間に合わなかったら、カード操作をしに戻れないってこと?」
「そういうことだな。カードが効かなきゃ、扉ぶっ壊してでも開けるしかないだろう。っていうか、一回で開けれるように走れ」
行きは半分ほどは歩いたとはいえ、下りだったし時間もたっぷりあった。
今度は上りな上、時間がない。
「後、何分なの」
戦闘の警備員が時計を見る。
「一分切ってます」
橋口も冴島も、暗い螺旋の通路の、今どのあたりなのか、まったく推測できなかった。
時間が足りないのか、十分なのか……
「とにかく走って!」
横山医師が橋口の腕を引っ張り上げるように引く。
橋口は転ばないよう懸命に足を動かす。
「あっ……」
ニ液目が天井の穴から垂れてくる。
通の後ろの液体がが、白濁しながら固まっていく。
ガン、と音がして、直後に『ピピ』と音がした。
「カードはここに当てて」
警備員の声がする。
後ろからどんどん液体が上がってくる。
「かんな、急いで!」
冴島がカードを当てる。『ピピ』と音がした。警備員はもう扉を開ける準備をしている。
急に加速するように液面が追い付いてくる。
橋口は、後ろを見てしまって転びかける。
「駄目だ、うしろは見ないで」
横山医師がそう言って、カードを伸ばす。『ピピ』と音が聞こえる。
「はぁ…… はぁ……」
冴島と横山医師が少し通路を戻って橋口の腕をひっぱりながら走る。
「がんばれ!」
『ピピ』
カチャリ、と音がする。
警備員が全力で扉を引く。『ビービービー』と警報音がする。通路はもうほとんど固まっていて音は響かない。
「飛び込んで!」
橋口と冴島、横山医師と警備員がそれぞれ扉の右と左に分かれて飛び込んだ。
強いばねで扉が閉まるとともにニ液が注がれ、液体が固まる。
扉の縁からはみ出た液体が白く見える。
「た…… たすか…… た……」
全員息がきれて、言葉が出なかった。
俺は片手で持ち上げられた。
トーマスがステップを踏んで、勢いよく俺を投げた。
トーマスは確かに大男だったが、俺を片手で持ち上げるほどの体格差はない。
いや、鍛えれば…… いや、いくらなんでも十倍ほどの体重差があれば…… となれば、生まれたての赤子と親の体重差になってしまう。さすがにそれはない。おそらくトーマスは霊力を使っているのだろう。
投げられ、落ちるまでの間、俺はそんなことを考えていた。
そして、体は河原にある野球グランドに落下した。
まったく受け身が取れず、激痛に体をよじった。
ひょい、とフェンスをまたいで、トーマスがグランドに入ってくる。
俺はなんとか逃げようとするが、立ち上がれないままつかまってしまう。
「まだ借りは返せてないぞ」
と、グランドの外にいる、女性が代弁する。
俺は首を持たれ、ホームベースからバックネットに投げつけられた。
さっきの半分ほどの飛行時間で、ネットに激しくぶつかる。
まずい、と思って右手を伸ばす。
頭から垂直に落下したら危険だ。
ネットをつかんで、なんとか足から落ちることに成功した。
けれど、全体重がかかった指が、折れたように痛む。
足から落ちたが、立てたわけじゃない。
体中が痛み、鼻から口から血が流れるから、呼吸も難しい。
バックネットの壁に背中をつけてそれを利用して立ち上がる。
「まだ立ち上がれるのか」
女性がトーマスの代わりに俺に言う。
その女性はピートと共に、グランドの中に入ってきたようだ。
またクラウチングからスタートし俺の腹に…… 頭なら全力で避けてやろうと思ったが、足を延ばしてきた。
頭だったとしても避けきれなかっただろう。絶望的に体が動かなかった。
「うっ」
蹴り足が、俺が口から赤い体液が吐かれるのがわかっているように引っ込む。
背中をつけながら、崩れるように座り込んでしまう。
「さあ、恨みの分は終わりだ。おしまいにしてやる」
女性が遠くから言う。
とにかく最後の抵抗をしなければ……
俺は霊弾を撃つために右手に集中する。
トーマスはお構いなしに右こぶしを引く。トーマスの右手の先にも霊光が見える。おそらく、奴も全力の霊弾を打ち込むのだろう。
俺が勝てば…… いや、勝つわけないか……
その時、ピッチャーマウンドの上の空間が、丸く切り取られるように輝いた。




