(30)
日向さんは手を広げてから持ち上げるような仕草をした。
「無理だろ…… 師匠に、今の西欧の情勢が理解できるのかなぁ?」
「えっ、そんな言い方しなくても。師匠なんでしょう?」
「確かに霊力は強いし知識も経験も豊富だ。しかし、ああ毎日寝ていたら西欧の情勢を知る時間はない」
確かにその通りだ。寝て、起きたら世界はあっという間に進化しているように思えるだろう。
「ぶっちゃけ、俺にはなんとなく分かっている」
「えっ、それが重要みたいなんですよ。冴島さんと橋口さんに教えてください」
「ここに返ってくる飛行機から見下ろした時、霊光輝く地点がハッキリ見えた。ヨーロッパ便が通る高度からだよ? 他の国にはこんなに集中した霊場はない。すくなくとも飛行機から見える世界だから、北半球限定だけどね」
俺は飛行機から見える自国の姿を想像してみた。
高く、雲のはるか上。
俺が乗ったことのある飛行機の高度から、見下ろす。
そんな高度からも輝いて見える霊光。
そして、それを放つ場所……
「みんなうっすら感じてるはずだ」
「日向さんの思っていることが正しいという確証は……」
「ない」
「ずいぶんとハッキリ言いますね」
「ないものは、ない」
日向さんは手を広げてニヤリと笑った。
「それより……」
日向さんが差した方を見た。
元バイトリーダーだった鬼の体に、警察官がやってきて、右へ左オオヌサを振るった後、鬼の体に短冊状の紙を貼り付けた。
鬼の体の周囲が、キラキラと輝いたかに思えると、大きな青い腕が縮小していき、同時に人の肌の色に戻っていった。
「あっ、落ちた首は?」
俺は落ちていたバイトリーダーの頭を振り返る。
その頭もまるでテレビや動画のキラキラなエフェクトが掛かったようになって消えていく。
「えっ?」
倒れていた体に頭が戻り、上半身裸のバイトリーダーの姿になっていた。
降霊師の方も同じ処置が掛けられた。
大きくビルドアップした上体が元の大きさに戻るとともに、人の肌色になる。
バイトリーダーも降霊師も、救急隊員が呼び込まれ、手際よくストレッチャーに乗せられ、居酒屋を出て行った。
「あの二人、助かるんですか?」
「さあ…… それより、君は自分の心配をした方がいい」
日向さんはスマフォを取り出して時間を見た。
「もう今日はバイトも出来ないだろう。送っていくよ」
「えっ……」
俺はようやく周りの状態を確認した。
居酒屋の客は帰っていた。
店長が警察官と話していたが、他のバイトはいなくなっている。
スマフォを取り出して、時間を見る。
「えっ、もうこんな時間だなんて」
「おそらく、鬼が現れた時からウラシマ時空に……」
なんだ『ウラシマ時空』って…… ちょっと待て、思い出してきた。この店に客として……
「由恵ちゃん!」
口に出すと同時に、俺は店の中を走り回っていた。
店内の、すべてのエリアを探して戻ってくると、日向さんを見て気が付いた。
「日向さんっ!」
「なんだ、大声を出さなくても聞いているよ」
「由恵ちゃんは? こっちの鬼、確か女性の首を絞めていたでしょう?」
「……いや、そんなことはなかったぞ」
「えっ? じゃあ、どこかこの近くに倒れていた女性を知りませんか?」
「女性がいたのなら、口説いていたはずだが」
そ…… そうだ。女性好きの日向さんが、起きていようが、倒れていようが、見逃すはずもない。
「そうでした、日向さんは女好…… じゃなかった。見落とす訳ないですよね」
「ちょっと悪口気味だったが、まぁ、許そう。俺が口説く対象となるような、女性はいなかったよ」
「……」
俺は日向さんの運転する車にのり自宅近くに戻ってきた。
車を降りると、日向さんが言った。
「君は自分が置かれている立場や、そこの奥にある屋敷の意味をもう一度考えた方がいい。普通の大学生ではないんだよ」
「俺が?」
「こんな霊的な事件が次々君の前で起こっているのを不思議に思わなかったのかい?」
「えっ……」
突然、プーという耳障りな音で会話は中断された。
今は真夜中を過ぎたあたりで、他に通行している車もない。日向さんの止めている車は別に邪魔にならないはずなのに、その車はクラクションを鳴らし続けてくる。
「どうしても俺を退かしたいみたいだ。ま、気をつけてね?」
「はい」
俺の返事を聞いたか聞いていないかのタイミングで、日向さんは発車した。
クラクションを鳴らしていた真っ黒な車も、タイヤから煙があがるほど回転させながら追いかけ始めた。
行く先を見ていると、コーナーを二組のテールランプが、滑るように曲がって消えていった。
「大丈夫かなぁ……」
俺は見えなくなった車の方をしばらく見てから部屋に戻った。
おそらく、この時間だ。蘆屋さんは寝ていて鍵を開けてくれないだろう。
俺は人差し指と中指を伸ばし、口元にもっていく。そして呪文を唱えて、指先を鍵穴の方へ持っていく。
カチャリ、と錠が回って解錠の音がする。そして、扉を開ける。
「遅いじゃない」
扉のすぐそこに蘆屋さんが立っていた。部屋の明かりを背にしていて、蘆屋さんの表情は良く見えなかったが、少なくとも喜んでいる訳ではなさそうだった。
「ただいま」
俺が蘆屋さんを追うように部屋に入っていくと、部屋の真ん中で振り返った。
「なによ」
「何が?」
「なんで何も言わないの?」
「ただいま」
「違うわよ。もっと言うことあるでしょ?」
何のことだろう。帰りが遅くなったことか?
「遅くなってごめん。ちょっと事件があって」
「それもそうなんだけど、その前の話」
鬼に襲われる前の話? 唐揚げのサービスした話かな?
「ああ、唐揚げ、どうだった? 一応、あの店の……」
「その話でもない」
俺が困って蘆屋さんの顔を見続けていると、蘆屋さんは顔をそむけた。
「合コンよ。合コン。あたしが合コンしてた時、なんで怒らなかったの?」
「えっ……」
そう言えば、あの時、なぜか腹は立っていたのだが……
「ねぇ、あたしがお持ち帰りされた、とかは聞かないの?」
そう言われて俺は再び居酒屋の時のように腹が立ってきた。が、理由がよくわからない。




