(28)
「黙れよ」
もう一度言ったが、やはり何も反応がない。
「お前こそ黙れ」
「蘆屋さん、早く座ってよ。蘆屋さんはレモンかける派?」
俺がもし『鬼』のようなオーラを放つなら、さっきと同じように黙ってしまっただろう。やはり今はそういうものがないのだ。ただの普通の男なのだ。というか、途中まで俺と鬼の事を言っていた蘆屋さんはどうしてしまったのだろう。
「あの…… 蘆屋さ……」
「ねぇ、影山くん」
蘆屋さんの方に手を伸ばしかけたその瞬間、俺は肩を叩かれた。
聞き覚えのある声に、慌てて振り返った。
「由恵ちゃん?」
「良かった間違えてたらどうしようと思って」
「ど、どうしたのこんなところに」
バイト先のあこがれの娘の出現に、声が上ずってしまう。
由恵ちゃんに引っ張られるまま、店の中を進んでいく。
「ほら、影山くん記憶がないって言ってたじゃない?」
「えっ?」
覚えていてくれたのか、と思うと感激した。
「あれ、直してくれるっていう人を見つけたのよ。その人、ちょうど今連れてきたの」
「へっ?」
唐突過ぎた。
「記憶を取り戻す方法があるの。霊を憑けて、記憶の中を整理するの。思い出したくない部分を霊が守ってくれるのよ。そうすれば、記憶を取り戻すことができるんだって。ほら、こちらの方がその降霊師の御立さん」
由恵ちゃんの後ろにいる男が前に出てきた。
真っ黒いスーツに白いワイシャツのボタンを二つ外して胸元を見せている。
軽くウエーブした髪を光るほどワックスかなにかで撫でつけている。
肌は褐色に焼けていて、何か香水の匂いがする。
ポケットから手を出し胸の前で広げ、男は言った。
「記憶喪失の強度に合わせて、強ければ強い霊を降ろさないといけませんが、何分強い霊は高額に……」
「その前にあなたの降霊免許を見せてもらえませんか」
俺が言うと、男はポケットに手を突っ込み名刺を俺に見せた。
「降霊免許なんて持ち歩かないんでね。ほら、名刺のところに番号があるでしょう。それが免許番号ですから」
「……照会してもかまいませんか」
「別に構いませんが。記憶を戻せるチャンスを失うことになりますよ」
おそらく、この男は違法降霊師だ。
照会されたらマズいことになるのだ。
「由恵さん。それより、あなたの心の傷の話をしましょう。この人はあまり自分の記憶を取り戻したくないようだ」
「影山くん! ねぇ、これってめったにないチャンスだと思うのよ」
「由恵ちゃん、この男は……」
男はポケットから手を出して、人差し指と中指を伸ばし、自分の口に付けてなにかボソボソとしゃべった。
俺の発したはずの言葉が消えて、どこかに消えてしまった。
ちっ、ある程度の呪術は使えるということか、俺は思った。
由恵ちゃんも洗脳されたか、軽く命令が入ってしまっている。
それを解いてあげないと、この男に何をされるか分からない。
俺は言葉が発せられないなら、体で示そうと由恵ちゃんの腕を取って俺の方に引っ張った。
「な、なに?」
「いいからこっち」
「待て」
その声は、正面から聞こえた。
体の大きいバイトリーダーだった。
「何をしている……」
俺と由恵ちゃんが立ち止まっているうちに、後ろから違法降霊師が近づいてきて、由恵ちゃんを連れ戻された。
「助けないと」
「バイト中にすることか」
「人を救うことの方がバイトより大切だ…… ろ?」
あっ、と思った時には、腕振り上げられていた。
俺は慌てて手のひらで拳を受けた。
受けていなかったら、あごに入っていた。
「殴るの? あんた何の権利があって殴るの?」
「うがぁぁぁああっ!」
バーベルでも持ち上げるかのように両腕を振り上げると、最初から太かった腕が、二倍、三倍とどんどん太くなる。
肌の色は真っ青で、とても人のものとは思えない。
同時に肩や胸、上半身の筋肉が同じように発達していき、服が破れた。
不思議なことに店内で騒ぎだす者はいなかった。
腕に付けているGLPは警告を発するかのように俺の腕に刺激を与えた。
「もしかして、鬼ってこれなんじゃ」
「影山くん」
由恵ちゃんの声がすると背中に体が当たった。
振り返ると、由恵ちゃんがあとずさりして俺の方に向かってくる。俺の方に鬼がいるのに、どうしてそっちを向いている……
「えっ、さっきの違法降霊師?」
そこにも腕が青く太くなった鬼がいた。
「助けて影山くん……」
店の他の客は、まるで見えていないかのようにこの二つの体に無関心だった。
「俺と由恵ちゃんにしか見えてないのかな?」
言い終わると、後頭部に打撃を受けた。
由恵ちゃんをかわすように手を着いて倒れると、体をひねってバイトリーダーの足を引っかけた。
前のめりに倒れてくる顔面を蹴り上げる。
敵の顔は鬼化していない。顔を除いた上半身だけが青く、大きくなっていた。
蹴り上げた顔は瞬きもせず、折れ曲がったままだった。
そいつは、よろよろとたちがある。
「気持ち悪い……」
由恵ちゃんがバイトリーダーに向かってそう言う。
すると、ボコッと音を立てて人間の顔が床に落ちた。
「えっ?」
床に転がるバイトリーダーの頭。おれはゆっくりと見上げていく。
首のない肩と肩の間から、濡れた黒い髪の毛がついた塊が盛り上がってきて飛び出してきた。
ぬめぬめした頭のような部分には、薄い被膜が掛かっていて、苦しいのか慌ててその皮をはぎ取る。
はぎ取り終わると、そこに鬼の顔が現れた……
「そいつのもやってやれよ」
振り返ると、違法除霊師だった男も頭を残して上半身は鬼化していた。
俺は一瞬正面にいる元バイトリーダーの位置を確認し、もう一度後ろの違法降霊師だった鬼を振り返る。
後は『勘』で足を蹴り上げる。
「がぁぁぁああ」
俺の足は、元バイトリーダーの股間を蹴り上げていた。
蹴り上げられた後、慌てて青くて大きい手で股間を抑えるが、痛みに耐えきれないのか、膝をついてしまう。
俺は人差し指を中指を伸ばして口元にあて、呪文を唱える。
弱った意識の鬼であれば、俺の稚拙な呪文でも鬼を祓うことは出来るはずだ。
「止めろ! カゲヤマ。娘がどうなっていも良いのか?」
振り返ると、由恵ちゃんが片手で持ち上げられてる。指で首をへし折ろうかという状況だった。




