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無自覚

作者: 四海朗

     1

 真夏の犬の散歩は、早起きを強いられるので政子は気が重い。

「おいで、チロ。散歩だよ」

 お散歩セットを入れた小さなトートバッグとリードを手に、玄関

で靴を履く。

 三年前に、ウォーキングを決意して買ったスニーカーだったが、

今ではチロの散歩のときにしか、履くことはない。

 それでも犬の散歩だってウォーキングの範疇だ、と言い訳をして

いる。

「チロ!」

 スニーカーを履き終え、よっこらしょと立ち上がる。もう一度犬

の名前を呼んだ。

 廊下を、カチカチと爪音をたててチロが駆けてくる。

 一年半前に、家族に押し切られて飼うことになった。

 政子自身、子供のころに実家で犬を飼っていた経験はあったが、

それは政子が生まれる前から飼われていた犬で、母親が無類の犬好

きだったためだ。面倒は、すべて母親任せで、政子それほど犬に関

心はなかった。

 だから子供たちにせがまれたときも、反対をした。

ーーどうせちゃんと世話できないんでしょ。

 〝ママ友〟たちの体験談を聞いても、火を見るよりも明らかだ。

子供たちの「ちゃんと散歩するし、めんどうも見るから」という言

葉を真に受けて飼い始めたものの、半年も経たないうちに、犬の世

話はすべて母親任せになっていたという。

 だが、情操教育に良い。という建前を持ち出されると、政子は弱

かった。

 結局、危惧していたとおり、子供たちは今では世話は政子に押し

つけ、気が向いたときだけ遊んでいる。

「ほら、おいで」

 首輪にリードを繋いでチロを抱き上げる。

 ペットショップへ犬を見にいったとき、子供たちはチワワがいい

と大はしゃぎだったが、政子は渋った。

 脚が細くて体も小さくーー仔犬だからよけいにーーなんだかすぐ

にケガをしてしまいそうだった。

「ねえ、この犬も可愛いじゃないの」

 隣のブースにいる仔犬を指差した。

 チョコレート色の毛並みのトイ・プードルだった。

 結局、家計を握る政子の意見が通ったわけである。

 門を出たところで、チロを下ろしてやった。

 チロは人懐っこく、あまり吠えない性格だったので、ほとんど初

心者同然の政子にも扱いやすかった。

 朝の五時。

 明るくなるのが早いという理由もあったが、なによりアスファル

トガ熱くなっていないというのが最大の理由だ。

 夜が明けたばかりだというのに、もうセミが鳴いている。毎晩熱

帯夜が続くので、身体に堪える。

 それでも学校が休みの今は、子供たちの弁当作りから解放されて、

朝の忙しさは少し減った。

「代わりに昼ごはんがねー」

 嬉しそうに尾を振りながら先を行くチロに、愚痴を言う。

 小型犬なので、三十分ほどの散歩を朝晩させていれば十分だとい

割れたが、三百六十五日となれば、気が乗らない日もある。

 ちょうど今朝もそんな日だった。昨夜チロの散歩のことで、子供

たちとケンカをした。

「夏休みなんだから、散歩くらい行ってもバチは当たらないじゃな

いの」

 むしろ褒められるのに。

 案の定子供たちは起きる気配がない。だからといって散歩に行か

ないなんて。

 決まったルートをたったと歩くチロを見て、ま、可愛いからいい

けどね。と思い直す。

 エサから散歩から、世話をしているぶん、チロは政子にべったり

だった。それを見て、子供たちはヤキモチを焼くが、内心それ見た

ことかと舌を出している。

 前方に在来線の線路が見えてきた。その脇の児童公園が折り返し

地点だ。

 公園内をぐるっと一周するのがチロの日課。

 すると、ベンチの背後にある植え込みへ、チロが潜り込んでしま

った。

「ちょっと、チロ!」

 突然のことに政子は慌てた。そのまま自分も植え込みに入ること

は躊躇われるし、かといって、チロのリードを離すわけにも行かな

い。

「もう!」

 とりあえず、近くの木にリードをしっかりと結びつけ、一旦公園

を出て、外側から回り込んだ。

 そこは、政子とチロの散歩コースとは逆側なので、今まで一度も

通ったことのない道だった。

 政子の姿を見つけたチロが、吠える。植え込みから顔を出してい

る。

「何があるの?」

 公園と反対側には、住宅地が。道幅も狭く車もあまり行き交うこ

とがない。

 チロが顔を出しているすぐ下に側溝がある。チロはそこに向かっ

て吠えていた。

「何よ」

 政子はどうするべきか考えた。

 仔猫がはまっている、というならいいが、逃げ出したワニだのカ

ミツキガメだのだったら怖いじゃない。

 ヘッピリ腰で覗き込む。

「チロ、静かに。あんたは下がってなさい」

 愛犬が噛みつかれでもしたら、大変だ。

 ところどころフタのない溝は、薄暗くよく見えない。だが、何か

ある。

 夜中に強い雨が降ったので、水が溜まっているはずが、その様子

は見えない。

「……かばん?」

 焦げ茶色のリュックに見えた。確か、クマがモチーフになってい

る。政子の娘が小学生のころに、せがまれて買った記憶がある。

「まさか!?」

 膝をついて覗き込んだ。

     ※

「おい! あの野次馬をなんとかしろよ」

 線路際にまで、カメラやケイタイを構えた見物人が押し寄せてい

る。

 制服が敬礼をして駆けてゆく。

「土屋さん。発見者の奥さんです」

 野次馬たちを睨みつけていた土屋刑事に、若い男が声をかけた。

「そうか」

 土屋は辺りを見回した。公園も規制線の中にある。

「すみませんが、あちらで少しお話を伺えますか?」

 住宅地の側溝から女児の遺体を発見したのは、隣町に住む主婦の

北山政子とその愛犬だった。

 発見時少女は、側溝にうつ伏せに倒れていた。北山政子は救急車

を要請したが、既に死亡していたため、救急隊から警察に通報が入

った。

「ーーで、犬が吠えたのであなたが確認しに行くと、少女が側溝に

倒れていたと」

「あたし、もうビックリしちゃって」

 発見者の北山政子は、だいぶ落ち着いてはきたが、少女が死んで

いると知らされると、取り乱して聞き取りが捗っていなかった。

「周辺に見慣れない人物や車はありませんでしたか?」

「あたし、この近所に住んでいないから……」

「いつも犬の散歩はこのルートですよね? それでしたら、普段と

違うな、ということでも構わないんですよ」

「……さあ?」

 北山政子からは、有力な証言は得られなかった。

 土屋はそもそもこの聞き取りに期待はしていなかった。

 後日再び話を聞くことがある旨を告げて、引き取ってもらった。

「山本!」

 先ほどの若い刑事が飛んできた。

「はい」

「どうだ、見立ては」

 山本はメモを見ながら、

「えー。他殺ですね。発見時は、雨水の溜まった側溝に落ちた事故

死かと思われましたが、首に絞められた跡がありました。あと、詳

しいことはまだですが、死後相当時間が経過してますね。別な場所

で殺害されて、この場所に遺棄されたものかと」

「ガイシャは近所の子供だったな」

 山本は顔を東に向けた。

「あの、ここから三軒入った、ペパーミントグリーンの壁の家が自

宅です。この道も公園も普段からよく使っていたようです」

「昨日のうちに、行方不明の届けが出ていたらしいな。この辺りも

探したはずだが」

「僕もさっき後輩に少し聞いた程度で。夕方から深夜までのあいだ、

捜索はしたようで」

「ま、詳しいことは署に戻ってからだな」

ーーイヤな事件が起きたもんだ。また、世間が騒ぎ立てる。

     ※

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 そればかりが光泰(こうた)の頭の中に渦巻いていた。

ーーぜったいにバレてる。

 朝から車を走らせている。行くあてなどないが、戻る場所もない。

 どうしよう。

 カーラジオが時報を告げた。

 午後三時。

 少し前から、フロントガラスに雨粒が落ち始めていた。分厚い雲

に覆われた遠くの空が、一瞬明るくなる。

 ここ数日、日中の暑さがたたってか、日暮れが近づくと、激しい

雷雨に見舞われていた。

 油断をしていると、周囲があっという間に暗くなる。この時刻で

も、ヘッドライトが必要なくらいだ。

 光泰はワイパーかライトかでほんの数秒迷った。顔は前を向いて

いたが、見えていなかった。

 気がつくと、可愛いクマの顔がすぐ目の前にあった。

     2

 明日から一週間、土日をあいだに挟んだお盆休みが始まる。

 寝坊の心配をしなくていい中原光泰は、リビングの大インチ画面

のテレビで、ビデオゲームを楽しんでいた。

 いつもは当然自室の小さなテレビに繋いで遊んでいるのだが、昨

日から両親は揃って旅行に出かけているため、誰に咎められること

なく、美麗なグラフィックを堪能していた。

「……うーん」

 頃合いをみて、セーブをした。

 壁にかかった時計を見る。九時半を回ったところだ。

「一杯飲もうかな」

 肩をぐるぐる回しながら、台所へ向かった。

 光泰の父親は会社員だが、曽祖父は、この土地で農業をしていた。

現在の家は光泰が生まれてすぐに父親が建て直したものだ。祖母は

その頃に、元・消防士だった祖父は三年前に亡くなっている。二つ

上の姉は、半年前に結婚を機に実家を出た。

 現在は両親と三人暮らしだ。

 冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出して、何かつまみはないかと、

ストック棚を眺めていて、ふと視界にソファーが入った。

 青色が点滅している。

 放り出したままのスマホだ。ゲームに集中したいから、マナーモ

ードにしておいた。

 とりあえずビールの缶をリビングのテーブルに置いて、スマホを

取り上げた。

「誰だろう」

 アドレスや電話番号を教えている相手はそれほど多くない。勤め

先では交流サイトのグループ登録などはしていないから、頻繁に通

知が来ることもない。

「スペース★ソーダ?」

 スマホのロック画面に表示された通知ボックスには、スペース★

ソーダさんからメールです、のメッセージが浮かび上がっている。

 タップして開くと、タイトルに、

『助けて』の文字が並んでいた。


 投稿コミュニケーションアプリで、ゲームのプレイ日記などをア

ップしていたところ、共通する何人かのプレイヤーと、メッセージ

をやり取りするようになった。

 スペース★ソーダ。

 トレイシー・キング。

 (はなぶさ)番長。

 そして光泰。その四人が主にメッセージを書き込みあっていた。

ちなみに光泰のユーザーネームはmituyasuと、読みを変えてある。

 英番長とトレイシー・キングは男だろうな、と光泰は推理してい

た。特にトレイシー・キングは、かなり年上ではないか。言葉の端

々に若作り感が拭えない。

 英番長は同年代か。だが、実際生身(なまみ)で出会っていたら、果たして

つるんでいただろうか、と思う。ちょっとイキった感じの匂いがし

ていた。

 さて、スペース★ソーダ。

 この人物とは波長が合うな、と光泰は前々から考えていた。

 大人との距離感や、友人との付き合いの程度。えも言われぬ焦燥

感。

 あるときスペース★ソーダが呟いた「テストだるー」「学校火事

になんないかなー」に、自分の経験を書き込んだところ、意気投合

した。

 光泰も高校時代にテスト当日、無断欠席をしてとんでもない目に

あった。

 テストを欠席しても、後日受け直せるのだと勘違いをしていたの

だが、それは病欠の生徒(事情がある)のみで、単にズル休みであ

ると、零点扱いで赤点補習となると、後から担任に言われて、驚い

た。

 だからスペース★ソーダにもそのときの話をして、バックレるの

はオススメしないと忠告したのだ。

 返ってきた答えに少しびっくりした。

『中学生でも赤点取ると落第しますか?』

 光泰は、高校生だろうと思っていたが、まさか中学生とは、しか

もどうやら女子らしいと。

 女の子だからテストの点が悪いとみっともない。男の子ならば武

勇伝として笑い話になる。というのは今どき性差別かもしれないが、

思わず、テストちゃんと受けておいたほうがいい、と説教じみたこ

とを返してしまった。

 ウザがられるかと後悔していたが、意外と素直に『テストがんば

る』と返信がきた。

 以来、直接メールのやり取りをするようになった。

     ※

 返された全教科の答案用紙を机に並べて、スペース★ソーダこと

永田星乃佳(ほのか)はため息をついた。

 全九教科の平均点は八十三点。合計は七百五十点を超えている。

 得意の美術と国語は満点に近かったが、苦手な数学が唯一平均点

よりも低い五十点台だった。

 おそらく順位としては、上の下というところか。なかなか誇れる

成績であるはずなのに、星乃佳は浮かない表情をしていた。

『せめて八百点は取らないと』

『理系が足を引っ張っている。これでは高校進学が難しい』

 帰宅した父親に答案用紙を見せて、開口一番言われたことがそれ

だった。

 自分としては、偏差値も決して低いわけではないし、高校に行か

れないということはないと思っているのだが、父親の考えは違って

いた。

 父親のあげた高校名は、超のつく名門進学校だった。確かに今の

成績では、もう少し頑張らないと難しかとも思う。

 しかし、普通の高校ならば問題なく入れる。担任からもそう言わ

れている。

 さらに父親は、もっと勉強をしろという。部活などやめて、二学

期からは塾へ通うようにという言葉には、さすがに星乃佳も反論せ

ざるを得なかった。なぜなら、クラブ活動は必修だからだ。星乃佳

の一存でやめられるものではない。

 父親は、でたらめを言うなと怒ったが、母親も口添えをすると、

今度は学校のあり方に腹を立てた。

ーー子供が通ってる学校のことも知らないくせに。偉そうなことば

っか。

 星乃佳が中学に上がった頃から、急にうるさく言うようになった。

ーーお父さん、なんで急に進学校に行けなんていい出したんだろう。


 星乃佳は、電気もつけずにベッドに倒れ込んで、泣いていた。

 捨て台詞のような言葉を父親に投げつけて、リビングを飛び出し

たのだ。

ーーどうしてわかってくれないの!! お父さんなんて大キライ!

 今までは、思い通りにならなくて、勢いで何度か言ったことはあ

ったものの、今日は、本当に心の底から父親に失望した。その挙句

の叫びだった。これまでとは本気度が違う。

 帰るなり父親は、塾の夏期講習の書類とパンフレットを星乃佳に

見せた。

 それは、明日から始まる大手学習塾の主催する大規模なものだ。

 すでに申し込みは済ませてあるという。

『え!? だって明後日から部活の夏合宿だよ』

 驚く星乃佳に輪をかけて驚いたのが父親だった。

『まだやめてなかったのか? おい、ちゃんとやめさせるように言

っておいただろう。お前がしっかりしなくてどうする』

 矛先が母親に向く。

『だから部活は必修だって言ったじゃないの。聞いてなかったの?』

『うるさいな。中学なんだから、たかが部活をやめたくらいで卒業

できないなんてことはないだろう、義務教育なんだぞ、バカバカし

い』

『わたしやめないよ。好きだもん、ブラバン』

『だからお前はバカなんだよ。大会で賞も獲れない学校の部活だぞ。

やる意味なんかないんだよ。しかもお前は補欠だろうが』

 確かに演奏会のメンバーではない。だが、それを面と向かって、

しかも罵倒するとは。

『それに、お父さんが言ってる学校なんか行かないからね、他にや

りたいことあるもん』

『なんだと!?』

『美術系の学校に行きたいの!』

『ふざけるな。そんな、なんの役にも立たないことをさせるために

お前に金をかけてるわけじゃないんだぞ!』

 思い出すだけでも、また涙が溢れてきた。

ーー誰かにぶちまけたい。

 でも、学校の友だちに、なんて言えばいいのかわからない。

 ありのままを話すのはためらわれた。それほど、星乃佳の父親の

態度は、時代錯誤も甚だしい。自分の父親が、パワハラの権化だな

どと、友人に知られるのは嫌だ。

ーー私のこと、よく知らなくて、でも話を聞いてくれて『そうだね』

って言ってくれる……。

 星乃佳は、枕元に置いてあるスマホを手に取った。

     ※

 夏休みの宿題で、分からないところでもあったのか。程度だろうと

光泰は思った。理系ならなんとかなるが、英語はからきしなんだよな。

とりあえず飲みながらメールを読むか、とビールのプルタブを開けた。

 メールのタイトルには『助けて』

 缶に口をつけ、まさに飲もうとした光泰の手がピタリと止まった。

『我慢できない』『ヒドい!!』『お父さんなんか大キライ!!』

 不穏当な単語が目に飛び込んできた。

 極めつけが『……家出した』

 家出したい。ではなく、過去形だ。

 すでに自宅の最寄駅から電車に飛び乗って、ついたところが新宿

だったようだ。

 とにかく、宵の口とはいえ、女の子が一人でウロウロしていては

危ないからと、ファストフード店に入るようにメールをし、自分の

ケイタイ番号も添付しておいた。


 お盆休みの前夜ということもあって、上りの高速道路は空いてい

た。

 光泰は二時間かからずに新宿へたどり着いた。

 コインパーキングに車を駐めて、星乃佳の言っていたファストフ

ードの店に向かう。

 車の中で一度、星乃佳からの電話を受けたので、場所はわかって

いる。光泰も新宿に来る機会など滅多にない。

 客席は二階だった。とりあえず注文はせずに二階へ上がる。

 言われた通りの目印を探す。客の入りは半分ほどで、学生が多い。

だが、こんな時間に若い女の子が一人でポツンと座っているのは、

彼女だけだった。

 星乃佳は、光泰が想像していたイメージとそう遠くないルックス

だった。いわゆるイマドキの学生風ではないだろうと予想していた。

「永田さん、ですか?」

 俯いて、じっとトレーに敷かれた店の広告に目を落としている少

女に声をかけた。

「はい」

 小さな声で答えると、伺うようにそっと顔を上げた。

「中原です」

 そう言ってから、光泰は慌ててサイフを出した。不審者と思われ

てはマズい、

「ちょっと、待って。えっと……今、免許証を……」

 もたもたしながら取り出すと、星乃佳の目の前のテーブルに置い

た。

「……はあ」

 光泰の行動が、いまひとつ飲み込めてないような返事をして、光

泰の顔と写真を見比べて、少し怪訝そうな表情を浮かべた。

「いや、その、ナンパと間違われたらアレだと思って」

 しどろもどろになりながら、光泰は星乃佳の向かいに腰を下ろし

た。

「それで、どこか行きたいところあるの? といってもオレもあん

まり詳しくないんだけど」

 そう言って、光泰はスマホを取り出した。

     3

 学校のスポーツバッグに荷物を詰め、勢いで家を飛び出して駅へ

向かった。とりあえず入線して来た電車に乗ったら『新宿』に着い

てしまった。

 地元から遠ざかるにつれて、夜なのに、やたらと明るい車窓を目

にするうちに星乃佳は急に怖くなった。

 ドラマや映画やニュース映像で見る『新宿』は、とても魅力的で

もあり怖い街でもあった。

 どこにいても情報が手に入る世の中になって、東京は未知の場所

ではなくなったが、それは、どんな姿の東京も見ることができると

いうことだ。

ーーひいおばあちゃんが言ってたとおりかも。

 生まれた土地から一歩も出たことのない星乃佳の曽祖母は、折に

触れ、東京は(都会は?)怖いところだ。と言っていた。

 それが何を根拠とするものかは分からなかったし、自分と同じ気

持ちからくる言葉ではないだろうが、星乃佳は今、曽祖母の言葉を

思い出していた。


 目がチカチカするネオンの中から、見知った看板を見つけたとき、

星乃佳はホッとした。

 それでも、似たようなファストフード店が駅前だけでも三軒もあ

ることに驚いた。地元では、全国展開のチェーン店は一軒だけなの

だから。

 オレンジジュースだけでは気が引けたので、食べたくもないポテ

トも一緒に注文した。

 トレーを持って二階に上がる。もうすぐ夜の十時だというのに、

店内には星乃佳と同年代と思しき少女たちが、ちらほらと席に座っ

ている。

 先ごろファストフード店は全面禁煙化されたので、おじさんたち

は少ないかと思っていた星乃佳だったが、客の半数以上はスーツ姿

の男性客で占められていて、少したじろいだ。

 なんとなく見られているような気がしてならない。視線を落とし、

隅の二人掛けの席に座った。

 とりあえず、馴染みのある内装とオレンジジュースで気分が落ち

着くと、にわかに別の不安がこみ上げてきた。

ーーミツヤスさんって、大丈夫な人かな? 電話の声は優しそうだ

ったけど。

 初めての新宿、しかも家出という形での心細さで、勢いメールに

あった番号に電話をかけてしまった。

 スピーカーフォンの向こうから、ラジオのような音が聞こえてい

たし、一時間半くらいでこっちへ着くと言っていた。

ーー車、なのかな。

 担任から夏休み前の二つの注意事項で、知らない人の車には絶対

に乗らないように、と念を押されたことを思い出した。

 先月にもニュースで、女の子が声をかけられて連れ去られた事件

があった。

 クラスメイトたちよりかは、新聞を読む星乃佳は、薄っすらとだ

が事件について記憶していた。結局はすぐに保護されたようで、犯

人の手口も、道を尋ねるふりをするという単純なものだった。被害

者も小学生で、星乃佳は、そんな見え見えの手に乗るのは、小学生

くらいだろうと、小馬鹿にしていたくらいだ。

 そしてもう一つの注意事項が、SNSの利用について。

 アブナい大人が物色目的で網を張っている。

 教師たちはそう言って、半ば脅すように注意をするが、当の少年

少女らには、どの程度通じているのか。

 突然、奇声に似た甲高い笑い声があがった。星乃佳はハッとして

顔を上げる。

 周囲を見回すと、離れたボックス席で、制服姿の女性客が四人、

手を叩いて笑っていた。一人は喋りながら器用にツケマツゲをつけ

ている。

 見たところ、星乃佳とそう対して年齢は変わらないようだが、そ

のメイクが夜の仕事の女性たち並みに激しかった。制服とのアンバ

ランス感が、かえって『そういう商売』なのかと錯覚させるほどだ。

 ところどころ聞こえるのは、同級生のとある男子がどうだとか、

生物の教師のあれはセクハラだとか、喧しいことこの上ない。

 星乃佳の耳に届く彼女たちの言葉の七割は、聞いたことはあって

も意味の分からない単語ばかりだ。星乃佳も、仲間内だけで通じる、

符丁のような言葉を使ったりもするが、正直あまり楽しくはなかっ

た。

 自分たちは疎外されることを極端に嫌うーーいや、怖がってさえ

いるように思えるのだーーのに、都合の悪い相手、端的に言ってし

まえば『大人』を排斥することになんらためらいを持たない。そう

いった友人たちや、()いては自分自身に違和感を覚えていた。

 騒がしい彼女たちに、サラリーマンの幾人かが、チラチラと視線

を送ると、当の本人たちは、唾を吐かんばかりの口吻で、男性客へ

当てつけるように毒づいてみせた。

 星乃佳は慌てて下を向いた。

ーーきっと、こういう些細なことから、ニュースで見るみたいな事

件って、起きるんだ。

 馴染みのあるチェーン店だったはずなのに、とんでもない異世界

に迷い込んだ気分になった。

 だがそれ以上なにかが起こることもなく、数人のサラリーマンは

時間なのか、場の雰囲気に嫌気がさしたのか、席を立って店から出

ていってしまった。

 店内は再び元の雰囲気を取り戻した。

 四人組の彼女たちも、なにごともなかったようにすでに話題は来

月に行く予定の海へと移っている。

 星乃佳だけが、些細な出来事にいつまでも、気持ちが揺さぶられ

ていた。

 もう何があっても気づかないふりをしよう。ずっと下を向いてい

よう。

ーー私はここにいません。

 そういうオーラを、全身から放つ。

ーーなんでこんなことしてるんだろう、私。

 もはや、後悔しかない星乃佳は、石のように身を固くして座って

いた。

 ふと、テーブルに影が差した。

「永田さん、ですか?」

     

「どう? ちゃんと眠れた?」

 隣のブースの仕切り板をノックして、光泰が声をかけた。

「……はい」

 戸惑いがちな星乃佳の声が返ってきた。

「ごめんね、ここのマン喫はシャワーブースがない店舗だったみた

いで。洗面所は廊下を奥へ行って左側だから」

「……あの、中原さんは?」

「オレ? うん。オレはもう顔洗ってきた。今から朝食頼んでくる

よ。クーポンに朝食が付いてるから」

「すみません」

「いいって」

 光泰がフロントへ向かった気配を確認して、星乃佳はそっと顔を

のぞかせた。

 昨晩、ミツヤスは中原光泰と名乗った。律儀にも運転免許証まで

星乃佳に見せたのだ。

 星乃佳は、向かいの席に腰を下ろした光泰を、驚きと戸惑いの眼

差しで見た。

 メールのやり取りをするときに、互いに多少のプロフィールは明

かした。二十三歳の会社員だというので、正直「オジサン」を想像

していた、しかも十歳くらいも自分と年の離れた人間は、皆一様に

とてつもなく大人に感じるものだ。

 だから光泰が目の前に座り、自己紹介をしたときに、何か違和感

を抱いた。

 まず星乃佳の頭に浮かんだのは「オジサン」じゃない。というこ

とだ。

 星乃佳の唯一知っている、光泰と同年代の男といえば、大学生の

従兄(いとこ)くらいだ。お兄さんと呼べる限界だろう。従兄は学生なのだか

ら、服装も髪型もカジュアルだ。なのでさほど大人感はないが、顔

つきは、同級生のそれと比べれば、やはり違う。

 ところが、目の前に座って、ちょっとぎこちない笑顔を浮かべて

いるのは、どう見ても夏休みの学生といった雰囲気だった。制服を

着れば、高校生でも通りそうなほど、子供っぽい「大人」だった。

 実際、光泰を頼ったものの、説得かお説教をされて、家に帰れと

言われることも、覚悟していた。いくらSNSの中で楽しく意気投合

したとしても、しょせんは大人だ。

 それが、会うなりいきなり光泰は「どこか行きたいところはない

のか」と聞いてきたのだ。まるで、友達同士の待ち合わせのようだ。

 星乃佳はもう一度、家での経緯(けいい)を話した。心のどこか

では、止めてもらいたかったのかもしれない。

 光泰は「だったらしばらく家出をすればいいよ」と言う。星乃佳

の言い分も聞かずに、頭ごなしに意見を押し付けるなんて、少しお

父さんに思い知らせたほうがいい。

「うんと心配させるんだよ」

 光泰はそう言って、いたずらっぽい笑顔を浮かべてみせた。


 ネットカフェの支払いを済ませ、太陽の下で見る新宿は、夜とは

比べ物にならないほどの人の量だった。

 これほどの人間が新宿(ここ)に居たら、きっと日本中の人が集まってし

まっているのではないかと、星乃佳は思った。

「永田さんは、新宿に遊びに来たことはあるの?」

「いいえ。東京も初めて……」

 中原さんはよく遊びに来るんですかぁ。

 と、気の利いた受け答えができればいいのに。星乃佳の語尾は尻

切れトンボに消えていく。

 慣れていないことを差し引いても、会話の間が持たないのは嫌に

なる。

 友人とのおしゃべりでも、星乃佳は聞き役に回ることが多い。む

しろ自分から話題を振ることは珍しかった。言われることは一様に

『おとなしい子』だ。

「オレもねえ、しょっちゅう遊びに来てるわけでもないんだよ。ぶ

っちゃけ田舎者だしね」

 光泰は一見すると高校生風ではあるが、そこは大人だ。どうしよ

う、何したい? などと、星乃佳に全てを決定させることはしなか

った。

「昨日はお風呂に入れなかったから、スーパー銭湯はどうかな?」

「お風呂屋さん? ですか」

 その子供っぽい表現に少し笑みを浮かべた。

「銭湯っていっても、ゲームコーナーとかボーリング場とか、映画

も見られるよ。お風呂はもちろん男女別だから。まあ、温泉旅館の

遊園地(テーマパーク)みたいなもんかな」

 二人は光泰の車で湾岸地区へと移動した。早い時間だったので、

渋滞につかまらず比較的スムーズに到着した。

「なんだか、老舗の旅館みたいですね」

「入口の外観だけね。中はふつーに近代的だよ」

 フロントで一通りの説明を聞き、レンタルの浴衣一式を受け取っ

た。

「じゃ、とりあえずお風呂行ってこよう。待ち合わせはそこの休憩

室ね」

 バイバイ、と手を振って別れた。

 昨日から正直星乃佳は、街を歩いていても、どこかの店に入って

も、神経の休まることがなかった。

 自分と光泰では、どう見ても親子ではありえないし、カップルだ

としたら星乃佳は子供過ぎる。兄妹、に見えなくもないが、微妙な

距離感ですぐに露見するだろう。

 自分は家出、光泰は「未成年者略取」の疑いの目で見られている

のではないか。

 地元でウロウロしていれば、周囲の人間の目が放ってはおかない

のだろうが、やはり雑多に人の集まる東京は、他人に構うことなど

ないのか。いっさい咎められることはなかった。

 女湯の脱衣所は、使用中のロッカーがちらほらとあるばかりで、

それほど混んではいない。

 浴場へのガラス扉を開けると、数人の先客がいた。湯気の中、そ

れぞれが離れたところで体を洗ったり、湯船に浸かったりしている。

 そうやら彼女たちは連れではなく、お一人様らしい。

 お互いに干渉しない中に、星乃佳も混ざることにした。

     ※

 先に上がった光泰は、休憩室で新聞を読んでいた。どうせ女の子

は長風呂だろうとたかをくくっていたのだ。

 星乃佳の第一印象は大人しそうな子で、話をしてみればやっぱり

おとなしい子だった。

 口数の少なさは、年齢を上に見せていた。本人はそうは思ってい

ないようだったが。

 世間には、気軽に『プチ家出』などと称しては、数日間、小旅行

気分で家出を繰り返す女の子がいると、ニュースの特集コーナーで

見たことがあった。

 彼女たちなりの理由があるのだろうが、インタビューで語ること

といえば、勉強しろって言われたからだの、帰りが遅いと口うるさ

いだの、およそ理由ともいえないものだった。

 彼女らが本心を告白しているか確かめようもない。実際はもっと

暗澹(あんたん)たる思いで暮らしていたのかもしれない。だが、どうもプチ家出

をしている女の子たちからは、切迫感を感じられなかった。

ーー永田さんは本気で悩んでいるみたいだ。

 それでも、いっときの感情が収まれば、家が恋しくなるだろう。

聞けば、親から離れて過ごすのは、小学六年生のときにあった林間

学校の一回きりだという。

 それまでの間付き合ってあげよう。

ーー真面目ないい子そうだし。

     †

「今日はどうしようかなあ。夏といえば海かな。やっぱり。と言っ

てもお台場だけど」

 カプセルホテル内のコインランドリーで洗濯をしながら、光泰が

スマホでいろいろと検索している。

 星乃佳から返事がないので、光泰を顔を上げた。

 備え付けの丸椅子に座り、じっと自分の揃えた爪先を見ている。

「どうしたの? 具合でも悪い?」

 星乃佳は首を横に振る。

「そろそろ家のことが気になる、とか?」

 かすかに頷いて、

「……やっぱり心配してる、かな。でも、ニュースになってないし。

お母さん、私のことどうでもいいのかな」

 小さな声のつぶやきは、心細さの表れだろう。

「そうだね。幼稚園児がいなくなったわけじゃないから、警察もい

きなり公開捜査とかしないんじゃないかな。お父さんとケンカした

事情も聞いてるだろうし。でも、あんまり長引けば、なにか犯罪に

巻き込まれたと判断するかもね」

 その、明らかに軽い口調の光泰に、星乃佳は少し違和感を持った。

ーーもしも事件性アリ、となったら一緒にいる自分の立場とか、考

えてないのかな。

 星乃佳は怖くなった。今更ながら、知らない男と一緒に二日も過

ごしているのだ。

「やっぱりホームシックかな?」

 なんとなく表情に出た不安を、そう誤解した光泰が、笑顔を見せ

た。

「じゃ、そろそろ帰る? 送っていくよ」

 うなずく星乃佳に光泰が、

「お母さん、心配してると思うんだけどなあ」

 と、含みのある声で言う。

 星乃佳が首をかしげた。

「だって永田さん、この二日ぜんぜんスマホ見てないじゃない」

 言われて初めて星乃佳は気がついた。家出をした夜、新宿で光泰

に電話をした後、スマホの電源をオフにしていたのだ。もちろんそ

の時は、家からかかってくる電話が鬱陶しいと思ったから。

 星乃佳がスマホを買ってもらったのは、今年のゴールデンウィー

クの明けた五月だった。

 持ち慣れていないせいもあって、その存在をすっかり失念してい

たのだ。

「……あ」

 慌ててバッグの底から引っ張り出す。

「きっとビックリするよ。着信いっぱいで」

 経験があるのか、光泰は楽しそうに言う。

 星乃佳がスマホの電源ボタンを長押しする。ブランドロゴや注意

事項が表示され、システムの確認が終了すると同時に、通知のメロ

ディが鳴る。

 ロック画面には、着信やEメールなどがあったことを知らせる文

字が、見たこともない数字で示されていた。

「ほらね」

 光泰はもう一度、楽しそうに笑った。

 持ちつけない星乃佳は普段から、着信音が鳴るたびに、ドキッと

して手が止まってしまう。ただでさえ、スマホの操作は耳慣れない

カタカナが多くて戸惑っているというのに。そのうえ情報の多さも

生半(なまなか)ではないから、星乃佳はその都度、いちいち思考が止まって

しまうのだ。

「大丈夫?」

「はい」

 星乃佳はとりあえず画面をスワイプしてロックを解除した。

 そして真っ先に星乃佳はスマホをマナーモードにした。今ここで

もし、着信音が鳴り出したら……。

 パニックを起こしそうだ。

ーーもう少しだけ。いま両親の声を聞いたら、またケンカをしてし

まいそう。

 家に着くまでに、心を落ち着けて、いや、やっぱり自分から謝る

べきだろうか。と。星乃佳は助手席に座り、車窓を流れる景色を見

つめていた。

     ※

 東京のベッドタウンである千葉県内のターミナル駅まで、少し渋

滞に捕まったが、昼過ぎには到着した。

「ほんとうにここでいいの? 家まで送ってあげるのに」

 遠慮するなんて水くさいなあ、と光泰は笑った。

「ここからバスでけっこうかかるんでしょ。荷物だってあるんだし」

「……でも、家のそばまで行ったら……」

 警察に誘拐犯と間違えられやしないか、喉まで出かかった言葉を

飲み込んだ。

 光泰は、星乃佳がなにを言い淀んでいるのか分からない様子で、

キョトンとしている。

 きっとこのまま会話を続けても、光泰とは話は噛み合わないまま

だろう、と星乃佳は諦めて、車のドアを開けようとしたが、

 路肩に停車した車の運転席の窓を軽く叩く音がした。

 邪魔な場所に止まっていることを注意されたのだろうと思った光

泰が振り返ると、そこには制服の警官が立っていた。

 助手席側にももう一人。車内を覗き込みながら肩の無線に向かっ

て、なにかを叫んでいる。

「ほらね、やっぱり心配してくれていたじゃない」

 ね、と光泰は星乃佳に笑いかけた。

     †

「だから、ご両親からも捜索願が出ていたんだよ」

「僕もそう言ったんですよ。永田さんに。親には黙って出てきてし

待ったと言ってましたから。きっと探してるよって」

 中原光泰はそのまま所轄の警察署に連行された。

「それなのにキミはのこのこ彼女の自宅近くまでやってきたってい

うのか?」

 取り調べにあたったベテラン刑事は、何度も机の下で握り拳を固

めた。この中原という男の、のらりくらりとした態度が、どうにも

我慢ならなかった。

 常から、今どきの若い奴らは、と部下や後輩に説教を垂れている

くらいだから、旧態依然とした精神が抜けきれていないのだ。

 今も「貴様!」などと前時代的な恫喝まがいの怒鳴り声をあげそ

うになった。

「のこのこって。彼女が帰りたいというから家まで送ってあげよう

としていたんですよ。でも、永田さんは遠慮して駅前で降ろしてく

れっていうから、あそこで車を止めていたんです」

 それなのに、なぜこんなに責められなければならないのか、理解

できない。という顔をしていた。

「でも彼女、ずいぶんと控えめな子ですよね。家出なんかしたのも、

よっぽど頭にきてたのかなあ。ひどいですよ」

 光泰の言葉に、調書を取っていた若い刑事が「マズい」という表

情でベテラン刑事の顔を盗み見た。

「……お前なあ」

 ベテラン刑事が机を叩く寸前に、若い刑事がわざとらしい咳払い

をした。

 刑事は口中で舌打ちをすると、ギロリと若い刑事を睨みつけた。

「えーと、中原さん。いいですか。たとえ本人が家出をしたいと言

ってもですねえ、親の承諾なしに連れ回すのは犯罪なんですよ?」

 光泰は、不思議そうに刑事の顔を見た。

「でも、彼女は父親の横暴にがまんできなかったんですよ。だって

そうでしょう。子供に自分の理想を押し付けるなんて、ひどいです

よ」

「だとしてもだ、キミがよそ様の家族の問題に口を挟むのはどうか

と思うがねえ」

 『でも』『だって』『ひどい』が中心の光泰の言葉を聞いている

うちに、再び怒りがこみ上げてくる。

「それで、キミはどうするつもりだったんだ」

「どうって?」

「いや、だからね。もし永田さんが帰りたいと言いださなかったら

どうしたの?」

「そうですねえ。どうだろう。僕にも仕事があるし、家に連れてく

わけにもいかないし」

 そんなことは考えもしなかったというように悩みはじめた光泰を、

刑事はイライラしながら睨みつけている。

「あのねえ、中原さん。子供が、それも十四歳の女の子がいなくな

ったら親御さんが悲しむだとか思わなかったの?」

 ベテラン刑事は、まるで小学生に話すような口調になっていた。

 光泰は怪訝そうな表情で答えた。

「でも、僕は親になったことがないから分からないですよ。そんな

こと、今まで考えてみたこともないですし」

 ベテラン刑事のこめかみが、ヒクヒクと動く。強く奥歯を噛みし

めているようだ。

「だったら、キミの家族が、たとえばご両親が突然いなくなったら

心配するだろう」

「はい。困ります」

 刑事はうんうんと頷いた。

「ほら、な」

「でも」

 光泰はその()()()は間違っていると言わんばかりに、

「永田さんの話ですよね? 彼女は僕の親じゃないですよ。僕の両

親は旅行に出かけているだけですから」

 向かいに座っているベテラン刑事は、ものすごく嫌そうな顔をし

た。

     4

ーーどうしてあのおじさん刑事があんなに怒るのか分からない。

 光泰が自宅に帰りついたのは、日付が変わった翌日の深夜だった。

ーー良かれと思って永田さんに手を貸しただけなのに。

 理由はわからなかったが、とにかく家に戻ることができた。ひょっ

としたら、このまま何日も帰してもらえないかと思っていたから、

正直ほっとはした。ただし居どころを明らかにするようにと注意を

のと、後日両親と会社に事情を聞くかもしれないと刑事に申し渡さ

れて、背筋が凍った。

 光泰には、自分が悪いことをしたという自覚はなかった。だが、

会社や近所に刑事に聞き込みなどされたら。

 真っ暗なリビングで、一人ソファに座りぼんやりと宙を見上げた。

テーブルには、出がけに開けた缶ビールがそのままになっている。

 昨日で連休は終わった。

 夜が明ければ、会社に出勤しなければならない。

ーーきっと刑事が会社に来る。来なくても、あの嫌な感じの刑事が

電話をかけてくるに違いない。

 光泰は迷った。家にこもっていようか。

 でも、毎朝顔をあわせるお隣のおばちゃんに、姿を見せないこと

で怪しまれるのは避けたかった。先週のゴミ出しの日に、今日から

出勤だと立ち話をした。

 光泰はソファから立ち上がった。

 とにかく頭をスッキリさせて、どうするか考えることにした。

ーーとりあえず、シャワーだ。


 朝日が昇り、いつも通りの時刻に家を出た。

 光泰がカーポートから車を出そうとしていると案の定、隣家の夫

人に声をかけられた。

 ルームミラー越しに笑顔で見送るその姿を目にして、思わずため

息が漏れた。

 どんどん気が重くなっていく。気がつけば勤務先の工務店とは反

対の方向に車を走らせていた。

 光泰の気分とは裏腹に、八月の太陽は爽やかを通り越して、ギラ

ついた熱を地上に放っている。

 悩んだあげく、街道沿いのホームセンターの駐車場に車を止めた。

千円の買い物をすれば三時間は無料の駐車場だったが、その倍の時

間駐めておいても、徴収される料金が二千円以下という、妙な設定

のおかげで、駐車場がわりに使っている近所の住人も多かった。

 光泰もそこで時間を潰した。

 結局怖くて会社には行けなかった。欠勤の連絡も入れていない。

もちろんスマホもおふったままだ。

ーーどうしよう。

 もうすぐ夕方だった。両親は今晩旅行から戻る予定だった。

 なにごともなかったように振舞わなければ。

 会社を無断欠勤した時点で、なにごともないはずがないのだが、

光泰の思考は、それすらわからなくなっていた。

 ホームセンターの駐車場をでて、家路をたどる。

 カーラジオが午後三時を告げるのを、待っていたかのように、フ

ロントガラスにぽつりと雨が落ちた。

ーーあと少しで家なのに。

 途端に、バケツをひっくり返したような雨が、車の屋根を叩く。

 ワイパーを作動させようと、ほんの一瞬視線が外れた。

 コツン。

 ほんの軽い、衝撃ともいえない感触に光泰が視線を戻す。

 クマ?

 と思った次の間には、女の子がぺしゃりと地面に膝をついていた。

     †

 水都(みと)は焦っていた。

 母親との約束で、外出してもいいけれど、午後三時までに家に帰

らなくてはいけないことになっていた。

『水都、夏休みだからって、遅くまで遊んでちゃダメよ。ちゃんと

三時までに帰ってくること』

 今日も出がけに、母親に釘を刺された。

ーー遊びじゃないのに。

 ぷっと頬を膨らませたが「はーい」と返事をして家を出た。

 同じクラスの柚夏(ゆうな)ちゃんの家で、夏休みの宿題を一緒にする約束

をしていたのだ。

 十五分もあれば行き来できる近所だからと、ついつい腰をあげる

タイミングが遅くなってしまった。

 友人の家を出て少し歩いたところで、防災スピーカーから三時の

時報のチャイムが聞こえた。

 やっぱりお母さんに電話したほうがいいかなと思い立ち、リュッ

クから子供用ケイタイを取り出す。

 折しも雨が降り出した。

ーーおこられるのヤダな。

 後ろめたさでぐずぐずしていると、後ろから誰かに思い切り突き

飛ばされた。

「きゃ!」

 そう感じたのだが、実はそれは車だった。

 背中のリュックがクッションになったのと、車のスピードが出て

いなかったのが幸いしたのだろう。転んだはずみで膝をついただけ

だった。

 慌てて車から降りてきたのは、知らない男の人だった。

 何か言っているのだが、驚きすぎている水都にはその男の言葉が

うまく理解できない。

 男が水都の腕をとって助け起こした。

 すると今度は水都の膝を見て慌てた。

「大変だ、ほら、僕の車に乗って」

 水都は、親切に送ってくれるのだろうと思った。それに、だんだ

ん膝がヒリヒリしたきた。

 助手席のシートに座らされて、シートベルトを締めてもらってか

ら、ようやくこういう時はどうしたらいいのか、学校の先生やお母

さんに言われていたことを、水都は思い出した。

ーー知らない人について行っちゃダメ。

 バタン。

 と、運転席のドアが閉まる音に、ビクッと反応した。

「僕のウチ、すぐそこだから、擦りむいたところ手当しようね」

ーー車にはぜった乗っちゃダメよ。

 だから水都は、大きな声で叫ぶことにした。

     †

 車の下敷きになったのか、と思ったが、少女は車からわずか前

方の路上でへたり込んでいる。

 光泰が慌てて車から降りる。

「大丈夫!?」

 当の少女は驚きのあまり、放心状態だ。光泰が腕をとって立た

せてみる。

 どこか骨が折れているという様子はないようだ。

「ああ、ヒザ、擦りむいちゃってる」

 ハーフパンツから覗く膝から血がにじんでいた。さらに強くなる

雨脚で、二人とも濡れる一方だ。

「僕の家がすぐそこなんだ。傷の手当てもして、服も乾かさなきゃ」

 間近で顔を見たが、知らない子だった。もっとも、特別子供好き

というわけでもない光泰には、子供の区別などつきようもなかった

が。さりとて、子供が嫌いというわけでもなかった。怪我をしてい

ればかわいそうだとも思う。

 とにかく少女を助手席に乗せ、シートベルトをした。

 車を発進させようと、エンジンをかけようとしたその時、今まで

ぼうっとしていた少女が、突然大声をあげた。

「誰か! 助けて!」

 ドアのロックを開けようとするが、うまくいかない。見かねた光

泰がシートベルト外してあげようと手を伸ばした。

 それを勘違いしたのか、なお激しく暴れた。

 あげく、リュックにぶら下がっていた小さな防犯ブザーに手をか

けた。

 光泰は、刑事の言葉を、あの嫌なものを見るような目つきを思い

出した。

ーーまた疑われる。

 どんなに相手が望むことをしたと言っても、それば善意からだっ

たとしても、この善意は自分の中だけなのだと、思い知らされたば

かりだ。

 自分の外の世界では通用しないということを。

ーー違うんだ。誤解なんだよ、ねえ。

 いくら少女に言い募って見ても、少女の叫び声を止めることがで

きない。

「黙れ! 頼むから静かにして」

 光泰は夢中で少女の口を塞いでいた。

 なおも少女が暴れるものだから、光泰はのしかかるように強く口

を押さえた。

     †

「不審者と不審車両の目撃情報がいくつかありましたが、空振りで

したね」

 捜査会議では聞き込みの結果、不審者と現場付近で見慣れないワ

ンボックスカーが停まっていたという情報が上がってきていた。

 調査の結果当該車両は、近隣の住人宅へ帰省中の家族のものであ

ったことが判明した。

 不審者も、声をかけられたと主張した子供たちの思い違いや、嘘

だということがわかった。

 山本刑事はため息をついた。

「だけどこの不審者の目撃情報が、子供の嘘ってなんなんですかね」

「まあ、子供っていうのは他愛もない嘘をつくものだ」

 土屋刑事が、カリカリする山本刑事をなだめた。

「でも、以前道路で遊んでいたところを注意されたのを根に持って、

意趣返しするなんて」

「だからさ、深くは考えていないんだよ。ちょっと困らせてやろう、

くらいにしかな。刑事に疑われればザマーミロだ。お前も子供を持

てばわかるって。すぐに露見する嘘を平気でつくんだよ」

「だけど、他の子供までその尻馬に乗って証言したんですよ」

「その子供たちだって、大人に、それも刑事に“何か見なかった?”

なんて聞かれたら、答えなきゃいけないと焦るものだ。知らないと

言えば、注意力の無いヤツだと思われる。プレッシャーだぞ。水を

向ければ友だちから聞いたうわさ話でも自分の事のように思い込ん

でしまいかねない」

 イスの背もたれをギシギシいわせている土屋刑事。

「だからさ、聞き込みっていうのはデリケートなんだよ」

 今更いわれなくとも承知している。と思ったが、口に出すほど山

本刑事も愚かではない。

「だけどなあ、あのあたりは当夜水都ちゃんのご両親やご近所さん

が遅くまで探していたんだよなあ」

「はい。公園も、植え込みの中まで確認したと言っていましたから、

あの側溝に気づかないはずはないと」

 それでは、夜明け前の間隙を縫っての遺棄だったのか。

 死亡したのは発見された日の前日、午後二時ごろから遅くても六

時ごろまでの間であると推定された。

「もっと人気(ひとけ)のない場所に遺棄しなかったのは、愉快犯の仕業ですか

ね」

「うーん。時間に余裕がなかったのかもしれないぞ。他人の目より

家内(かない)の目、ってな」

「なんですか、それ。格言とか?」

「いや、オレが今考えた」

 土屋刑事と山本刑事が、無駄口で悶々とした気分を晴らしている

と、

「土屋さん、千葉の所轄から人定(じんてい)が来てますよ」

「なんだい、千葉まで出張して悪さをするとは、精が出るなあ。ど

このチンピラだ?」

 部下から用紙を受け取った。

「……」

 書類の文字に目で追うにつれ、土屋刑事の眉間にしわが寄る。

「どうしたんですか?」

 これだ、と言って山本刑事に書類を渡す。

 千葉県の少女を三日間連れ回した男についての本人確認だった。

「この男の現住所、水都ちゃんの家の隣町ですが、番地からいうと」

 山本刑事が壁に掛けられている詳細地図を振り返った。

「ここと、ここ。道を挟んで向かい側です」

 ボールペンの先で二点を指した。

「互いの家が見える位置関係ではないな」

「ですが、駅までの生活道路は同じですよ」

 千葉の事件は中学生で、こちらのヤマは小学二年生。被害者の年

齢に開きはあるが、

「あたってみるか」

 土屋刑事が立ち上がった。

     †

 雷雨のせいか、日暮れまでにはまだ間があるというのに、辺りは

暗くなっていた。

 家が見えてきたところで、光泰は、息が止まりそうになった。

 道に面したリビングに明かりが灯っている。

 エンジン音を聞きつけたのか、玄関のドアが開いた。母親が顔だ

けドアの隙間から覗かせる。

「おかえり、光泰」

 光泰は助手席のウインドウを少し下げた。

「母さんこそ、早かったね」

 夜にならなければほどらないはずの両親が、すでに帰宅していた。

「そんなことより、ねえ、明日あんたの車貸してくれないかしら。

会社にはバスで行ってちょうだい。お母さんちょっと用事があるの

よ」

 背筋が寒くなった。

 くどくどと、理由を言う母親の声は耳に入らなかった。

「お願いね」

 そう念を押すと、顔を引っ込めてしまった。

 明日、リアシートの下に転がっている死体をどこか遠くへ捨てに

行こうと考えていた光泰にとって、母親の頼みは到底聞き入れられ

るものではなかった。だが、頑なに断れば不審を買うかもしれない。

ーー夜のうちに捨てに行かなくちゃ。

 光泰は、隣町にある児童公園を思い浮かべていた。

                         了

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