中国誤事 蛍雪の謀
元の意味
蛍雪の功:苦労して勉学に励むことで功績を残すことができる。
車胤と孫康がそれぞれ蛍の光、窓に積もった雪明かりで勉学に励み、高級官吏に出世したことから。
蛍窓雪案などとも言う。
歌謡『蛍の光』はこの故事をもとにして作られた。
それは古代中国での出来事であった。
晋の時代末期、南平郡に車胤という少年が住んでいた。
車胤は官吏となるために学問を志したが、父の車育が南平郡の主簿であったにも関わらず家が貧しかったため、夜の明かりにも事欠く始末。
これでは九品中正制度で官吏に登用される事は難しい。
そこで頭の回転が早い車胤はどうにかして書が読めるだけの明かりを手に入れることにした。
◇ ◇ ◇ ◇
「父上、どうしてこんなに早く灯りを消してしまうのですか。これでは書が読めません。」
暗がりの中で憤る息子に困ったような声で父が答える。
「車胤、分かっているとは思うがわが家は今とても貧しい。夜に灯す明かりだとて金がかかるのだ。
お前が官吏になるために学問に勤しんでいるのは応援しているし、金さえあればいくらでも書を買い与えてやりたいのだが先立つものが無い。
どうか理解しておくれ。」
「理解はしています。ですが官吏になるには富家や豪族の子弟のように中正(試験官)に多額の賄賂を贈るか、他者の追随を許さぬほどの知識が必要なのです。
それに私が官吏にさえ成れれば、俸禄と後ろ暗い事をしたい者たちからの付け届けで我が家は間違いなく富みます。
どうか中正による推挙まで、推挙まででいいのです。私に学問をさせてください。」
必死ですがる息子に心動かされる車育だったが、息子の望むまま油を使っていては明日の食すら危ぶまれる。
油に変わる夜の明かりを考えていた車育はふと思いつくものがあった。
「車胤、薄布の袋を用意してやろう。丁度季節は夏の終わり、川辺に行けばまだ蛍がたくさん飛んでいる。
蛍を布に詰め、明かりの代わりにするのだ。」
父の思い付きに明らかに落胆してうなだれる息子は大きなため息とともに言った。
「父上、例え百匹集めたとて蛍程度の明滅する明かりで文字は読めません。それに集めた蛍は一晩も経てばすべて死んでしまいます。
そのようなくだらない虫取りをしている間も惜しいというのに、どうして父上は…。」
その時車胤の脳髄に電撃が走ったように何かを閃いた。
「そうか、父上。蛍ですか、とても素晴らしい案です。さっそく薄布の袋を用意していただけるよう母上にお願いしましょう。
私は今から蛍を集めに行ってまいります。」
もう夜も遅いと止める父を振り切り、母から布袋を受け取った車胤はその晩袋いっぱいの蛍を集めて来た。
そして次の日も次の日も、車胤の蛍採集は夏が終わり蛍が居なくなるまで続けられた。
蛍が捕れなくなると、車胤は父に言った。
「父上、主簿の伝手を使って私を太守の王胡之様に会わせてください。」
「太守様に会ってなんとする。いくら太守様にお願いしようとも、中正の推挙が無くては官吏になど成れないぞ。」
「別に推挙の口利きをお願いしたり、お金の無心に行くわけではありません。会えば毎夜蛍を集めた成果が現れるかもしれませんので。」
首をかしげる父であったが、自分の立場であれば短い時間太守様にお目通り願うことなど造作もない。
息子にくれぐれも失礼が無いように厳しく言い含めると、数日後に息子と共に太守王胡之と会えるよう約束を取り付けた。
「車育、堅物のおぬしがわしに会いたいとは珍しいこともあるものよ。なんぞ問題でも出たのか。」
太守王胡之が椅子に深く腰を掛けながらその太った腹を揺らす。
「いいえ、王胡之様の貴重なる時間を割いて頂いて誠に恐縮なのですが、本日は我が愚息がどうしても王胡之様にお会いしたいと申しておりまして。」
「ふぉほほ、よかろう。政務も無く暇をしていたところじゃ。」
王胡之の細い目が値踏みする様に車胤を捉える。
「お初にお目にかかります、私は車育の息で車胤と申します。本日は常日頃より敬愛する王胡之様にお会いできて大変嬉しく感じております。」
「ほう。敬愛かね。」
「はい、父よりも毎夜のように王胡之様のように誰からも敬愛される徳の高いひとかどの人物に成れと言われております。
父が下々の者から付け届けも受け取らず堅物と揶揄されるのも、自らが受け取った賂で王胡之様の大徳に傷をつけてしまっては死して詫びてもまだ足りないという事と聞き及んでいますが、実際に会って確信いたしました。
その全てを見透かすような鷹のように鋭い眼光と、威光があふれ出すような貫禄のあるお姿。
一言言葉を交わしただけでも分かるような、高い知性の輝きは私が今まで会ったどのような者も並び付きません。
王胡之様のその威徳を目にすれば、分別もつかぬ赤子すらも首を垂れることでしょう。」
「ふぉほほほ。堅物の息子にしてはよくわかっているではないか。」
その後も車胤は王胡之を歯の浮くような台詞を並べ立てて持ち上げ、褒めたたえた。
気を良くした王胡之が言った。
「車育よ、この息子わしが見るに将来高官に上る相であろうことが分かる。勿論わしには及ばぬだろうがな。
息子を学問に励ませ、来たる日に中正に判じさせるが良かろう。」
すると車胤は目に見えて落胆したような表情となり言った。
「私は今日まで王胡之様を目指して学問に励んでまいりましたが、とても時間が足りないのです。
貧しさに夜は家の灯りも消え、わずかでも書を読み進めるべく蛍を集めて灯りとしましたがそれができるのも夏だけの事。
秋にさしかかった今では蛍もおらず日も短くなりゆきて、書を開ける時間も減っております。」
「む、蛍とな。最近夜がな布袋いっぱいに捕えた蛍を運ぶ不可思議な小僧がいると聞いていたが、お前だったのか。」
「はい、お恥ずかしながら、きっとそれは私でしょう。」
王胡之は眼を閉じてしばらく考えると言った。
「車胤といったな、わしの屋敷は警備のため陽が落ちてから明けるまで火を灯している部屋がある。
そこを使い勉学に励め。屋敷への立ち入りはわしが許す。」
この時のために車胤は蛍を捕え運ぶ際、故意に何度も王胡之の家人にさりげなく接触していたのです。
夜中に蛍を運ぶ不可思議な小僧の噂は家人から王胡之へと伝わり、やがて王胡之の思考にしっかりと根を下ろしました。
強く印象に残っていた不可思議な小僧が、自分にあこがれ貧しさを乗り越えて学問を修めようとする少年だったと知った王胡之は、つい車胤の手助けを申し出てしまいました。
この後王胡之の屋敷で勉学をする事になった車胤は、たゆまぬ努力を続けながら人脈を作り、数々の謀を成功させながら高級官吏に抜擢され、最後には吏部尚書の官位まで昇りつめました。
◇ ◇ ◇ ◇
この出来事は同時代の雪明かりを使って謀を成功させ、書を読むための灯りを手に入れ出世した孫康と合わせ『蛍雪の謀』として後々までに語り継がれた。
中国誤事
蛍雪の謀:ただ生真面目に勉学に励み知識を積み上げるだけでは功績は上げられない、知恵をしぼって策謀を成功させてこそ大きなことが成し遂げられるのだ。
車胤の参考文献:Wikipedia