6.
気づいたら、あたしは硬い床にぺたんと座り込んでいた。
周囲の馬と馬車とを見れば、ここがメリーゴーラウンドの台座なのは一目瞭然だった。回転木馬を彩っていた毒々しい電飾は全て落ち、陽気で浮ついた音楽もきっぱりと絶えている。
硫黄めいた異臭もなくて、空気がびっくりするほど美味しかった。
──戻って、これたんだ。
感慨しながらぱちくり瞬きしていると、
「大丈夫か?」
「ひゃっ!?」
ぬっと現れたウサギの顔が、視界を専有しつくした。
思わず仰け反って頭を後ろの馬車にぶつけ、痛みであたしは涙目になる。「あんたのどっきりの所為で大丈夫じゃなくなりかけたわよ」って怒鳴ってやりたいとこだけど、相手は冗談抜きに命の恩人だ。
仕方ないので、ただこくこくと頷いた。
ウララビは満足げにひとつ頷き返し、あたしがぶつかったばかりの馬車を指す。上体を捻って見上げると、そこには四人の男女がぎゅうぎゅうに押し込まれていた。
うち三人は知らない顔だったけど、その中にはマリの姿がちゃんとある。
彼女の体が息づいてるのを確かめて、あたしは胸をなで下ろした。
「……よかった。あんたも、ありがとうね」
「何よりだ」
素っ気ない返事に苦笑しながら立とうとして、果たせずあたしはまたへたり込む。安堵のあまり、腰が抜けたみたいだった。
たはは、と照れ隠しに肩を竦めたら、ウララビが体を折って腕を伸ばした
そのまま干した布団を取り込むみたく、ひょいと小脇に抱えられる。とりあえずメリーゴーラウンドを離れようって腹なんだろうけど、なにこの屈辱。
そうして近場のベンチに着座させられ、膝に頬杖を突いてウララビが他の四人をも運搬する様を眺めながら、あたしはさっき閃いた、ウサギへの直感を吟味する。
結論は、「やっぱそうなんじゃないかな」だった。
「ね、ウララビ」
「くん」
「ウララビくん」
「なんだ」
「あたし、教えてないのよね」
「何をだ?」
「名前。あたし、あんたにフルネーム教えてないんだよね。確かにあたしは博美だよ。蜷川博美。でもあんたにはニナとしか名乗ってない。なのになんで、あたしの名前知ってるの?」
「……」
「黙っても駄目。呼んだよね、あの時」
あたしは深呼吸をひとつして、観覧車がなくなって見晴らしがよくなった空を眺める。
遠くで、夜が白み出していた。
「あとさ、ドリームキャッスルは訓練施設って言ってたよね。あんたはそこで鍛えられたって。じゃあ鍛え始める前のあんたはどこで生まれて、どこで育ったの? ううん。どっから連れてこられたの?」
裏野ドリームランドでは子供が消える。
アトラクションに関係してないから、この話を今夜はスルーしてた。
でも、よくよく考えればこれだっておかしいのだ。だって今まで見てきた通り、ドリームランドに巣食った奴らが餌食にしてたのは子供だけじゃない。
だったら、殊更に「子供」ってキーワードがピックアップされるなら、それ相応の何かがきっとあったのだ。
例えばマスコットの着ぐるみに入って園のヒーローになってくれるような、その為の拷問紛いの訓練をくぐり抜けれるような、そんな子供を探し出すのを目的とした連続誘拐事件みたいな、何かが。
「要するに、さ」
たまたまあたしの後輩が肝試しをして、たまたま行った先に本物のお化けが巣食ってて、たまたま本物のヒーローがそこに居合わせて、たまたまその中身が攫われたあたしの幼馴染みだった。
そんな偶然、あるわけがない。
ないと思いながら、不思議と確信していた。
「あんたなんでしょ、あっくん?」
「……どうして、わかった?」
ウララビが、呻くような声を絞り出す。何よりも雄弁な回答だった。
「どうしてもこうしてもないわよ。名前呼ばれた途端、一遍にピンと来ただけ。強いて言うなら女のカン、かな」
「そうか」
「あっくんがいなくなってから、おじさんもおばさんも大変だったんだからね」
「そうか」
「あたしだって、大変だったんだよ」
「そうか」
「しっかりしなきゃって思って、あっくんみたくなろうって頑張って、そのうち人に手を貸せるようになって。今じゃすっかりあたしが『助けて』って言われる側だよ。跳ねっ返りだよ」
「そうか」
あんなに会いたかったのに。
言いたい事だって、たくさんあったはずなのに。
いざ再会を果たしてみたら、気持ちは少しも言葉にならない。ただ恨み言めいた未練が、とめどなく溢れるばっかりだった。
そのひとつひとつへ律儀に頷くウララビの中でも、声にならないものが渦を巻いてるみたいだった。
あたしはウサギの孤独を思う。
悪いヤツをやっつける為に必要な犠牲だった、なんて言えば聞こえはいい。
でも、変わらないじゃないか。
家族や友達を含めた世界の全てから無理矢理に切り離されて。閉じた園で当てもなく、ただ自分の役割を果たす機を待ち続ける日々を強いられて。
そんなの、あの悪趣味な観覧車とちっとも変わりがないじゃないか。
正義の味方を押し付けられた少年は、このドリームランドでひとりきり、どんな夢を見ていたのだろう。
「泣くな」
「泣いてないし!」
顔を覆ったあたしを撫でて、言葉だけは静かにウララビが囁く。
涙声で否定したけど、情けない事に嗚咽はまるで止まらなかった。
どれくらい、頑是無い子供のようにしていたろう。
いつしか曙光が、あたしたちをそっと包んでいた。か細くわずかな光は、それでも体にぬくもりをくれる。
顔を上げると、ウララビと目があった。
泣き止むまでずっと傍についててくれるとことか、笑えるくらい昔のままだ。
「あのさ」
「なんだ」
朝日の下のウララビは、もう体の半分くらいが透き通ってた。
あたしが彼を助けられたらなんて、そんな欲張りを思う。
でも。
──助けられるのは生きている人間だけだ。
一番最初に、釘は刺されてしまっていたから。
「また来るねって言ったら、怒る?」
「お客様なら、いつだって歓迎だ」
「そっか」
やっぱり、って感じだった。
そういう事なのだ。
あたしと彼との関係は、もうそういう形しかありえない。あの日に帰る事は決してない。
つまるところ、あたしはきっぱりフラれたわけだ。
ぐいと腕で目元を拭って、勢いよくベンチを立った。
こんな湿っぽいのが最後になったら、また悔いが残ってしまう。だから、とびっきりの笑顔を作ってみせた。
軽く握った拳を胸の前に持ち上げる。ウララビも、合わせて同じようにした。
──さよなら、あっくん。
お互いのそれをちょんとぶつけて。
あたしたちは今度こそ、綺麗さっぱり別れたのだった。
*
それからの事を、少しだけ話す。
マリたちは特に後遺症もなく、全員無事で過ごしている。ただそれぞれの恋人関係は、すっぱり消滅してしまったらしい。きっと園内を逃げ回る間に、信頼を損なうような何かがあったんだろう。
正直な話、気にしなきゃいいのにってあたしは思う。
そりゃ土壇場でこそ知れる本性ってのはあるだろうけど、逆にそういう瀬戸際じゃなければ、そんなのまず出やしないんだから。
でもまあ一度見ちゃったら、知らないふりってのも難しいのかな。
あたしはと言えば、変な武勇伝に尾ひれが生えて泳ぎ回って辟易してる。
そりゃ確かにあたしが乗り込んだその夜に、裏野ドリームランドの遊具がごっそり損壊したわけだけどさ。でも「観覧車を一撃で蹴り倒す女」ってのは流石にないんじゃなかろうか。
無責任な話を流布した輩は絶対に見つけ出してとっ捕まえて、無責任な噂の怖さってのを叩き込んでやろうって思ってる。
そうそう、叩き込むで思い出した。
実はウララビと別れた後の泣き顔を、いつの間にか起きてたマリに盗撮されてたらしい。「ニナ姐さんの激レアショット!」とか言って配り歩いてたので、あの子にはあたしの怖さってのを叩き込んでおいた。
でも大分後手に回ったみたいで、気づいた時にはもう、友人の友人の友人辺りにまで写真は拡散してしまっていた。完全な抹消は諦めなくちゃならないみたい。まったくもって許すまじ、だ。
その上どういう風の吹き回しか、がっつりとっちめたはずのマリが最近、やたらとあたしに懐いてくる。
眼鏡の奥の瞳をキラキラ輝かせながら、「泣いてるニナ姐さん、可愛いかったです……!」ってすり寄ってきて、あの、なんか怖いからやめて欲しいんだけど。
でもって、最後。
帰ってから、あたしのズボンのポケットにウララビくんのキーホルダーが押し込まれてるのに気がついた。
子供がお土産に買うようなちゃちいヤツで、「センスないなあ」って指でそっとつついたら、不覚にも涙が滲んだ。