4.
ウララビが半魚人をやっつけたからだろう。
アクアツアーの水は気が付けば消え失せていて、だからあたしたちは船を降りて次のアトラクションを──ジェットコースターを目指した。
着いてみたら乗降口にはピカピカのコースターがもう待機してて、如何にも「さあお乗りください!」って感じで怪しさ満点だったんだけど、でも問題はそこじゃなくて。
「ウリャリャビくん!」
「ウララビ」
「ウララビくん! だだだだだ大丈夫なんでしょうね、これ! 事故ったらお化けとかもう無関係に死ねるんですけど!?」
「大丈夫だ」
隣を見たらウララビは、頭おっきすぎて安全バーを降ろせてなかった。
あんたこそ大丈夫なの? フリーフォールできちゃいそうだけど平気なの?
「そう案じるな。ここのはコースターの稼働中にだけ現れる、乗客にのみ手出しできる存在だ。である以上、逆説的に整備は万全で相違ない」
いやそれコースター自体を脱線させるみたいなパターンもあるんじゃないかな、なんて思うけど、でもやっぱり問題はそこじゃなくて。
「あのね、そうじゃなくて」
「じゃあなんだ」
こいつに見栄を張って平然と乗り込んで見せたけど、あたしの脂汗の理由は別にあって。
「無理! やっぱこういうの無理! あたしホントは駄目なのよ。こういうのホっっントに駄目なのっ!」
「もう少し、早く言え」
呆れ果てたため息と、出発進行のブザーが鳴るのとは同時だった。
がこん、と容赦なく機体が動き出す。死刑執行を告げるように、ゆるゆると傾斜を這い上り、やがてレールの先が見えなくなる。見えないほどの傾斜になる。
心臓がもう、破裂しそうにばくばくしていた。
高いんだけど。これすっごい高いんだけど!
ぎゅっと固く目を瞑った。
降下するエレベーターで感じるみたいな、ふっと体が浮き上がる感触。それが続く。ずっと続く。あたしの体が落ちていく。真っ逆さまに落ちていく。
「うっきゃああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ──」
「──ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああっ!!」
やがて体がスピードを感じなくなるまで、あたしはずっと絶叫してた。
薄目を開けてそおっと辺りを見回すと、そこは元の乗降口だった。帰ってこれたんだと、心の底からほっとする。喉が痛い。あとバーを握り締めてた手が痛い。うう、満身創痍だ。
こんなのがたのしいひとがいるなんてしんじらんない。
もーやだ。わたしうちにかえるこわいよう。
膝ががくがくして立ち上がれないあたしに、すいとウララビの手が差し伸べられた。情けをかけられたようで悔しいけど、お礼を言ってありがたく掴まる。
固い地面に降り立って安堵のあまりに喘いでいたら、
「誰にでも弱点はあるものだな」
あ、こいつ今笑ったな。あたしの醜態を嘲笑ったな。
「あんた、覚えてなさいよ」
「ああ、覚えておく」
脅しをかけたると、またちょっと笑んだ気配がした。
「いつでもリベンジマッチはオーケーって事? いい度胸じゃない」
応じて、あたしも笑って見せる。
ん、よし。少し調子戻ってきた。
あたしは伸びをするとジーンズの尻を叩いて深呼吸をして、
「うっわあ!?」
もう一度、悲鳴を上げる羽目になった。
だってウララビが手に、剛毛の生えた筋骨隆々たる腕を、腕だけを握ってたんだもん。それは多分右腕で、肩の辺りからねじ切られたみたいだった。ていうかあの、切り口っていうか断面っていうかから、血がだらだら垂れてるんですけど!?
「それなに!? どこで一体どうしたのよ!?」
「途中でお前に手を伸ばしてきた。なので、もぎとっておいた」
「もぎ……」
「もうひとつ、悲鳴で手一杯だったろうから言っておく。ここにもお前の後輩はいなかった」
「あ、うん。そう。ありがと」
心が篭らない言い口になってしまったのは、悪いけど致し方ないとこだと思う。だって色々、インパクト強すぎだもの。
「ところでその、それ、どうすんの?」
頭を振りながら、どうにかそこだけは訊ねた。
隣のウサギが鮮度抜群の片腕をフランスパンよろしく持ち歩いてるって絵面は、心臓にとてもよろしくない。
「遺失物センターに預けておく。暗がりで頭上から手を伸ばすものといえば、古くから鬼と決まっている。そして鬼は奪われた腕を取り返しに来るものだ。来たところを、配した伏兵で始末する」
あ、はい。左様ですか。
ていうか機能してるんだ、遺失物センター。
*
残念ながら、ジェットコースターにもマリたちはいなかった。
すると残るは悪辣と評されたふたつ、観覧車とメリーゴーラウンドになるわけなんだけど。
あたしはちらりと隣を見る。
ウララビは着ぐるみだから表情がわからない。だから疲れてるかとか無理してるとか、そういうのもわからない。ミラーハウスからこっち動きっぱなしだけど、こいつ大丈夫なのかな?
「……あー、あたしちょっと喉渇いたんだけど、少し休憩挟まない? 自販機とか動いてるのないの?」
「残念ながら、そういった類は機能していない」
それからウララビは、ぽんとあたしの頭に手を乗せて、
「気を遣わせたな。だが俺なら大丈夫だ」
「だっ、誰が気なんて遣ったのよ! 馬鹿じゃないの? 馬っ鹿じゃないの!?」
噛み付くあたしの頭を、「わかった、わかった」って感じにウララビが撫でる。
む、と思ってすげなくその手を引っぱたいたけど、着ぐるみの手のひらは殊の外感触がよかった。ちょっと惜しかったかもしれない。
ウララビは気にした様子もなく、そのまま先に立って歩き出す。
「観覧車は手強いと言ったが、今はもう大丈夫だ。確認さえ済めば、すぐにでも対処できる」
訂正。
叩かれた側の手を大仰にひらつかせてるのは、あれは絶対当てつけだ。
とまれ本人が大丈夫って言うんなら、まあ、それでいい。また変に気を回して揶揄されるのも悔しいから、あたしは黙ってずんずんとその後をついていく。
やがて夜空に聳える観覧車が間近になってから、訊いた。
「さっき『確認が済めば』って言ってたけど、何をどう確認すればいいわけ?」
「言葉通りだ。回ってくるゴンドラの中に、探し人がいないかどうか覗いて探せ」
「それだけ?」
「それだけだ。だが心しろよ。かなりきつい作業になる」
「いやいや、ゴンドラ覗くだけでしょー?」
軽く言って、あたしは乗降口に近づいた。
これまでのアトラクションの例に漏れず、観覧車も既に起動している。きぃきぃと錆の軋みを上げ、はらはらと塗料を落としながら、カタツムリが這うような緩慢さで回転していた。
でも絶叫マシンじゃない上に、そもそも乗らなくていいんだから余裕、余裕。
思いながらゴンドラの窓に顔を近づけ、上げかけた悲鳴を両手で口を覆って抑えた。
見えたのは、恐ろしく凄惨な光景だった。
ゴンドラの天井に結ばれた縄に、首をくくられている男性がいた。腕は後ろ手に縛り上げられ、足のつま先が床に辛うじて触れている。
口から泡を吹いて窒息の苦しみを味わいながら、彼はゴンドラの運行によって生じる揺れに必死で耐えていた。
血走った目があたしを見る。助けを求める色が瞳に浮いたが、あたしは竦んで何もできない。ゴンドラの通過につれてそれは絶望に、やがて怨嗟に変わっていた。
次のゴンドラに乗っていたのは、女性だった。
整った顔立ちと、見惚れるくらいのスタイルだった。髪も丁寧に手入れして長く伸ばされていたけれど、今やその全部は半分だけになっていた。
丁度こちらを向く格好で、ゴンドラの奥側の窓に貼り付けられた彼女の右半身は、真っ黒に焼け焦げていた。
逆に左半身はまるで奇跡のように無事で、その美しさがより凄惨さを際立たせる。
花のような左半分の唇が、むき出しになった右半分の歯茎が、揃って救いを願う言葉を紡いだ。
その次のゴンドラには子供が二人乗っていた。
似通った顔立ちの二人は、多分仲の良い兄弟だったのだろう。
けれど車内の狭い空間で、兄は弟を押さえつけていた。そのまま半ズボンの太ももに、ざくざくとシャーペンを繰り返して突き立てる。
目を見開いたまま失神しているのだろうか。弟はびくびくと痙攣しつつ、死んだように表情がない。
やがて兄は、ずたずたに耕した肉に口をつけ、噛みちぎった。弱い方の子供の膝から下に、もう肉はなかった。
更に次のゴンドラには、中学生くらいの少女がいた。
彼女はたくさんの賞状や写真に囲まれていた。それらはピアノのコンクールのものだと見て取れた。この子が受け取ってきた賞賛であり、名誉なのだろう。
けれどどんな強制を受けたのか。泣き笑いの表情で、彼女は自分の指を切り落としていた。自分で握った果物ナイフで、ごりごりと細い指を骨ごと落とそうとしていた。
また次も、そのまた次も。
ゴンドラの中身ひとつひとつが、それぞれ別の地獄だった。
そのどれもで人が責め苦を課され、けれど死ねずに苦悶し続けていた。
何より恐ろしいのは、この残酷におしまいがない事だ。
いくら耐えても、いつまで耐えても、決して終わりは訪れてくれない。観覧車みたいにただぐるぐると同じ場所で回り続けるしか、繰り返し続けるしか他にない。
顎が外れそうに口を開く人も、忙しなく喚く素振りの人もいたけれど、でもその殆どが聞こえなかった。
ゴンドラのガラスが通すのは、ほんのわずかな声ばかりだ。
「出して」
「助けて」
「許して」
そして、
「代わりになって」
凝縮された悪意の中の、果てのない苦痛。
それは恐ろしく悪趣味な観覧だった。
それでもあたしは見続ける。乗降口にゴンドラが近づくたびに顔を寄せて、その中にマリの姿を探し続ける。
言われた通り、きつい作業だった。
でももし目を逸らしている間にマリのゴンドラが行き過ぎてしまったら、あの子がこの苦痛をもう一周繰り返す事になったら、あたしは悔いても悔いきれない。
「頑張ったな」
もういくつ目のゴンドラかもわからなくなって、ずきずきと頭が痛んで、どっちが空でどっちが地面かの判断も難しくなった頃、背中をぽんと叩かれた。
「今ので一周だ。どうやら、ここは満室だったらしい」
ウララビはあたしの手を引いて、その場を離れようとする。
それをあたしは振り払って踏みとどまった。
「待って。待ってよ! 放置してくの、これを!?」
──ただし、助けられるのは生きている人間だけだ
そう言われたのは覚えてる。だけどこれは、あんまりにひどい。
でも、ウララビは首を振った。
「もう一度言う。欲を張るな」
よっぽど露骨に、あたしは絶望を顔に出したのだろう。
ウララビは慌てたように付け加えた。
「死者を帰せはしない。だが、解放する事はできる」
「……解放?」
「文字通り、この観覧車から解き放つという事だ」
ウララビの両目が、またストロボみたいに輝いた。
すうっと天まで伸びた二条の光は、夜のスクリーンに半ば重なる二つの円を描く。どういう理屈か、その光の中にウサギのシルエットが浮かび上がった。ウララビの頭部のディフォルメだって、ひと目でわかる形をしていた。
「今、火力支援を要請した」
ウララビは腕を伸ばしてあたしの背中側を、園の中央方向を示す。
指に従って振り向けば、そこに鎮座していたドリームキャッスルが、いつの間か華々しくライトアップされていた。そして複雑に色を変える美しい光の衣の中、堅牢な城壁が粘土のように、音もなくぐにゃぐにゃと変形していく。
ほんの十数秒で、お城のお腹には十数門の砲口が生え揃っていた。
「え、ちょ……っ!?」
なんなのそれ。そんなのありなの!?
あたしの驚きをバックに、ウララビは指揮者みたく高く腕を上げ、振り下ろす。
同時に体中を震わせる、重く大きな唸りを発して砲撃が開始された。がごん、がごん、と恐ろしい質量を連想させる響きで、砲弾は観覧車に着弾していく。
「誤差修正。砲撃再開まで5、4、3──」
ウララビのカウントが進み、合わせてキャッスルが火を吹く。
命中弾が数を増し、やがて耐え切なくなった観覧車は、安堵のため息のような、恨めしい断末魔のような軋みを上げて倒壊した。
耳を抑えていたあたしは、砲撃が止むや地面に転がる手近のゴンドラに駆け寄った。勇を鼓して覗き込めば、そこにもう地獄はなかった。ただ破れ果て壊れた、ゴンドラの成れの果てがあるばかりだ。
ほっと息をついてから、あたしはウララビに向き直る。
「あのさあ。こういう事できるなら、もっと早くにやればよかったんじゃないの?」
「もっともだ」
「ならなんでしなかったのよ!」
「お客様からの信頼が足りなかった」
「は?」
「ドリームキャッスルは訓練施設だ、と言ったろう。俺はそこで鍛えられた。奴らに対抗する為に。だが間に合わなかった。俺が仕上がったのは、廃園されたその後だ。奴らはまだここに巣食っていて、だから俺も居残った」
ウララビの青い両目が、悔やむように過去を見た。
「しかし、奴らと戦うには力が足りなかった。俺が戦うには、園を起動させるには、お客様の心が必要だった。奴らが人の恐怖を、悲哀を喰らうように。遊園地とそのマスコットには信頼と声援が要る。だから、これまでは動けなかった」
え、待って。ちょっと待って。やな予感がするからその先は言わないで。
じゃあ何? アトラクションを回るに連れて、こいつがだんだんやりたい放題になってったのは、その理由は。
あたしがこいつを──。
「全てはお前が、俺を信じてくれたからだ」
「っっ!!」
い、言ったなこいつ。
あたしが「絶対口に出すな!」って思った事を、さらっと言ってのけたな!?
うわ、なんかすごい恥ずかしいんですけど? ちょっとでも、ちょっぴりだけでも心を許したのが明確に悟られるとか、物凄く恥ずかしいんですけど!?
多分今あたし、顔真っ赤だ。
なのに着ぐるみの表情は相変わらず見えなくて、ずるい。こいつ、絶対にずるい。
「ああもうっ、そんなら頑張れ、ウララビくん!」
「任せておけ」
ヤケクソで応援したら律儀に応答されて、もっといたたまれなくなった。
穴があったら入りたい。