2.
やっぱり着ぐるみだけあって、ウサギは鈍足みたいだった。少し走ってから肩ごしに確かめれば、夜のどこにもあの桃色は見当たらない。上手く振り切れたらしい。
だけどほっとできたのは束の間で、ミラーハウスを目前に、あたしは別のものに立ち塞がられる。
それは、影としか表現できないような存在だった。
と言っても、決して平べったいわけじゃない。ちゃんと厚みもがあって、普通の人みたく二本の足で直立してる。
でも黒くて半透明で、その輪郭はぶよぶよと不鮮明に歪み続けていた。感覚的に近いのは蚊柱とかそういうのだ。凄く小さなものが集合して、懸命にひとつの形を保っている。
通せんぼをするように両腕を大きく広げながら現れたそいつは、驚いてたたらを踏んだあたしへと手を伸ばしてくる。
ひどく緩慢な動きだったけど、なんか触られたらよくない気がした。絶対にいけない気がした。だから必要以上に大きく、数歩ぶん逃げた。
何もない空を鷲掴んだ後、影人間はのそりと頭に当たる部分をこちらに向け、ない目でじろりとあたしを睨む。
不幸中の幸いだと思った。
どうやらこいつはウサギ以上に鈍臭そうだ。なら脇を走り抜けてやろうとスタンスを低くしながら、あたしは横目で経路を探す。探して、またしてもぎょっとした。
いつの間にか、あたしはぐるりと十数体の影人間に取り囲まれている。十重二十重って言葉そのものの状況で、あれ、これってひょっとして凄くヤバくない? ちょっと洒落になってないんじゃない?
でもでもだって、裏野ドリームランドがとんでもない場所だって知ってるつもりではいたけど、ここまでとは思ってなかったし。こんなのっけから心霊現象の大盤振る舞いだなんて想像してなかったし。
「……」
でも、弱気は一瞬だけ。
あたしは乾いた唇を舌で湿して、無理矢理にだけれど笑った。軽く握った拳を顔の前に持ち上げてファイティングポーズを取る。
逆に覚悟が決まったわよ。やってやろうじゃん。よく見たらこいつら脆そうだし。腕とか振り回したら風圧で飛んじゃうかもしれないし。いいわよ、一人二人やっつけて包囲網に穴開けて逃げ切ってやるわよ。よし大丈夫。いけるいける。
自らを鼓舞して突撃しかけた瞬間、さっと目の前に降り立ったものがある。
それは、ふわふわとした桃色だった。
「まったく、とんだ跳ねっ返りだ」
どこからどういう大跳躍してきたのか。
あたしの前にすたんと着地したのは、遠く振り切ったはずのウサギだった。
言いながら、押しとどめるように広げた手のひらをこちらに突き出し、影人間側の腕を閃かせる。
ぱん、と小気味のいい音がした。肘から先だけで放った裏拳の一撃で、影の一体にジジっとノイズめいた歪みを全身に走らせながら消滅する。
「落ち着け。俺は味方だ」
その言葉を証明するように、影たちがうぞうぞと退いた。
輪郭を不鮮明に重なり合いながら、やがて全てが後背の建物──ミラーハウスの中へと逃げ込んでゆく。明らかに、ウサギを恐れての撤退だった。
「……」
当座の危地を脱したのを理解しつつ、あたしは困惑気味にウサギの顔を見上げる。
多分、一応、おそらくは助けてもらったわけだから、お礼を言うべきなんだろう。さっきのキックについても謝るべきなんだろう。でも正直「この着ぐるみに?」って気持ちが拭えない。
「えっと……」
「ウララビくんだ」
「うららび」
「くん」
「うららびくん」
着ぐるみは、「そうだ、間違えるな」とでもいうふうにゆっくり強く頷いた。
このマスコット、そんな名前だったんだ。記憶と全然違ってた。というかウララビくんって、え、いやその声で? あたしの混乱は深まるばっかりだ。
「……」
「……」
「俺は、名乗ったぞ」
頭を抱えていると、ウララビが催促めかして言う。
あ、あたしも名乗れって事か。
「ニナよ、ニナ。呼び捨てでいいわ」
「ニナ」
反復したウララビくんは、まだ何か言いたげだった。
きっとフルネームを要求してるのだろうって思ったけど、きっぱり無視する事にした。そこまで親しくしてやる義理はないし。そっちのウララビくんだって偽名以外の何物でもないだろうし。ていうかそもそも着ぐるみだし。
「とりあえず、えっと、今のはありがとう」
「気にするな」
「それから、さっきは蹴ってごめん」
「……気にするな」
「今、ちょっと言いよどまなかった?」
「気にするな」
なんかこいつ、マスコットとして失格じゃないかな。色々と。
ちょっぴり笑ってから、
「じゃあさ、味方だっていうなら訊いていい?」
「なんだ」
「あんたとあいつら、何?」
「俺はウララビくんだ」
「ウララビ」
「くん」
「ウララビくん」
「そうだ。お客様を守るのが仕事だ。そして」
ウララビは言葉を切って、じろりと影人間を飲み飲んだミラーハウスの闇を見る。
「あれは成れの果てだ。奴らに囚われて吸い尽くされた、人間の搾りかすだ」
「……奴ら?」
なんか話が飛躍したんだけど?
思いっきり怪訝な顔をしただろうあたしにウララビが問う。
「この遊園地が閉園した理由を知っているか?」
「……子供が消えるからでしょ?」
「違う。奴らがここに住み着いたからだ。開園から十年弱で入場者は横這いから右下がりを記録し始めた。打開すべく経営陣が企画したのがホラープロジェクトだ。各遊具に不可思議な噂を流し、その不気味さによる集客を期待する。要するに、金のかからない口コミ頼りの宣伝だな」
「はあ」
「しかし噂はやがて一人歩きを始めた。人の想像から怪異が生まれたのか。語られる恐怖に相応しい怪異がやってきたのかは知らん。だが奴らはここに現れ、そして巣食った。物語は真実になった。ついでに言い添えるなら、経営陣の誰も思い出せなかったそうだ。誰がこのプロジェクトの発案者だったのかをな」
「えっと……要するに妖怪とか悪魔とかみたいなのが、冗談じゃなくここにいるって事?」
「そうだ。人間が想像しうる邪悪なもの、恐ろしいもの。人を食い物にするそういうものがここにいる。奴らに囚われれば魂までもを舐めしゃぶられて吸い尽くされるぞ」
成れの果て、ってさっきの言葉が思い出された。
あの影人間は元人間で、奴らってのの餌食にされた結果、あんなふうになってしまったのだろうか。もしもさっきあいつらに捕まってたら。あたしも、同じ末路を辿ってたのだろうか。
──え、そしたら。
そこで強烈に嫌な想像が浮かんだ。
じゃあ何、ならマリたちはどうなってるの!?
「ねえちょっとウララビ!」
「くん」
「ウララビくん! 今日あたしの他に四人くらいここに来たでしょ!?」
「ああ、来たな」
「その子たちってどうなったの!?」
「さあ」
「さあって、あんたお客様を守るのが仕事だって言ってたじゃない!」
「フェンスを壊して敷地に立ち入るような輩は不法侵入者だ。俺は知らん」
なにやってんの、あの子。
「……えと、ごめんね?」
「気にするな」
表情はわかんないけど、ウララビはちょっと笑ったみたいだった。見た目はともかく、こいつ案外いいヤツかもって、少しだけ評価を改める。
そんなヤツだから、これは多分言われてるんだろうな。「逃げるなら今のうちだぞ」って。
だけど。
「でもそんなヤバいのがいるって聞いちゃったら、余計に帰れないかな。その不法侵入者の一人があたしの後輩でさ。馬鹿な子だけど、そこまでの目に遭うほどじゃないのよね。だから、見て見ぬふりはできないや」
「そうか」
小さく頷いてから、ウララビはあたしに背を向ける。
ま、そうだよね。あたしに付き合う義理なんてないわけだし。……なんて思いながら見送ってたら、数歩で彼は怪訝そうに立ち止まり、促すように顎をしゃくった。
「どうした? 行くぞ」
「え?」
「後輩を探すのだろう? 行くぞ」
なんか、「一緒に行動するのが当然」みたいな顔をしている。いや表情はわかんないんだけどさ。
「……帰れって言われてると思ったんだけど?」
「お客様のご要望には極力添うようにと教わっている。ただし」
「ただし?」
「助けられるのは生きている人間だけだ。これを忘れるな。絶対に欲を張るなよ」
「えっと……つまり手伝ってくれるの?」
「無論だ。言ったろう。お客様を助けるのが俺の役目だ」
きっぱりと言い放ってから、ウララビはあたしの足跡がついたお腹を撫でた。
「それがどんな跳ねっ返りであろうとも」
「あんた今、あたしの事馬鹿にしたでしょ」
「まさか。お客様にそんな不躾をするわけがない」
着ぐるみの中で絶対爆笑してるだろ、こいつ。許せん。
「跳ね返り、跳ね返りって言うけどね、これでも昔は内気で儚げな女の子だったんだからね! 髪だって、こう、長くしてて。お姫様みたいだったんだから!」
しょーがないじゃない。守ってくれるナイトがいないんだから、後は自分でなんとかしないとさ。
でもあたしのふくれっ面は、「そうか」と簡単に受け流された。おのれ。
「ていうか大体『行く』ってどこへよ?」
「ミラーハウスだ。今の連中を追う。追って、片を付ける」
「正気? だって、あんなにいっぱいいたのよ!?」
「無論。あいつらは数だけだ。言ったろう? 絞りかすだと。自我とも言えない希薄な欲望だけで実体を備えない。それゆえ他人の中に潜り込みたがるが、虚像と不安感を利さなければつけこみすらできない。実像は我のみと強く心を持て。何が起ころうと全ては真を伴わない錯覚だ。気にする必要はない」
*
そう言い切られてミラーハウスに踏み入ったのだけれど、一歩目でもうあたしは軽はずみを悔いていた。
だって真っ暗なんだもん。
そりゃそうだよね。電気なんて止まってるよね。当たり前だよね。
「え、ちょっと、ここに入るの? ホントに?」
「本当だ。明かりについては心配するな」
ウララビがまた強気の発言をしたと思ったら、その両目がシュボってストロボライトみたく発光した。やがて明度が調整され、ほどよい感じの光量になる。
「……あんたって、便利な体質してるのね」
「それほどでもない」
後は「マップは暗記している」という彼の案内で進むだけだった。けど全域を巡り終えても、マリたちの姿は見当たらない。ここはハズレみたいだった。
影人間たちもまるで姿を見せなかったから、このまま何事もなく出れるかなって期待したんだけど、そちらの希望も叶わなかった。
間もなく出口というところで、あたしたちの前に彼らは立ち塞がった。
最後の足掻きなのか、ここに戦力を集中させてたのか。
或いは鏡の中に、或いは鏡の外に。
無数としか思えない数の影人間たちが蠢いて重なり合って、緩慢にあたしたちへと腕を伸ばしてきていた。まるで手だけでできた黒い壁だった。
どんなに動きが遅くたって、道と同じだけの幅の壁を避けるなんてできっこない。
退路を求めて振り返ったけど、駄目みたいだった。
後方からも手のひらの壁が、無数の指をざわめかせながら迫ってきている。
「う、ウララ……」
「案ずるな。言ったろう? 全て錯覚だ、と」
言い切った直後、ウララビが動いた。
正確には、鏡の中のウララビだけが動いた。
合わせ鏡が生む幾百幾千の乱反射の中、幾百幾千のウララビが、それぞれに違う動きで影人間を殴り倒し蹴り倒し投げ飛ばして組み伏せる。無数と思えた影人間たちは、瞬く間に鎮圧されていった。
鏡像が打ち倒されるのにつれて、壁も色と密度を減じて薄くなる。
「……えと、じゃあさ」
あたしは鏡を指さして、隣で腕組みしているウララビを見上げた。
鏡の中で無数のウララビくんが、「召し捕ったり!」みたいなポーズを決めている。
「あれも、錯覚?」
「錯覚だ」
力強く頷かれた。
…………。
そっかー。錯覚かー。