魔法使いの本分15
スパイがアジトの旅館をいつ放棄したのかは不明だが、おそらく三時間から四時間前ではないかとラーズは考えている。
根拠はいくつかあったが、丁度その時間スパイの仲間が、キモン沼の近くでヘリに対空ミサイルを撃っているので、アジトを放棄したならこのタイミングだろう。
そのタイミングで移動を開始したとして、地上の積雪状態を鑑みればその移動速度は《ウォースカイ》で飛ぶラーズの比ではない。
数分で追いつくはずである。
対気速度五〇ノット程度で飛ぶラーズの後ろを、陸軍のヘリが二機ばかり付いてくる。
ラーズとしては、できれば付いてきてほしくは無いのだが、それを言っても聞いてくれるとは思えない。
……となれば、地上戦力が追いついてくるまでが勝負。
瀬石川とグトウニ川の合流地点を過ぎる。
瀬石川は左だ。
「……大体ここまでで一キロ。近いぜ」
高度と速度を落としながら、ラーズは慎重に川に沿って飛ぶ。
ラーズの予想では、敵の進出距離は二キロから二.五キロ。
残り1キロ強なら、《ウォースカイ》でゆっくり飛んでも三分もかからない。
◇◆◇◆◇◆◇
「……!」
背後から聞こえてきた爆音に那由他が振り返ると、赤い光の帯を引きながら飛翔する物を見た。
この飛翔体はラーズだ。何度かラーズが飛ぶさまを那由他は見ている。
こんな時でも、光っているという事は、光を消すことはできないらしい。
一方、爆音の主の方はヘリだろう。
那由他とスパイは既に針葉樹林に入っている。針葉樹林の上から発見するのは困難だろうが、ここに至るまでのルートを見つける事は難しくない。
「ラーズ!」
那由他は、今まさに上空に差し掛かろうとするラーズに向かって叫んだ。
スパイに対するこれ以上の嫌がらせはない。
「黙れと言っている」
さすがにこれにはスパイも切れた。
手にしたカラシニコフAK47のストックで、那由他を殴りつける。
左の頬をしたたかに殴りつけられ、地面に転がった那由他の視界の隅で、ラーズが一気に高度を上げたのが見えた。
那由他は、怒ったこの男が発砲でもすればよし、という考えで嫌がらせ半分に叫んだのだが、驚くべきことにラーズはその声を聞き取ったようだ。
陸軍のヘリが飛んでいる爆音の中で、である。
「撃ちなさいよ! どうせそんな根性ないんでしょ!?」
さらに煽る。
昨今の探知システムは、銃の発砲を見逃してくれるほど甘くない。
この状況下で発砲すれば、もう二度とヘリから逃れる事は不可能である。
男が引き金に指を掛ける。
……ああ。これで終わりか。
などと那由他が思った刹那。
視界を炎が埋めた。
飛来した数条の炎の矢が、男の足元に殺到。
男は慌てて、那由他から離れ銃口を空に向ける。
だが遅い。
針葉樹の枝をへし折りながら、炎の矢に続いてラーズ本体が落下してきた。
「……虹色回路を返しやがれ! ぶっ殺すぞ!」
ラーズは那由他の前に着地、左手を男に向ける。
男は無言で、銃の引き金を引いた。
……危ない!
内心叫んで目を閉じた那由他だったが、聞こえたのが銃声と甲高い着弾音。
見れば、ラーズの手前で赤い波紋が生じ、そこからぽろぽろと銃弾が地面に落ちている。
……防いだの?
なんてデタラメなのだろうか。
男の顔に焦りの色。
なんだかわからない力で銃撃を防がれているのだ、焦らないわけがない。
だが、この男は訓練されたスパイなのである。
油断はできない。
現に男は右手だけで銃撃を続けながら、左手を懐に入れた。
「……手榴弾!?」
那由他の声に答えるように、男は小さな手榴弾を放り投げた。
投げた本人は身をひるがえして、逃走を図る。
「……《ファイアウォール》デプロイ」
ラーズが実に詰まらなそうに左手を振って、魔法を展開する。
転がった手榴弾と那由他を隔てる形で、炎の壁が出現。直後に発生した爆風をあっさりと遮断せしめる。
「逃がしたか……。
なゆ太! 虹色回路は!?」
「……そっち!? そっちなの!?
もう少しなんか言いようとかないの!? ねえ!?」
こぶしを振り上げて抗議した所だったが、幸か不幸か手錠が邪魔で手を上げられない。
「……ないんだな。
じゃあ、あいつを火あぶりにして取り返さないとな……
なゆ太、手、だせ」
言うなり、ラーズは那由他の手錠の鎖の部分に左手を向ける。
「ええっ!? ちょっとまっ」
「《炎の矢・改》……デプロイ!」
一発だけ生じた炎の矢が、手錠の鎖とロープをあっさりと引きちぎる。
「オレは、アイツを追う。
どっか見晴らしのいい所に出てろ。後続の部隊が拾ってくれるだろう」
そういうと、ラーズは羽織っていたマントを那由他の頭の上にかけた。
このマントは、確かレポートにあった魔法の道具のはずだ。
……という事は神崎次官が動いている?
どうも自分は、ラーズのデータを取るためのダシにされているらしい、という事を那由他は悟った。
実際、ラーズの実戦データは現状取りたい放題……いや、ラーズに与える情報を制御すれば、さらに踏み込んだデータを取ることも可能だろう。
例えば、今のシチュエーション。ラーズが那由他を助けるかどうか、などは内調にとってかなり興味深いデータだったはずだ。
人は余裕がなくなる程、素直な行動パターンを取るようになる。このデータがあれば、対象の行動パターンの分析もしやすくなるだろう。
そこまで考えて、那由他はとても申し訳ないような気分になった。
その裏で、ラーズが走り出す。
「《ウォースカイ》デプロイ!」
走ったのは助走である。直後の高機動魔法で空へと飛び立つ。
決着の時だ。
◇◆◇◆◇◆◇
針葉樹の森すれすれの高度を飛びながら、ラーズは逃げたスパイを追跡する。
先ほど接敵した際に、スパイには《炎の矢・改》が二発ほどかすっている。
有意なダメージは無かっただろうが、追跡するための目印としては十分だ。
探知魔法は、自分自身に対しては一〇〇%成功するという特性がある。《炎の矢・改》で生じた炎の矢も、ラーズ自身の生成物なので、これを目標にする限り逃がす心配はない。
無論、相手が魔法使いなら対策はいくらでもあるが、逆説的には魔法がなければ対応できないどころか、探知されている事すら認識できないだろう。
気になるのは、なぜこの男が那由他を連れて逃げていたのか、である。
普通に考えれば、脱出方法がこの辺りに隠されている、と言ったあたりだが……果たして。
スパイが逃亡してから、三分程度。
地上の積雪は五〇センチ。徒歩で飛行魔法から逃れることは不可能。
追いつくのに一分もかからない。
「ぜってー許さねえからな。
《炎の矢・改》……デプロイ!」
《炎の矢・改》をスパイを包み込むように投射。続いてその真ん中、要するにスパイの頭の上に向かって飛び蹴りを入れる。
「虹色回路返しやがれ!」
ラーズの蹴り。
スパイは左手を上げて、それをガード。
ラーズは、ガードされた反動で後ろに跳躍。とんぼ返りからの下段回し蹴りへ移行する。
相手が迂闊に動こうとして体重が抜ければ、そのままダウンするだろう。
逆に重心を低く取って構えれば、ダウンすることは無いだろうが、次の一手はラーズ有利になる。
そして、より最悪の選択がある。
「……くっ」
という小さなうめき声。そして男はその最悪の選択をした。
つまり、その場でジャンプしてラーズの回し蹴りを避ける。
……悪手だぜ。
飛行魔法があるならともかく、相手の目の前でジャンプするのはコンマ数秒間、行動の自由度を自分から放棄するようなものだ。
まして、相手はダメージ魔法への有効な対抗策を持たない。
「《フレアフェザー》デプロイ!」
ラーズが《フレアフェザー》を選択したのは、至近距離で炸裂させても自爆の心配のない魔法だからである。
しかし、単純に扱うリソース量で言えば、《炎の矢・改》の方がずっと小さい。
ここで言うリソースというのは、VMEへの負担そのものと同義である。
ここまでメンテなしで、一度水分によって動作に異常をきたし、それでも何とか動いていたAiX2400だったが、ここでついに限界を迎えた。
コンデンサは電解液を失い、それによって生じたリップルがデリケートなセンサー系の電源を蹂躙する。
本来想定されていないデータを受けた演算装置はフェイルセーフに入ろうとするが、すでに応答も返さない多数のデバイスの応答待ちでハングアップ。その間に、電源回路のランドが焼ける。
電源基盤至近距離のワークエリアブリッジが焼損して、ラーズのワークエリアとの接続も切れる。
最後に雑多で乱雑なデータをラーズのワークエリアに残して、ついにAiX2400は沈黙した。
VMEの沈黙により、《フレアフェザー》は不発。
「ぬん」
これを好機と見たか、男はラーズにつかみかかる。
こうなっては、体重で劣るラーズが不利であると言わざるを得ない。
組み付かれて押し倒される。
「くそったれ!」
ラーズは右のこぶしで男の左わき腹を殴る。
ラーズとしてはマウントポジションを取られるのは面白くない。
保護障壁が復活すれば、一方的に男一人くらいなら難なく吹っ飛ばせるのだが、保護障壁も含めて魔法の再使用にはワークエリアの再初期化が必要。しかも、VMEの支援が受けられない今、ラーズが自力でやるしかない。
再初期化にかかる時間は数秒なのだが、この数秒がひねり出せない。
ラーズがもう一度、男の左脇を殴ると、反撃の一撃が来た。
目の覚めるような、パンチを顔面にもらう。
……すげえ痛てえ。
そう思ってラーズは決断。つまり、もう何発かもらうのも覚悟でワークエリアの初期化を優先するのだ。
どうせ多少の怪我は、保護障壁が復活すれば自動回復で治る。
男に胸倉をつかまれてもう一発、顔面にもらう。
「……どうした? もうギブアップかお嬢ちゃん」
……喋れるんじゃん。
とラーズは内心思った。
男は、自分が有利だと思ったのだろうか? 極めて貴重な2秒ほどの時間をタダでくれた。
「黙ってないで……」
「うるせえ! ウドの大木! 死ね!」
男が次の一撃のこぶしを振り下ろそうとしたとき、ラーズの保護障壁が復活。
男の巨体が吹っ飛ぶ。
ラーズは起き上がって、ぺっ、っと唾を吐いた。
口の中が切れたらしい。血の味がする。
男もゆっくりと起き上がる。
なぜ吹っ飛ばされたのか、理解できないといった風情だ。
数秒間の間。
先に動いたのは、男の方。
懐に手を入れ、ラーズの方になにかを放り投げる。
そして間髪入れず、男は身を翻した。逃げる構えだ。
ラーズとしては当然追撃したいのだが、VMEに制御されていない状態で手榴弾を食らうのは、できれば避けたい。
ラーズは手近な木の陰に飛び込んで、手榴弾をやり過ごす。
つもりだった。
しかし、直後に来たのは爆発では無く、大音量の破裂音だった。
「があっ……!?」
これは効いた。元来聴力のいいエルフにとって、大音響を放つコンカッショングレネードは相性最悪である。
保護障壁は音をほとんど遮断しない。
……クソが。こんなもん隠し持ってやがったのか!?
さすがに存在を知らない物に対策はとれない。
しかし、空を飛べない人間が雪の上を移動するなら、足跡を残さざるを得ない。




