スズメと鈴女と飛べない雀9
諏訪湖の付近は、基本的に飛行禁止である。
例外的に軍用機は飛ぶことができるが、それ以外は例え警察の機体であろうと飛ぶことはできない。
西村操る水上練習機は、諏訪湖上空を抜けて南へ向かう。
仁科研究所は何キロも離れていないので、航空機にとってはまさに一瞬の距離であると言える。
「コラ! そこの海軍機! 所属を名乗れ! 誰の許可で飛行している?」
突如……と言っても予想の範疇ではあるが……無線から所属も名乗らず罵声が飛び出す。
もっとも、相手の所属を聞くまでもない。陸軍だ。
「自分は諏訪少年飛行隊、西村三等兵であります。
本機は、夜間練習飛行の最中であります」
この辺は、事前にラーズから指示された返答である。
練習飛行など嘘っぱちだが。
西村は、こんな事をして怒られないのか、とも思ったがラーズは草加参謀から可能な限りの権限を委任されているそうである。
そうで無くとも、ラーズは少尉。自分は三等兵。ラーズが凄腕のパイロット集団、931空の所属である事を差っ引いても、命令不服従はあり得ない。
「貴様! 今どんな事態かわかっているのか! すぐに着陸せよ! 憲兵を向かわせる!」
この辺も、事前に予測された通りのリアクションである。
着水と言わず、着陸と言っている辺りが陸軍っぽいと西村は思った。
「申し訳ありませんが、その命令には従えません」
「っ! なんだと貴様!」
無線の向こうの声に怒りがこもる。
気持ちはわからないではないが、名前も名乗らい相手の命令を聞くわけには行かない。
まあ、名乗ったとしても、陸軍が海軍に命令する権限はないのだが。
「いいぞ。すでに地方の司令部には手をまわしてあるから、強気で行け!」
これはラーズ。こちらもヘッドセット越しだが、陸軍側には聞こえないように設定されている。
ちなみに、手を回してある。とは、ラーズ曰く、かなり上位の指揮官から可能な限り陸軍への協力を引き延ばすように命令を出す。との事だった。
「本当に大丈夫なんでしょうか? 少尉……」
西村は率直な不安を口にした。
ラーズがこの期に及んで、泣き言を聞いてくれるとは思えないが。
「大丈夫大丈夫。予定じゃ連中そろそろ威嚇射撃し始めるから、それ確認したら帰っていい」
そんな事をラーズが言っていると、眼下の森の中から赤い曳光弾が撃ちあがり始める。
「うわあ」
と西村は声を上げた。
本当に撃ってきた事に驚いたのである。
しかし、その照準は甘い……というか、当てないように気を使っている感じか。
ラーズの指示通り西村は機体を翻した、どちらにせよ陸軍に撃たせたので任務終了である。
密閉度の高い水上練習機と言えど、着水時にちゃんと水音がキャノピーの中まで入ってくる。
この水音を着水して安心できる音と感じるか、空を飛ぶ時間が終わった音と感じるかは人それぞれである。
西村はどちらかというと、後者のタイプだが今回に限っては前者の方だ。
後は、少年飛行隊の基地に帰るだけである。基地と言っても桟橋がいくつかあるだけだが。
着水位置から、桟橋までは数分である。水上機は水上を走っても結構早いのである。
その桟橋は、サーチライトで照らされているのだが、見ればオリーブ色の軍服を着た人間が何人か居るようだ。
軍服の色からして陸軍の人間だろう。
「貴様! 何用があって飛行した!?」
桟橋に水上練習機を付けると、なまず髭の男が言った。陸軍の軍服を着ているので、陸軍の人間だろう。階級章は伍長だ。
「はっ、予定通りの練習飛行であります。伍長閣下」
西村は水上練習機の操縦席で立ち上がって、敬礼しつつそう答えた。
夜間飛行練習については、予定通りなのは本当である。
しかし、この伍長が名前を名乗らないのは明らかな規則違反だ。
この辺は一色中尉に付け入るスキを与えているだけであると言える。
その伍長の部下と思われる兵士が、水上練習機の中を覗き込む。
「後部座席は空であります」
◇◆◇◆◇◆◇
「一色中尉。以後は受信のみにします」
「ヨーソロ。幸運を」
少年飛行隊の基地から数百メートル離れた湖岸にラーズは居た。
ここから無線で、西村に対して指示を出して居たのである。
ラーズの視線の先では、その西村機が舞っている。
程なく、地上から数条の曳光弾が放たれ始めた。
……予想通りだな……
予想通り、というより他に無いと言った方がいいのだろうが。
「……さて……行くか」
ラーズは湖に向かって走り始めた。
「《フレアフェザー》」
右足が湖面に触れる。
「デプロイ!」
その背に、炎でできた巨大な翼を背負って、ラーズは湖に飛び出した。
今、多くの人間は上空を飛ぶ水上機を見ているはずだ。
いくらド派手に発光する炎の翼を背負って飛んでいるとしても、湖の上を超低空で飛ぶラーズの姿を見つけられる機会は激減する。
仮に、湖の上の光源を見とがめたとしても、魔法が存在しないこの世界でそれが何か理解できる人間は居ないだろう。
「……一五〇キロ……一六〇キロ……」
マジックシンセサイザーがGPS信号から算出した速度表示を見ながら、ラーズはどんどん速度を上げる。
現状、各種設定を詰めた結果、ラーズの《フレアフェザー》は瞬間的ではあるが時速三〇〇キロ程度まで加速可能である。
なお巡航速度は二二〇キロ辺りだ。
「二五〇キロ……二六〇キロ……」
既にラーズの目には対岸が見え始めている。
湖と仁科研究所を隔てる形で陸軍と長野県警が展開している。
炎の翼を背負ったまま、陸軍の包囲網の上と飛べば、いくら何でも見つかる。
ラーズはこの状況に対する解決策を考えた。
答えはイージーである。
湖の上で加速するだけ加速して、包囲網の上空を《フレアフェザー》に頼らず慣性だけで飛び越える。
着地は《レビテーション》の魔法でソフトランディングすればいい。
安全確実な方法だ。
問題があるとすると、《フレアフェザー》の解除に伴い、時速三〇〇キロ近い風を受ける事になるという事か。
「行っけぇ!」
ラーズは上げ舵を切った。
角度にして、おおよそ四〇度。
「リリース!」
《フレアフェザー》のリリースに伴って、周囲が闇に閉ざされる。
……要改良だなっ。
ラーズは思った。
《フレアフェザー》をリリースした地点での速度は、時速二四〇キロほどだった。
しかし、この速度でリリースするという事は、いきなり時速二四〇キロの風の中に放り出されるのと同義である。
もちろんラーズの場合は保護障壁で守られているので、そこまでダメージを受けるわけでもないのだが、笑って済ませられるほど痛くないわけでもない。
そもそも、通常飛行中に飛行に使っているリソースをリリースするなど想定されていないので、これはある程度仕方ない事である。
ラーズとしても、ある程度のダメージは容認する方向で覚悟完了している。
ラーズは包囲網の上を飛び越えた。
想定通り、陸軍の注意は水上機に向いているようだ。
ラーズの通過に際して、陸軍側からのリアクションは何もなかった。
まあ、普通は人が上空を飛んでいくなどとは考えないだろうが。
「おほーっ。怖えーっ」
制御できない飛行というのは、落下と同じである。
つまりこれは暗闇の中を落ちているのと同じだ。
「いやに明るいな……祭りだな」
暗い森の向こうに、それは見えた。
無数の水銀灯の明りに照らし出された仁科研究所だ。
「《レビテーション》……デプロイ」
浮遊の魔法でブレーキと高度の制御を行いながら、ラーズはふわりと仁科研究所の施設の屋上に着地した。
「……ふう。二度とやりたくねえな……」
汗をぬぐいながらラーズは呟いた。
空が飛べるといっても、怖いものは怖いのである。
……さて、どうするか……
普通に考えて、まず展開している日本赤軍の戦力評価からだろう。
現状、相手の戦力は確定していない。
草加曰く、日本赤軍の戦力は最大で三〇人程度で、現実的には二〇人内外だろうと言う事だが、これとて根拠不明の数値である。
もっとも、ラーズの感覚値でも二〇人程度というのはいい線だと思うのだが。
それより問題なのは、この連中の装備や練度の問題だ。
ただのチンピラの集まりなのか、訓練された兵隊なのかによって同じ二〇人でも、その戦力評価は随分違ってくる。
あとは、運用している武器の類か。日本赤軍が持ち込んだ武器に加えて、仁科研究所で開発中の武器があるため、不確定要素が多い。
極論すると、いきなり仁科研究所の敷地全部が爆発したりする可能性まであるのである。
ラーズの装備は、腰に吊った小狐丸と脇差代わりのコンバットナイフ。数本の投げナイフ。そして、一色中尉が持たせてくれた消音機付きの拳銃だ。
と言っても、戦闘を行う必要はない。
鈴女を助け出して、後は手土産に敵の数や配置を調べて帰ればミッション成功である。
……まあ、そんなに簡単に行くとは思えないけどな……
ラーズは、適当な窓から研究所の建物に侵入した。
三十世紀の警備システムも、そもそも想定されていない魔法で空を飛ぶ侵入者には無力だった。
「……さて……」
その部屋は、理科室のような部屋だった。
「……BC兵器でも作ってんのかね?」
BC兵器とは、バイオ・ケミカルの略である。つまり生物・化学兵器だ。
研究所内は照明が落ちているので、夜の学校的な雰囲気がある。
……怖いのは監視カメラだが……
軍の研究をやっている以上、監視カメラの類がないとは考えにくい。
もっとも、それを見ている人間が居るかはわからないが、単純にAIが監視している場合思いっきり警報が鳴る可能性はある。
警報が鳴っても、敵に対応できるだけの戦力がなければ問題ないと言えば無いのだが、研究所の職員を人質にでも取られれば面倒くさい事この上ない。
「ふむ」
とラーズは言った。
人の気配がする。
屋上に着地するところを見られたのなら、別に驚くには値しないが。
……なら、もっと騒ぎになっても良さそうなものだが……
ラーズは腰の右側のホルスターから拳銃を抜いた。
スライドを引いて初弾をチャンバーに送り込む。
消音機付きの拳銃なら、魔法のように派手に発光したり爆発したりしないので、隠密行動にはピッタリである。
「さて……」
扉の横の壁に背中を付けて、ラーズは左手で扉の取っ手を掴む。
気配は確実に近づいてくるようだ。
……一人か……
ならば、捕獲して日本赤軍の配置や数を喋ってもらうのがいいだろう。