1.アンブローズ2歳。お父様と取り引きする
「私ね、生まれる前のことをね、本当に覚えてるの」
説得力を持たせたいのに滑舌も上手く回らず話し方はたどたどしくなってしまう。聞きなれない言葉や音はやっと耳に馴染んだばかりで語彙力がまだ中々つかない。一生懸命早く覚えようとしたけれど前世の記憶が残っているせいで色々な情報が混ざり物事をうまく覚えられない。
「そう」
もう何度もしているやり取りのせいでお母様はまともに取り合ってくれない。
「前はね女の子だったの。今は男の子だけど」
「だからブローズは女の子の恰好が好きなのよね。でもね女の子の恰好をするのはもうお終いよ」
「どうして? こっちの方が好き」
「だめよ。ロヴェルフォード伯爵家を継がないといけないから男らしくしないといけないの」
「そんなのクレメントにお願いする」
一年前に生まれた年子の弟の名前を出すとお母様は困った表情をした。
「ブローズはお兄さんなのに弟に頼るの?」
「うん。すぐに大きくなるよ。歳も近いもん」
「だめよ、アンブローズ」
お母様は手に持っていた本を閉じると私を抱き上げて膝に座らせた。櫛を手に持って私のお父様譲りの黒髪を梳きはじめる。
「そろそろ人前に出る機会が多くなるから髪も短くしないといけないわね」
「いやよ。私、本当に女の子なの。生まれる前から」
「そう」
お母様は私が女子の恰好をするための嘘だと思っている。幼い子供の頭は中々回らない。
どうすれば女子として自分を受け入れてもらえるよう説得できるか考える。けれど名案は思い浮かばず、儘ならなさが嫌になり涙が出てくる。俯くとぽつぽつと涙の染みがついた淡桃色のドレスと長く伸ばした黒髪が目に入る。ますます涙が溢れてくる。
「お願い。髪は切らないで」
「それくらいならお父様を説得してあげるわ。けどその代わりしっかりするのよ。男の子として頑張るの」
ノックの音が響く。お母様が入室許可を出すと使用人が入ってきた。
「奥様、旦那様からアンブローズ様を連れて応接間に来るようにとのことです。王立魔術研究院からハミルトン先生がお越しです」
「わかったわ。さあ顔を洗って行きましょうか」
応接間に行くとお父様と先生が談笑していた。お父様は私と同じ琥珀色の目をこちらに向けると、すぐに逸らして小さくため息をついた。先生は私を見ると目を見張りお父様に頭を下げた。
「ご令嬢でしたか。大変失礼いたしました」
「いや、あれは男だ。少し変わっていて女の真似をするのをやめないんだ。どこで知ったのか前世の記憶があると騙って私たちを困らせる」
「いいえ、本当の事なのかもしれませんよ。魔力量に恵まれたものは前世の記憶が残ったままになっていることが極まれにあるそうですから」
怪訝そうな表情をするお父様を横目に先生は鞄から書類をだしてテーブルに広げた。書類に視線を落としたお父様の目が見開かれる。
「これはアンブローズ様の魔力量測定の診断結果書です」
「これは……桁がおかしくないか? 子供の魔力量じゃない」
「いいえ。その数値がアンブローズ様の魔力量です。宮廷魔術師を目指せる素質がありますよ」
お父様のこんなに驚いた表情を初めて見る。私も気になりテーブルに近づき書類を覗き込みに行く。けれど文字が読めず何が綴られているのか分からない。質の良い紙に装飾模様が書かれた綺麗な書類だった。お母様はソファに座って書類を見ると顔を綻ばせて私の頭を優しく撫でた。先生は興味津々といった風に私の方に体の向きを変え質問してくる。
「アンブローズ様、生まれる前はどのような人生を送ってましたか?」
「のんびりしてた。前は女の子だったの」
「歴代の王様の名前や昔の時代の出来事は何か覚えてますか?」
「分かんない」
「私も何度も昔の出来事について質問したことがあるがまともに答えられたことは一度もない。言葉を覚えるのが特別早いと言うこともなかったし出鱈目だろう」
「出鱈目じゃないもん」
前世があるといってもこの国の国民ではなかったから歴史も言葉もさっぱり分からない。私が知っていることを話そうにもこの国の言葉でどう言えばいいのかも分からない。先生は様々な言葉や人名を上げるがどれももちろん聞き覚えはない。全ての質問に首を振り続ける私に先生は苦笑して肩を竦めた。
「他国の言葉も言ってみましたがどれも知らないようですね」
先生は父さんに向き直り私の今後について話し合う。私はお母様の膝の上に座って話を聞くも知らない単語が出てきて内容がうまくつかめず眠気が強くなってくる。いつの間にか眠ってしまい目が覚めた時には自室のベッドの中にいた。起き上がると珍しく私の部屋にお父様がいた。書類を捲る音とテーブルで書き物をする音が静かに響く。
「起きたのか」
「何してるの?」
「伯爵の仕事だよ。お前が将来継いでやることだ」
「伯爵はね、クレメントが継ぐの。クレムの方が男の子らしくなるよ」
「今は面倒で継ぎたくないと思うかもしれないが、物事の判別がつくようになったらそんな事欠片も思わなくなる」
お父様は書類を整えるとこちらへ来てベッドに腰掛けた。
「ならないの。私は生まれる前から女の子だから」
お父様の表情が険しくなり怖くなる。怒られると思いキルトに潜り込むと背を撫でられた。
「ブローズ、出てきなさい。私と取り引きをしよう」
「取り引き?」
「私のお願いをブローズが聞くかわりに、ブローズのお願いを私が叶えてやる」
隙間からお父様を覗き見ると表情の険は取れていた。キルトから出てくるとぼさぼさになった長い髪をお父様が手櫛で整えてくれる。
「前世を騙るのはもうやめなさい。そして男らしくしなさい」
「前世はね、嘘じゃないの」
俯くと手でお父様の方に顔を向けさせられた。
「もしそれが本当だったとしてもお前は男なんだから男らしくしないといけない」
前世がどうあれ私が女として受け入れられることはない。そう突きつけられ涙が溢れそうになる。
「泣くな。これは取り引きだからブローズの願いも叶うんだぞ。お前は髪を切りたくないんだろう?」
「うん、そうなの」
「髪は短くしなくていい。それに他所の者が家にいないときは服装にも文句を言わない。自由にしていい」
「本当?」
初めてお父様が私の恰好に寛容的になる。嬉しいけれどありのままの自分を受け入れてはもらえなかった悲しみは消えず微妙な表情になる。それを見てお父様は苦笑した。
「ああ。これからお前に魔法を教えてくれる家庭教師をつける。男らしくしてしっかり学ぶんだぞ」
「分かった。男の子らしくする」
お父様は私の頭を軽く叩くと部屋から出て行った。
取り引きを一応は飲んだけれど私はどうしも男として生きていく自分が想像できなかった。