9 これからを語る、冒険手帳
「なんなのこの人達!」
後ろからアリスの悲鳴にも似た声が聞こえた。
狼にも臆さないアリスだったが、その声には恐怖が混じっている。
「アリスこっちだ!」
襲い掛かって来たそれらから逃れるべく、俺はリュックをその場に降ろしてアリスの手を引き、一旦ショッピングモールの壁沿いから離れた。
「出でよ鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
直後に伸ばされた腕に向けて鎌鼬を使役した。腕は二撃の斬風によってきれいに切断され、胴体から離れて土の上で転がった。
まるで、ある一定の質量を持った物体がただ落下しただけのようだった。リアリティーの欠片もそこには存在していなかった。
出血の類いも一切見られなかった。無味乾燥なカカシの腕がただ抜け落ちただけのように感じられた。
「こいつら、まるでゾンビみたいだ……」
アリスが恐怖するのも無理はなかった。
ある者は顔面の半分が陥没していて、残った目の窪みから飛び出る眼球を振り子のように揺らしていた。
またある者は革製の鎧を身に纏っているものの、下腹部ごと貫通していて、その大きな風穴から向こうの景色が見えていた。
映画やドラマのゾンビよりもよっぽど無機質に見えた。
向かって来るスピードは遅い。しかし、体の欠損を髪の毛が一本抜け落ちた程度にしか認識していないように、ただ漠然と進む足は止まりそうになかった。
「アイス・アロー!」
ズシャーー!
「避けるんじゃないわよ! アイス・アロー!」
ズシャーー!
アリスの氷の矢は初撃は避ける必要もないくらい大きく外れたが、二撃目は端の一体の胴体に命中し、その体を貫いた。
「当たったのに向かってくるわよ!」
「ああ、ゾンビは脳を破壊するか頭部を切り落とさないと倒せないって相場が決まってる」
「つまりどういう事よ!?」
「頭を狙え!」
俺はアリスに狙う箇所を指示したと同時に、四体のうちの先頭の一体に駆け寄った。
「出でよ鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
首元を狙って鎌鼬を使役し、胴体から頭部を斬り落とした。
リアルな音を立てて落下した頭部は独立して動く事もなく、胴体とともに活動を停止した。
「アリス! 残りのゾンビは全て俺を狙っている! 落ち着いて頭を狙え!」
赤く目を光らせて殺意を俺に示す三体を、アリスが狙いやすいように障害物のない場所に誘導した。
「雨で狙いがずれるわ! アイス・アロー!」
ズシャーー!
放たれた氷の矢が一体の頭部を貫き、破壊した。電池を失ったように、ゾンビはその場で静かに崩れ落ちた。
「上手いぞアリス! あと二体だ!」
俺は向かって来る二体を横に避けてやり過ごし、再び距離を取ろうと駆け出した。同時に、ゾンビの腰に収められている細身の剣が抜かれた。
「ぐっ……」
その剣先は確かな意思を持って突かれ、俺の腕を掠めて鮮血を滴らせた。火鉢を当てられたような痛みが全身に走った。
瞬間、出血した事を一瞬喜んだ自分がいた。
その鮮やかな色の血は、死者であるゾンビと生者である自分を対比する際の一番わかりやすいものだった。
「大丈夫!?」
「大丈夫だ! 俺は生きてるぞ!」
剣先が3つの月が浮かぶ異世界の空を差した。
振り下ろされるよりも早く、俺はゾンビの首元に触れた。
「鎌鼬! 出て来いや!」
ザシュザシュッ!
「アリス! あと一体だ!」
「わかっているわよ! アイス・アロー!」
ズシャーー!
右手の手のひらから撃たれた氷の矢は、残りのゾンビの右腕を貫いた。
飛び出した眼球が赤い光を失った。踵を返し、ゾンビはアリスのいる方向へゆっくりと顔を向けた。
「くそっ……攻撃対象がアリスになったぞ!」
出来ればこのままアリスに実戦経験を積ませたかったが、狙いがアリスになれば話は別だ。
俺はアリスに襲い掛かろうとする隙だらけの背中へと素早く近づき、左手を添えた右腕の手のひらをゾンビの頭部に軽く当てた。
「出で来いやっ――」
「待ってちょうだい! 私に任せて!」
鎌鼬を使役する寸前のアリスの声。よく躾けられた犬のように、俺の脳が全ての動作を反射的に急停止させた。
「わかった! だけど一発だけだ、外したら俺が頂く!」と俺は言った。
「誰が外すっていうのよ!」とアリスは言った。
アリスはその構えた右手で、いつもより慎重に狙いを定めていた。
小さな手のひらが2ミリ左にずれ、3ミリ上に移動した。
「ここね! アイス・アロー!」
ズシャーー!
そのエイミングショットは最後のゾンビの頭部を穿通し、そのまま背後のユーカリのような樹木の幹にめり込むようにして突き刺さった。
雨に濡れたぱっつん前髪がいくつものビーズのような雫を滴り落としていた。その下で、アリスの表情が色彩見本の束のように、様々な色調を渡り歩いて満面の笑みに変わっていった。
「見た!? 私の活躍! ねえ見たでしょ!?」
「ああ、ばっちり見たぞ! すごかったな!」
俺はドヤ顔に変わっているアリスに駆け寄り、辺りを見回した。
冷たい雨に打たれている四体のゾンビは、ゾンビと呼ぶのは少し違う風にも感じた。
もっと無機質で人形のようだった。どちらかと言うとミイラの方が近いかもしれない。
しかし、この異世界で対峙した二種類目の生物の正体は、今は何もわからなかった。
「メモ帳の疑問符が増える……。って、リュックが水浸しでメモ帳が濡れちまう!」
俺はショッピングモールの壁沿いに置いてあるリュックまで走り、そのまま北メインゲートを開けた。
「ねえ、あれ見て!」
アリスの声に振り返ると、言葉に主語はなかったがその対象が一瞬で理解できた。
「なんだあの黒いモヤは……」
ゾンビの体を黒いモヤモヤが覆っている。
タバコの煙を黒く染めて、何人もが一斉に吹きかけたようにも見える。
それはしばらくそこに漂い、やがて四体の屍を連れ去るようにして消えていった。あとには何も残っていなかった。
「消えたわよ、落ちていた頭も一緒に……」
「ああ、剣もなくなってるな……」
長いあいだ、俺たちは黙って雨が地面を叩く光景を眺めていた。
消えた四体は消えたにもかかわらず、多くの疑問を生み出して置き土産のように残していった。
「謎を謎のまま終わらす気はないよな……? 謎を溜めすぎるミステリーは流行らないぞ」
俺はショッピングモールの屋上にある大きな看板を見上げて呟いた。『マジック・スクウェア』、ショッピングモールの名前がでかでかとそこに掲げられていた。
「なにか落ちているわよ!」とアリスは言った。ゾンビの一体が横たわっていた場所を指差している。
「なんだろうな……」
俺とアリスはそれぞれ四箇所に落ちているキラキラとした物を拾い、そのまま北メインゲートからショッピングモールに戻った。
「鉱石の欠片みたいだな」
「すごくきれいね。ほら、光に当てるとキラキラ輝くわよ」
雲間から射す光に向けてアリスは手を伸ばした。
鉱石の欠片その物ではなく、散らばって含まれている物質が光に反射しているようだった。
「あの四体が落としていったのか……。ゲームでいうドロップ品みたいな物か? 形も大きさもバラバラだな」
「落とした数も違うわね、合計七個かしら?」
俺とアリスはそれぞれが持っている欠片をポケットに入れ、とりあえず濡れた体をなんとかしようとジャオンに向かった。
「メモ帳が半分濡れていやがる……」
「あなた、めんどくさがり屋のわりにはメモ好きよね」
「捜査は足で稼ぐように、情報はメモに残すもんだからな」
「じゃあ、もっとちゃんとした手帳を見つければ?」
「ああ……そうすっか」
リュックにメモ帳をしまい、代わりに噴水の水が入ったペットボトルを取り出してひと口飲んだ。
「その腕の傷治るかしら……」
「大丈夫だって。切断寸前の腕が治ったんだし、こんな掠り傷すぐになくなるだろ」
心配しているアリスを横目に歩いていると、タオルが置いてありそうなテナントを発見した。「100円ショップか……色々とありそうだけど、どれも他の店舗にもっと質の良い物がありそうだな」と俺は呟いた。
アリスは俺の独り言を気にもせずに、ドアを開けて店舗に足を踏み入れた。
「まあ独り言だからいいけどな……」
「タオルあったわよ! あなたも拭いたら?」
差し出されたタオルでまずは頭と顔を拭き、続けてジーンズとTシャツを脱いで鍛えられたボディとしなやかに伸びる脚を拭いた。
「高貴なレディの前で裸になって、貧相な体を見せつけないでくれる?」
「貧相とは失礼だな。これでも柔道や剣道やってたんだぞ」
「あら、意外ね」
「通信教育だけどな!」
「通信教育ってなによ」
真顔で質問された。「いや……なんでもない忘れろ」と俺は言った。
肩を落としながら脱いだ服を着て、店内をうろうろしてみようとその場を後にした。何か使えるものがあるかもしれない。
「100円ショップって結構食品も置いてあるんだな」
ジャオンの食料の多さには遠く及ばないが、インスタント食品やら飲み物やらがかなり豊富に陳列されていた。
「あまり入った事なかったけど、100円ショップを見て回るの楽しいな。……うわっ!」
一番奥のカゴが置いてある陳列棚の列に入ると、アリスが体を拭いた後にTシャツを着るという場面に出くわした。黒いスポーツブラを身に付けていて、裸じゃないので安心した。
「あっち行きなさいよ変態! なんでその場で立ったままなのよ!」
「スポーツブラなんてタンクトップみたいなもんだろ……。ってか俺たち以外に誰かいたかと驚いたわ。お前あっちで体を拭いてたんじゃないのか? なんでここにいるんだ?」
「変態に覗かれない為に決まっているでしょ! いいからあっちに行きなさい!」
恥じらう乙女には程遠いアリスをそこに残し、再び店内をうろうろしながらアリスが奥から出てくるのを待った。
俺たちが初めて出会った人型の生物……。
思考の焦点は、いつしかブラジャーから先ほどのゾンビに変わっていた。
まさか、あれがこの異世界のポピュラーな人種ではないだろうけど、ちゃんと服を着て、革の鎧を纏ってる者までいた……。
ひと目で死因がわかるあの姿は、まさしく蘇った死人だ。でもゾンビが剣で人を刺そうとするか……?
「まあ、武器を扱うゾンビって事にしとくか……。おお、口に出したらしっくり来た」
俺は半ば強引に納得し、店内にあったいくつかの商品をリュックにしまい込んだ。
そうこうしていると、いつの間にか奥から出て来ていたアリスが俺に何かを差し出した。
「はいこれ、ビイングホームで枕を選んでくれたお礼よ。可愛いでしょ?」
「これは……なんだ?」
「手帳よ! 見ればわかるでしょ!」
手帳を受け取り、赤い半透明なプラスチックの表紙を捲ってみた。最初のページに使い道に困る小さなシールが数多く並んでいた。
次のページからは全て白紙で、カレンダーすら付いていないようだった。
「どう? 私が選んだのだから気に入ったでしょ?」
「……ああ、これをあのメモ帳代わりに使えという事か。……なんでいくらでも手帳がありそうなショッピングモールで、敢えて100円ショップの物を選ばないとならんのだ」
俺はそれを閉じ、再びプラスチックの表紙を見た。
「しかもdiaryと書いてあるぞ。ダイ・アリー……」
「いいじゃない可愛くて!」
「あああああ! いいじゃないだと! Eじゃないだと! そのEを真ん中に入れると……」
Die・ary
「う、うわああああああ不吉過ぎる! 陰陽師を呼べ!」
「なに言っているの考え過ぎよ! 私たちの冒険手帳なんだから、可愛い方がいいに決まっているじゃない!」
俺の手から手帳を奪い、アリスは続けて口を開いた。
「まあ……でも確かにもっと高価な物がどこかにあるかもしれないわね。これは棚に戻しておくわ」
そのまま棚まで向かうアリスの手から、俺は再び手帳を取り上げた。
「俺たちの冒険手帳か。いいな! これにしよう!」
アリスは振り返り、満面の笑みを浮かべた。
その満面の笑みはまた初めて見せる新しい種類の満面の笑みだった。
100円ショップを出ると、雨は上がっていた。俺は天井の厚いガラス越しに空を見上げた。
「いずれ俺たちのこれからを語る事になる冒険手帳……。少しでも楽しい物にしような!」
俺はもう一度独り言を呟いた。
「そうね!」
今度は独り言ではなかったようだ。