82 目は口ほどに物を言う
――なんじゃ人よ。わらわになにか用か?
俺は赤ちゃん狼の語りに耳を疑った。いや、直接頭に響く声なので疑うべきは脳だろうか。
俺達はショッピングモールへと帰る前に大狼の住処に立ち寄り、旦那狼と嫁狼の忘れ形見を迎えに来ていた。ボルサとレリアと領主代理の甥には丘の下で待ってもらい、今ここには俺とアリスとチルフィーだけがいた。
――なんとか言ったらどうなのじゃ? うぬ、わらわの言葉が分かるのであろう?
赤ちゃん狼はフェンリルと似た口調だった。体長はチワワ程はありそうだ。
既に言葉を語りかけるまでに成長している事に俺が驚いていると、アリスがヒョイっと抱きかかえた。
「可愛いわね! 可愛すぎるわ!」
パクリッ……!
抱きかかえたアリスの指を、赤ちゃん狼が噛み付いた。大狼のプライドでガブリッ……! とやりたかったようだが、小さな口では甘噛みが精一杯らしい。
――うぬ、このぱっつん前髪に言え。わらわは、なんだかこの者が嫌いじゃ。
アリスの指に噛み付いたまま赤ちゃん狼が語ると、俺の頭上のチルフィーが声を上げた。
「背中に模様があるでありますね」
「おおマジだ……これは……」
よく見ると、背中にはX字の薄い模様があった。俺が旦那狼に付けた傷痕のような模様だった。
「お尻には、私が嫁狼ちゃんに付けた傷痕みたいな模様があるわよ」
アリスが赤ちゃん狼のお尻を俺とチルフィーに向けると、確かにアポストロフィーのような模様があった。
俺とアリスが負わした両親の傷痕を模様として受け継ぐ赤ちゃん狼……。その事象を不思議に思うと同時に、付けるべき名前が決まった。
「X‘か……クリスだな!」
「クリス……アリスと似ているわね。気に入ったわ! 今日からあなたはクリスよ!」
アリスはそう言いながら、雪のように真っ白い大狼の赤ちゃんを抱き上げた。
――ぱっつん前髪はなんで涙を流しながら笑っておるのじゃ? ええい、乳を飲ませい。
クリスは俺へと手を伸ばしながら語った。抱かれているアリスよりも俺の方がまだ可能性を感じるらしい。
「クリスはなんて言っているの? あなた聞こえているんでしょ?」
「あ、ああ。名前を気に入ったらしいぞ」
俺は海よりも深い優しさを発揮した。
*
ショッピングモールに辿り着いた頃には既に夕方になっていた。
俺が朝見た森の上空に昇る煙から始まった今回の騒動は、全身を覆う気だるさと消費した包帯の量、それとボロボロの衣類がその壮絶さを物語っていた。
逆に言えばそれだけで済んだのは奇跡とも言えた。ではその奇跡をもたらした存在はと言うと、やはり大狼達だろう。
その大狼の唯一の生き残りであるクリスは、ジャオンにあった粉ミルクを哺乳瓶ごしでむさぼり、今は和室の布団の上で寝ていた。
人間の赤ちゃん用の粉ミルクだったが、『まことに美味なり』と語っていたので問題は無いみたいだ。
視察担当である甥は、ショッピングモールに辿り着いた時点で相当面食らっていた。そして開いているゲートに甥だけ入れないという事態が生じ、更に困惑していた。
どうやらショッピングモールのシールドスキルの効果だったようで、俺がなんとなくだが歓迎の念を抱くと見えない壁のような物がなくなったらしく、晴れて甥は足を踏み入れる事が出来た。
ケガを治す為にアリスが翔馬で連れて来た時は何事もなく甥も入れたみたいなので、その場にいるショッピングモールの住人の意思次第なのかもしれない。
見るもの全てに大きなリアクションをする甥とは対照的に、レリアは淡々としていた。
ファングネイ王国の貴族の娘なので、あまりよそ様の施設に驚いて見せてはその名に傷が付くと思っているのかもしれない。まあ、エントランスホールの自動販売機を敵だと思い込み、イエティでしばこうとしたのは見なかった事にしておこう。
チルフィーはシルフの隠れ家へと帰っていた。調達隊長でもあるのでなかなかに忙しいらしいが、ちゃっかりアリスが脱ぎ捨てた黒いタイツを貰い、その任の半分は既に完遂したと言っていた。
そして俺とアリスは簡単な着替えを済ませ、今はジャオン1Fの食品売り場に用意したテーブルを全員で囲んでいた。
肝心の視察はと言うと、ジャオンは延長コード無双から伸びる電灯で困らない程度には明るいが、電気が通じているこの不思議空間以外は既に暗いので明日の朝から行う事となった。
「旨いな……。これはなんというものだ?」
と言いながら、甥は炊いたご飯に豪快にかけたレトルトカレーをペロリと完食した。
それだけでは全然足りないようで、カレーの深さを俺が説明し終えた頃にはカップラーメン2個も食べ終えていた。
レリアもアリスと半分ずつレトルトカレーを食べた後に、やはり半分こしたタラコのカップスパゲティを美味しいと言いながら食べていた。
「いい米ですね……。やはり日本食は素晴らしいです……」
ボルサは10年ぶりの元の世界の食事に舌鼓を打っていた。
久しぶりに使う箸にも感動しており、口にその箸で食事を運ぶたびに感嘆の声を漏らしていた。
異世界の住人よりも転移者の方が日本食に感動するというのは、さもありなんと言ったところだろうか。
食事を終えると、アリスとレリアは風呂へと向かった。
俺達はその間、各々が選んだ酒を口にしていた。
どうやら甥も俺と同じくアルコールに弱かったらしく、少し飲むとそのままいびきをかいて寝だした。
俺は少量のウィスキーをソーダで割り、ぬるいビールを飲んでいるボルサの晩酌に付き合った。
塩を多めに振って茹でた枝豆はとても美味しく、アリスとレリアにも食べさせようと風呂から出るまでに更に茹でておいた。
ボルサはいつもより饒舌になっていた。ファングネイ王国の王都での生活や、チャネリング習得の難度の高さなどを話していたが、なかでも俺が興味を持ったのは星占師ギルドの門を叩いた理由だった。
「この世界……いえ、この惑星が、地球と同じ宇宙に存在している事を証明したかったからです」
「同じ宇宙? どういう事だ?」
俺がそう聞くと、ボルサはビールを一口飲んでから続けた。
「異世界転移ですからね。この世界が例えば鏡の中だったり、ゲームの中だったりと言われたら納得せざるを得ません。でも、僕はそんなのは嫌です。ミサが好きだと言い、そして土に還ったこの美しい世界は、地球と同じ宇宙に存在している惑星だと確信したいんです。偽物の世界ではなく、確かな世界だと……」
まあ、その術が全く分からないんですけどね。
と付け加えたボルサの話はよく分からなかったが、しかし恋人だったミサさんへの想いがボルサを支えている事だけは確かなようだ。
「この惑星って、なんて呼ばれてるんだ?」
なんとなくだが沈黙を嫌った俺は、適当に思った事を聞いてみた。すると、ボルサは少し考えてから口を開いた。
「惑星の名称ですか……丸大地と呼んでる人もいますが、特に決まった呼び名はないですね……」
「そうなのか。まあ、日本でも地球って呼び出したのは江戸時代に入ってからだし不思議じゃないか。……不便だし、俺達の間だけでも共通の呼び名が欲しいな」
と話していると、突然チョップの衝撃を後頭部に感じたと同時に幼い声が響いた。
「惑星アリスね!」
「おお、風呂出たのか。……レリアは色違いのお揃いパジャマか」
これから女子会でも始まるのだろうか? という俺の疑問をよそに、アリスがもう一度口を開いた。
「惑星アリスよ!」
「いや……なんにでも自分の名前を付けたがるのはいいが、そのネーミング権だけは譲れないな」
俺が反論すると、アリスは強気な表情で両手を腰に当てた。レリアはジト目で俺達を見ている。
「あなたはクリスの名前を付けたじゃない! 次は私の番よ!」
「大狼と惑星丸ごと1個を同軸に語るな!」
「いいんじゃないですか? 惑星アリス。今度、僕の論文で使わせてもらいますよ」
でしょ? と目を輝かせたアリスが、どこからか持ってきた紙にペンを走らせた。
惑星ARISU
「ローマ字の方が様になるわね!」
「いや……せっかく英字表記できるいい名前なんだから、せめてこうしろよ」
と言いながら、俺はテーブルに置かれた紙に新たに記入した。
惑星ALICE
「カッコイイわね! 私の名前ってこんなふうにも書けるのね!」
「こう見ると、お前の名前の中にアイスって単語が入ってるんだな」
「ホントだわ! だから氷の魔法ばかりガチャガチャから出るのかしら!」
「さあ……どうだろうな」
曖昧に答えた俺をよそに、アリスは飛び跳ねながら正式決定したらしいこの惑星の名をレリアに自慢していた。
……まあ、こんだけ喜ぶならネーミング権は譲ってやるか。
と考えながら、紙コップに口を当ててウィスキーを一口飲んだ。最初よりもアルコール濃度が上がっている気がした。
そして夜は更け、惑星ALICEはまた少し円卓の夜へと近づいた。




