75 大きな遠吠え
アラクネの頭胸部を突き破って中から現れた『人の上半身』は、漆黒の姿のまま微動だにせずにいた。
それはまるでサナギから蝶になる過程のような静寂さで、そこだけ時が止まっているかのようだった。
もっとも、それは漆黒のサナギに限った話で、ジョロウグモのようなアラクネの口からはアリスやボス狼を狙ったワイヤーのように先端の鋭い糸が時折吹き出されていた。
「出でよ玄武!」
カメエエエエッ!
俺はアリス達の前に立ってその糸を光の甲羅で弾き、後方のボス狼に血の契約の進行具合を聞いた。
「ボス狼……いや、フェンリル! あとどのくらい掛かるんだ!」
「血の契約は終わった。あとは幼子が儂を召喚すれば完了じゃ。もっとも、それを教えるのに更に時間が必要じゃがな……」
「そうか……。因みにだけど、今アラクネに攻撃を加えちゃ駄目なのか!?」
「それは絶対止めておけ。あの黒い塊を破壊すると内部の毒が流出し、辺り一帯を死の土地へと変えるじゃろう……」
「マジか……先に言っとけよ攻撃するところだったぞ……。じゃあ奴の変身を待つしかないって事か、ズルいなそれ……」
「嘆くな小僧……。そのおかげで儂と幼子の血の契約が滞りなく進んだんじゃ。おあいことしようではないか……」
自信の表れなのか、フェンリルは澄んだ綺麗な声を響かせた。
その流れでアリスに視線を向けると、小さな手の指先から僅かだが血が滴り落ちた。
「おいアリス! その手どうした!?」
「フェンリルに少し裂いてもらったのよ! 血の契約なのだから、血が必要に決まっているでしょ!」
「なるほど……じゃあ包帯巻いとけ!」
「このくらい大丈夫よ! それよりフェンリル、次はどうすればいいの?」
アリスが言った直後に、隣のボルサが声を上げた。
「ウキキ! あそこの卵から中蜘蛛が孵りそうです!」
「なっ……! いつの間に産んだんだ!? それとも最初からあったのか!?」
くそ……どうする!?
中蜘蛛を放っておくと、また小蜘蛛を産んで敵が増えるよな。
かと言って、ここを離れるのも心配だし……。
と考えていると、アラクネの口元が微かに動いた。
「来るぞ!!」
俺はその射線に向けてダガーを構えた。
そして息を止めて集中し、発射された鋭利な糸の先端を限界まで見続けた。
「打ち弾き!」
キイイインン!
ダガーで完璧に弾くと、打ち弾いた糸が天井に突き刺さった。
蜘蛛の口元から真っ直ぐに吹き出される糸は、数回見た後なら軌道を捉えるのもそれ程は難しくなかった。
というのは成功した後だからこそ言える事だったが、まあ剣技である打ち弾きも使い慣れたので自信はあった。
「ウキキ……よくそんな事が出来ますね」
「ぶっつけ本番すぎだけどな! まあ玄武で防御すれば楽だけど、続けて何度も使役したら俺が動けなくなりそうだからな……」
と話していると、アナが剣を構えながら俺の隣に立った。
「大狼への応急処置は終わった。ウキキ殿、わたしがここを代わるからお前は中蜘蛛を頼めるか?」
アリス達の隣で横たわっている包帯だらけの嫁狼に視線を向けると、目を瞑って体を休めていた。
呼吸はやや小さいようだが、命に別状はなさそうで安心した。
「じゃあ頼む! 気を付けろよ!」
「任せろ。ミスリル製の鎧は伊達では無いという事を教えてやる」
「食らう前提かよ! ヴァングレイト鋼の剣を活かせ!」
言い切ってから振り返り、俺は孵ったばかりの中蜘蛛にダガーを向けた。
そしてまず剣閃を放ち、そのまま駆け寄って狐火を使役しその身を焼いた。
しかしそれだけでは倒せず、腕を構えたままの俺の腹部に中蜘蛛の銛のような足が伸びた。
「打ち弾き!」
ミスった。いや、途中で中蜘蛛は足の軌道を変化させ、狙いを腹部から脚部へと変えた。
その為、ダガーは中蜘蛛の足を弾かずに空を斬った形となったが、それは俺のミスというよりは中蜘蛛のファインプレーと言えた。
「あぶねっ!」
俺は咄嗟にその足を躱した。しかし完全に回避する事は出来ず、ふとももの外側を掠った。
「出てよ鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
痛がるのは後にした。
それよりも先に、俺は最接近する事となった中蜘蛛の口元を狙って鎌鼬を使役し、毛深い頭胸部をX字に斬り裂いた。
「痛ってえ……! てこずらせやがって!」
中蜘蛛は大きな音を立てながら崩れ落ち、耳をつんざくような呻き声を上げてから活動を停止した。
その声や音に反応し、洞窟内の蜘蛛の巣を伝って小蜘蛛が集まって来た。
「丁度いい、纏めて焼き払ってやる!」
と空中の蜘蛛の巣に向かって腕を構えると、突然地鳴りが起こった。
「出でよ狐火!」
ボオオォォォ!
その地鳴りには覚えがあった。そして、その後にフェンリルを包んだ激しい光にも見覚えがあった。
それらは、俺がこの異世界に転移する直前に起こった現象だった。
「アリス……フェンリルを召喚したのか……!」
焼いた小蜘蛛が地に落ちた。1匹だけまだ動いていたので、念のためにダガーで腹部を突き刺した。
それからアリス達に目を向けると、一度消えたフェンリルが再び光に包まれて現れた。
「俺も……ああやって召喚されたのかな……」
無自覚のアリスが無意識でこの異世界に召喚した人間。それが俺なのだろうか。
だとすると……いや、もう曖昧な表現は止めよう。それならば、俺が自分の名前の漢字を忘れた事にも納得がいく。
「無理やり召喚された事の後遺症のようなもんか!」
言いながら、俺はアリス達の元に駆けた。
すると、召喚獣へと戻ったフェンリルが今までよりもずっと大きな遠吠えをした。
ワオオオオオオオオオオオンンンン!!
胸に響く綺麗な遠吠えだった。俺が獣属性だからそう感じるのだろうか?
「素晴らしい遠吠えですね……胸に響きます……」
ボルサが言った。どうやら感動したのは俺だけではないようだ。
「フェンリル……見た目は変わってないみたいだけど、召喚獣に戻ったって考えて良いのか?」
「確かにあまり変わってはいないみたいじゃのう……。じゃが、幼子のマナがゲートを伝って儂に注ぎ込まれておるわ……」
「げ、ゲート?」
俺がその初めて聞いた言葉に疑問を持つと、俺の頭上のチルフィーが短い解説を始めた。
「アリスとフェンリルの頭上をよーく見るであります!」
「よーく……おお、小さな輪っかがあるな……」
確かにアリスの頭上には天使の輪っかのような光が浮いていた。
「あれがゲートであります! あれを通じてマナが供給されるのであります!」
「なるほど……。体はなんともないか?」
俺は、自分の頭上で必死にパントマイムをしているアリスに聞いた。どうやら触れられないようだ。
「フェンリルの頭の上にある輪っかが私にもあるの!? なによそれ、私可愛すぎるじゃない!!」
「落ち着くのじゃ幼子よ、うぬが気を乱すと儂にも影響する……。それより、アラクネが全く動かなくなったのが気にならんか?」
フェンリルがアラクネに鋭い目を向けながら言った。
確かに糸すら発射せず、先程よりも更に静けさを増していた。
「黒いサナギを破って蜘蛛が産まれる……」
俺は、自分の語彙の乏しさに乾いた笑いを漏らした。サナギを破って中から現れるのは捕食者である蜘蛛ではなく、獲物である蝶のはずだった。
だが漆黒の『人の上半身』は、そんな俺の考えなど気にせずに、そのサナギを破ろうと僅かに動き出した。
やがて、黒い塊が剥がれ落ちて人が姿を現した。




