73 内に怒りを秘めて
アラクネ。
俺の記憶が確かなら、それはギリシャ神話に出て来る蜘蛛の化物。
元々は裁縫が得意なただの人間だったが、裁縫的なものを司る神にケンカを売って醜い姿にされた哀れで愚かな女性。
祠に封印されていた蜘蛛の化物が何故そのような名を冠しているのかは不明だが、そんな神々しい名の化物と戦うつもりで洞窟を進んでいる俺達も十分哀れで愚かと言えるかもしれない。
とは言え、不思議と恐怖はなかった。緊張もしていなかった。
俺の中に今ある感情を言葉にするのなら、『怒り』が妥当だった。
「大狼の仇……。取らないとな……」
不意に俺は呟いた。呟くつもりなどなかった。
すると、アナに肩を貸しながら歩いているボルサが俺の独り言に反応した。
「森で大狼の死体をいくつか見ました……」
「ああ……俺も見た。旦那狼は蜘蛛と因縁があるって言ってたけど、なんか知ってるか?」
「大狼がそんな事を……。ウキキは大狼と会話出来るとアリスさんから聞きましたけど、本当なんですね。まあその件はスルーして、因縁の話しですが……」
ボルサは貸している方とは逆の手でメガネの縁を上げてから続けた。
「なん百年も前に突如アラクネは飛来し、この国を滅ぼしかけました。それを防ぎ封印したのは、魔狼フェンリルを従えた伝説の大召喚士アメリア・イザベイルと言われています。……まあ、王都図書館の本で得た知識なので眉唾物でしたが、因縁と言うぐらいなら本当にあった事なのかもしれませんね」
魔狼フェンリルか……。その末裔の大狼なら、復活したアラクネを放っておけないのも頷けるな。
俺はそう思いながら、ボス狼の遠吠えが聞こえた洞窟の奥を眺めた。
洞窟とは言え天井には所々大穴があり、そこから日が射していた。
「大狼がアラクネと戦っているなら、わたし達は大狼と連携して戦おう。あいつらは人を嫌うが、人を襲うようなただの獣ではないからな」
アナがヴァングレイト鋼の剣の握り具合を確かめながら言った。
小蜘蛛に注入された毒は自然と徐々に解毒されているようで、麻痺していた右半身が少し動くようになってきたようだ。
「俺は思いっきり襲われたけどな。けど連携して戦うのは賛成だ」
アナに習いダガーを握りながら言うと、チルフィーを頭に乗せているアリスが口を開いた。
「あなた、いつになく戦う気満々じゃない。なにかあったの?」
「いや……まあ、大狼の死体をあんだけ見ればな……」
「そうね……。私達を乗せてくれた狼ちゃんは無事かしら……」
……旦那狼の事は黙っておくか、あとで一緒に弔おう……。
そう考えていると、ボルサが俺を見ながらメガネに触れた。どうやら、その行動は話す寸前に見せる癖の1つらしい。
「ウキキもアリスさんも、転移して日が浅いのに凄い勇気ですね……。僕らの頃は逃げてばかりでしたよ……」
「ん? ああ、まあ戦う力はショッピングモールがくれたからな。ってか勇気か……」
自分が別段、勇気に溢れているとは思わないが、その言葉には思うところがあった。
俺が忘れた自分の名前の漢字……勇気だったりするのかな。
名は体を表すって言うし、だとしたらこのアラクネとの一戦だけでも俺に勇気と力を与えてくれないかな……。
力は望み過ぎだろうか。だか、そう願わずにはいられなかった。
「どうでもいい事を思い出したので言いますね。英語で『蜘蛛恐怖症』はArachnophobiaと言うんですよね。それはアラクネの名に因んだ単語だって知ってました?」
再びボルサが口を開いた。が、メガネには手を触れずにいる。
「……いや知らなかった。てか、転移して10年経ってるのによくそんな単語覚えてるな……。あ、そういや『朝の蜘蛛は逃がせ、夜の蜘蛛は殺せ』って元の世界で言うよな? その理由知ってるか?」
「ああ、それは――」
ワオオオオオオオン!
突然、ボス狼の遠吠えが洞窟内で反響しボルサの返答をかき消した。
「近いわよ!」
「であります!」
アリスとチルフィーが駆け出すと同時に言った。
「おい先行するな! アナはまだ走れないんだぞ!」
トーテムポールコンビを追いながら俺は言った。
「悪い! 先に行ってるぞ!」
ボルサとアナに振り返って言うと、2人は大きく頷いてから少し歩くスピードを上げた。
*
アリスを追い、俺は大きく深く開いている洞窟の中央に足を踏み入れた。
その奥には祠があったが、そこにアラクネが封印されていたとは到底信じられなかった。
「で……デカ過ぎるだろ……」
祠の事では無かった。
俺が言ったのは、その祠を踏み潰して戦闘を行っているアラクネとボス狼の事だった。
ボス狼はショッピングモールで見た時よりも更に大きく、5メートル程になっていた。
戦闘モードになると大きくなるのかは知らないが、もしこの化物とショッピングモールで戦っていたら俺の命は確実に無かっただろう。
怪獣戦争の相手であるアラクネは更に巨大だった。
頭胸部と腹部だけならボス狼と同じくらいだったが、足の長さも同じように5メートル程あり、その8本の足で立っている姿はまさに怪獣映画を見ているようだった。あるいはアニマルパニック映画か。
「いや、これ……俺達にどうこう出来る相手じゃないだろ……」
アリスの腕を掴みながら俺は呟いた。
――そうよ。あんた達は動かないでジッとしてなさい。既にアラクネはあんた達に気付いているわ、下手に動くと狙われるわよ。
その語りに反応して辺りを見回すと、少し離れた場所に嫁狼が横たわっていた。
「大丈夫か!」
俺はその元に向かって嫁狼の弱々しい体に手を当てた。アリスも気付いたようで、俺の隣で膝を突いた。
「酷いケガであります……」
「ちょっと待っていなさい! 今、包帯を巻くわ!」
アリスは自分のリュックから包帯を取り出し、嫁狼の体に当てた。
――動くなって私、言ったわよね? ……安心なさい、まだ死なないわ。ちょっと体を休めてるだけ。
「じゃあもっと休んどけ。チビもいるんだし、死ぬんじゃねーぞ……。おいアリス、アラクネは既に俺達の存在に気が付いてるそうだ。静かに動いて包帯を巻くんだ。分かったか?」
「分ったわ!」
アリスは元気よく大きな返事をした。分かっていないようだ。
「チルフィーは俺の頭に移動しろ」
「了解であります!」
俺が言い切る前に、チルフィーは俺の頭に飛び移り大袈裟に動きながら返事をした。こいつも状況が呑み込めていないようだ。
「アリス、もう一度言うぞ。あんま目立つ行動するなよ!?」
「了解よ! あなたはどうするの?」
「俺はボス狼のお手伝いをする……。まあ、邪魔にならない程度にやるよ……。チルフィー、風の加護を頼むぞ」
「頼まれたであります! が、前回のを見る限り、ウキキに加護を発動出来るのは1回が限界だと思われるであります」
「そうなのか、マナが少な過ぎるせいか……。じゃあ、またここ一番でお願いするわ」
俺は嫁狼の頭を撫でてから立ち上がり、アラクネとボス狼の戦いに目を向けた。
アラクネの方が優位に立っているように見えるので、俺達にも活躍の場はありそうだ。
「チルフィー行くぞ。覚悟はいいか?」
「いや、全くよくないであります!」
「そうか……俺もだ!」
そして、哀れで愚かな俺達は駆け出した。




