72 いつかの遠吠え
「やばい……。完全に迷った……」
俺は川を越え、目の前にそびえていた崖を木霊の階段で登った。
そしてそのまま森の中を走ったが、アラクネを封印していた祠のようなものはどこにも無かった。
「くそ……レリアの従者を叩き起こして案内させようと思ってたのに、あの野郎……」
親友である旦那狼との戦いが終わった時点で、彼の姿は無かった。
慌てて逃げ出したのか、気絶して倒れていた場所には短い杖が残っていた。
それはトロールとの戦いの時にも見た物で、俺はこれで死ビトを操っていたんじゃないかと推察した。
「一応ボディバッグに入れてあるけど、なんか不気味で持ち歩きたくねえな……」
言いながら、俺はダメ元でアリスに風の便りを送ってみようと考えた。
シルフの族長から貰った、俺とアリス間限定のテレパシー的な能力だったが、届くのがいつか分からないので便利とは到底言えないものだった。
(アリス! 今、お前らを追ってるけど迷った! これが届いたら場所を教えてくれ!)
「……送っといてなんだけど、これ望み薄いな……。くそ、やっぱ自力で探さないとか! 早く終わらせて旦那狼を弔ってやりたいのに!」
再び俺は走り出したが、あてなど無かった。
こうしている間にもアリス達がアラクネと戦ってピンチに陥ってないかと心配になり、自然と走るスピードが上がった。
そうして走っていると、茂みの脇に獣が横たわっていた。
それは、ここに来るまでにも何体か見た大狼の無残な姿だった。
「こんな所にも大狼が……。蜘蛛と勇敢に戦ったんだな……」
俺はその亡骸の瞼を閉じ、合掌して祈った。そして手帳を取り出し、手書きの森の地図におおまかな位置を記入した。
「ちょっと待ってろよ、あとで絶対弔ってやるからな」
1人呟くと、茂みがガサガサと音を立てて揺れた。
「うわあああああ!」
急に大狼が蘇ったんじゃないかと驚いたが、目の前に現れたのは角を生やしたウサギだった。
「ビビらすなよ……。一角ウサギか……」
鼻をピクピクとさせながら俺を見つめている一角ウサギを見て、俺はそのモフモフと噂の角に手を伸ばした。
「あっ……逃げやがった!」
一角ウサギは俺の手から逃れ、意地でもモフモフの角に触れさせないかのように獣道に入った。
しかしそのまま逃げる訳でも無く、再び鼻をピクピクとさせながら振り返った。
「まさかとは思うが……お前、アリスがいる場所まで案内しようとしてるのか?」
返事は無かった。大狼や犬とは会話出来てもウサギは無理のようだ。
そのまま眺めていると一角ウサギは再び数メートル駆け、同じように立ち止まってから振り向いた。
「……ダメ元だ。付いてってみるか……」
ウサギを追いかけるのはアリスの専売特許だったが、俺は本日二度目のダメ元にチャレンジした。
*
うっ……うわあああ!
っ……! ボルサの声っ……!
一角ウサギを追いかけて走っていると、突然男の悲鳴が聞こえてきた。
それはボルサの声のようだったが、どこか少し違っているようにも感じた。
「……蜘蛛の声真似か!」
その悲鳴には心がなかった。恐怖も籠っていなかった。感情のない機械のボリュームをただ上げただけのような音でしかなかった。
「一角ウサギありがとうな! お前は危険だから帰ってろ!」
俺は案内を終え、恐怖心を体の震えで表現している一角ウサギに言った。
そして声の方向へ向かうと、草の生い茂る緩やかな坂が見えた。
その元から、少しだけ下っ足らずで元気な声が聞こえた。
「アイス・アロー!」
ズシャーー!
アリスの氷の矢が中蜘蛛の腹部に突き刺さった。
俺は坂から飛び降り、その氷の矢に触れながら狐火を使役した。
「出でよ狐火!」
ボオオォォォ!
火炎放射はアリスの氷の矢を溶かし中蜘蛛の腹部を焼いた。
それだけで中蜘蛛は崩れ落ち活動を停止した。少しあっけなく思ったが、既に倒す直前だったのかもしれない。
「あ……俺の剣閃とレリアのユニコーンの痕があるな。こいつ村にいた蜘蛛か……」
「ちょっと! 蜘蛛かじゃないわよ! 私のアイス・アローを溶かさないでくれるかしら!」
「いや、刺さったらあとはもう消えるだけだろ」
「そうだけれど、それでもなんだか気分が悪いわ!」
アリスはフワリとジャンプをして俺の背中に回り、頭にいつもより少し強烈なチョップを食らわしてきた。
その心地よい衝撃が頭から伝わり胸に響くと、俺はその手を少し強めに握った。
無事でよかった……!
だが、手放しで喜ぶ訳にもいかなかった。
アリスは無傷のようだがアナは左手で剣を構えており、重心も不自然に左に寄っていた。
そのヴァングレイト鋼の剣を下げながら、アナはその場に倒れ込んだ。
「アナ! 大丈夫か!」
「アナさん!」
俺が駆け寄るよりも先にボルサが手を伸ばし、アナの体をゆっくりと起こした。
「アナさん……無理をしないでください」
「いや……そういう訳にもいかない。アラクネはあの洞窟の中だ。わたしがしっかりしないとな……」
アナはそう言い、無理やり立ち上がろうとしていた。
「小蜘蛛の毒か……? ゴンザレスさんと同じ半身麻痺っぽいな……」
2人を眺めながら、俺は心配そうにしているアリスに聞いた。
「ええ……。私を庇ってアナが……」
「そうか……」
俺はその言葉を聞き、必死に立って剣を握ろうとしているアナを止めた。
「アリスを守ってくれてありがとうな。あとは俺に任せて休んでろ。……洞窟ってあれか?」
俺は茂みの奥にある穴倉を指さしながら言った。
「ああ、そうだ。だが休んでいる訳にはいかない……。わたし達の在任中に結界が解かれたんだ、それなのに放っておけるものか」
「それなら国からの応援を待った方が良くないか? なにもお前がそこまで背負わなくても……」
「この剣を――」
アナは途中で言葉を切り、左手でヴァングレイト鋼の剣を構えながら再び口を開いた。
「この剣をわたしに授けてくださった真の領主様の顔を汚す訳にはいかん。それに既にファングネイの兵士も殺されているんだ。レリアの従者は行方不明で無事かも分からん……。私だけおめおめと応援を待つなんて事は出来ない」
アナが唇を噛み締めながら言った。
レリアの従者が死霊使いだって事はまだみんな知らないのか……。
行方をくらませて村に戻って襲う気だったのか……?
杖は俺が持ってるから、もうその心配はないよな……。事が終わるまで黙っておくか……。
そう考えながら、俺は剣からアナの表情に視線を移した。
どうやら決心は硬いようで、このままここに置いていく訳にはいかなそうだ。
まあ……ここに置き去りにして蜘蛛に襲われでもしたら助ける事も出来ないか……。
そう結論づけると、アナは足を引きずりながら歩き出した。どうやら完全に右半身が動かない訳ではなさそうだ。
「みんなで行くわよ!」
俺より先にアリスが言った。
俺は歩くアナを追い抜きながら、アリスの言葉に続いた。
「ああ……。行こう!」
ワオオオオオオオオオオン!
俺の言葉に同調したような大狼の遠吠えが、洞窟の中から鳴り響いた。
それは聞き覚えのあるボス狼のものだった。
多分きっと、そのはずだった。




