491 複雑に絡み合った糸
夜が近づく気配があった。それは足音もなく俺のベッドに擦り寄り、やがて部屋を暗く閉ざした。飛空艇の窓から外を見てみると、ずっと遠くの地平線に太陽が沈んでいた。またベッドに横になり、天井を見つめながら、もしかしたら水平線だったかもしれないと思った。だが確認のためにわざわざもう一度窓辺に立って外を眺める気にはならなかった。どっちだっていいことだ。
ソフィエさんの三送りを目にするのは、昨日で三度目だったと思う。一度目は美しい舞踏がともない、二度目は死者の前にただ跪いて祈りを捧げていた。トゥモンの三送りは後者と同様に、清潔なシーツにくるまれて厳かに執り行われた。俺は彼の魂とマナが赤と緑の細やかな結晶となり、天へと吸い込まれるように昇っていくのをいつまでも見上げていた。見えなくなっても、トゥモンが三の月へと辿り着くまで見送ってやりたかった。
ソフィエさんとは、三送りが終わるまであまり話をしなかった。彼女と同じ送り人を殺すと脅したところを見られてしまい、気まずい思いが俺の口をつぐませていたのだ。彼女もなんとなくだが、俺に対してあまり良くない感情を抱いているように思えた。いつもだったら気さくに投げかけられるなんてことのない言葉も、それまでは一切なかった。
彼女が俺の名を呼んだのは、三送りが終わって白装束から旅の質素な衣装に着替えたあとだった。まだ厳格な雰囲気が漂っており、目つきもどことなく鋭さが残っていたと思う。少し疲れているようにも感じられた。ウキキ、ちょっといい? と彼女は言った。
俺たちは屋敷の中庭のベンチに座り、そこで話をした。まずトゥモンを三送りしてくれたことに礼を言うと、彼女は静かに首を振った。
「ううん、これが私のやりたいことだから。それでもまだまだ足りないの。ねえウキキ、知ってる? 今日もどこかで人が死んでるんだよ。そして誰かが死ビトに変わっていくの。……だけど、私は救ってあげられない」
三送りについて、俺はそれまで漠然とした考えしか持っていなかった。人が死んだまま放置されると、だいたい二十四時間前後で黒瘴気に覆われてしまう。それからほどなくして四併せに遭い、四の月へと連れていかれる。そこで死者は死ビトへと変貌し、嘆きの丘の長い列に並ぶ。頂上に着き、高い崖の前に立ち、それから彼らは虚ろな表情で身を投げていく。そして現世に戻り、失ったマナを求めて地上を歩く化物になる。
そうならないための葬送の儀式、それが三送りだ。その程度にしか考えていなかった。ソフィエさんの背中を見るまでは……。
「ねえウキキ、これを見て」と彼女は言った。それから座りながら背を向けて、衣服を胸のあたりまでたくし上げた。
彼女の細い背中は、真っ黒くくすんでいた。まるで朦々とした黒煙をあしらったようだった。いや、黒煙ではない、と俺はそのとき思った。これは黒瘴気そのものだ、と……。
「三送りって、結構たいへんなんだ。たぶん、ウキキが思ってるよりも」とソフィエさんは言った。静かに衣服を整え、こちらに向き直った。「人ってね、赤い魂の糸と緑色のマナの糸が肉体に絡んで形成されてるの。だから亡くなったとき、肉体から魂とマナが解放されないと黒く濁って瘴気に変わっちゃうの。私たち送り人がやる作業は、その複雑に絡み合った糸を一本いっぽん解いていくことなの。時間をかけて慎重に、集中して手早く。でも、毎回上手く解けるわけじゃない。ミスをして糸を傷つけちゃうこともあるし、人によってはどこかの糸を切らないと進めないときもある。そうすると、わずかに黒瘴気が生まれちゃうの。溜まればそこで四併せが起きちゃう。だから、送り人はその都度指先から瘴気を吸い取る。それがこうやって背中に蓄積されていくの」
赤いふんわりとした髪の毛先が風に揺れていたのを覚えている。彼女は誰よりも美しかった。少なくとも俺には誰よりも美しく見えていた。しかし、その美しさはどこか俺を咎めているようにも感じられた。
「三送りは、殺すと脅されてできるようなことじゃない。それだけはウキキにもわかってほしい」
俺はなにも言えなかったと思う。ほんの少しだけ曖昧に頷くことしかできなかったはずだ。だってそうだろ? 彼女は品位がどうとかのたまう送り人を庇っているんだ。トゥモンを侮辱したあいつらのことを……。
しかし、背中に溜まった黒瘴気のことを聞くと、考えが少しだけ変わったように思う。ソフィエさんは教えてくれた。あまりに蓄積させると、自分が四併せに遭い、四の月に囚われてしまうと。送り人はそれだけのリスクを抱えてまで、死後の人間を救済しているのだと……。
「わかった、もうあんなことは二度としないよ」と俺は言った。本当に二度としないと思う。だがあいつらを許す気には今もなれない。ほかの送り人になら尊敬の念を抱いてきたつもりだし、これからも敬意をもって接すると思う。だけどあいつらは無理だ。
そんな思いを彼女も感じ取ったのかもしれない。まあ、嫌な人もたくさんいるけどね、とソフィエさんは笑って言った。それから茜色に染まっていく遠くの空を見つめた。たぶん俺は、あのときの彼女の横顔を一生忘れることはないだろう。
「私ね、ウキキ」としばらくしてからソフィエさんは言った。「赤ちゃんがいたの。産まれたばかりの赤ちゃん。だけど、名前をつけてあげる前に亡くなっちゃった。黒瘴気に覆われるのを、私はただ見ていることしかできなかった」
ガルヴィンが俺を呼ぶ声が聞こえた。ちょうどいい、と俺は思った。あまり思い返したくない内容だ。真っ暗な部屋のなかでは、特に。
どうあれ、ソフィエさんはそれがきっかけで流浪の送り人になる道を選んだ。それとほぼ時を同じくして、死ビトが生まれない方法を模索しはじめた。それがもし可能であれば、当然この異世界の粋を集めてでも実現させるべきだろう。最後の飛来種からこの惑星を救えたあとに、俺やアリスが取り組むべき問題はきっとそれだ。
ガルヴィンはしきりに夕食ができたとドアの外から訴えていた。勝手に開けて入ってこないところを見ると、トゥモンが亡くなって沈み込む俺を慮るだけの思いやりは持っているのだろう。がさつな少女だが、それなりに優しい奴なのだ。
部屋から出る前に、俺はもう一度窓から外を眺めた。また次にソフィエさんと会えるのはいつだろう? そんなことを考えていると、彼女のあの横顔が紫色の雲の中心に浮かんだ。やっぱり俺は彼女を愛しているんだ、と俺は思った。俺は彼女を愛している――たとえ、どんな過去があったにせよ。
*
夕食は、少しも味のしないビーフシチューといちごジャムを塗った食パンだった。少しも味のしない深煎りゴマドレッシングがたっぷりとかかったサラダもあったと思う。しかしおそらく味がしないのは、俺が緊張して料理を味わう余裕が少しもないせいだった。その原因は、なぜか夕食に同席しているソフィエさんの存在だった。
俺は隣の席のガルヴィンに耳打ちをした。「な、なあ……。なんでソフィエさんがいるんだ?」
「え、なんでって、一緒にショッピングモールに帰るからに決まってるじゃない」とガルヴィンは大きな声で元気よく答えた。「お兄ちゃんはずっと部屋に引きこもってたから、知らなかったの?」、こいつに耳打ちという行動の意味をあらかじめ教えてなかったのは、きっと俺のミスだ。
「うん、ごめんねウキキ。ちょっとお邪魔させてもらうね」とソフィエさんは少し申し訳なさそうに言った。「アリスにも会いたいし、それにみんなだって世界を渡り歩いてるんだから、私の目的と一致するんじゃないかなって思ったの」
「目的って、三送りをしてまわる旅ってことか?」とウィンディーネが食後のハーブティーをみんなに淹れながら口を挟んだ。俺のだけ特別に、例の頭皮がぽかぽかするやつだ。
俺はそれをひと口飲んでから、小用だとことわって食堂を出た。だめだ、ソフィエさんを前にすると心臓の鼓動が高まってしまう。愛してるなんて自覚してしまってからはなおさらだ。恋の病に身体が侵されているのを感じる。高二の春以来の感情だ。
「へえ、ウキキさんって、ああいう女の人が好みなんですね」と誰かが俺の背中で言った。俺はその瞬間に背にとまっているものを掴み、目の前に引きずり出した。コウモリ姿のナディアだった。
「お前っ……! いつからいたんだ!? てかなんでついてきてんだよ!」
「わたしも同行することにしたからに決まってるじゃないですか。いつからと聞かれたら、ウキキさんが自室でうだうだやってるときからずっとだと答えることになります。ソフィエとかいう送り人への愛を自認したところも見てました」
「なっ……なんでお前そんなことわかったんだよ!」
「顔を見ればわかります。あと体温も上昇してましたし。それより、少し外に出ませんか? 話したいことがあるんです」
それは、ウィンディーネが後継人となって引き取った、トゥモンの弟のことだった。飛空艇の甲板で黄色い二の月の光を浴びながら、ナディアは簡潔に一言だけ口を開いた。
「あの子が唄読みです」と彼女は言った。




