489 俺がトゥモンにしてやれたことは
ナディアは歌を歌ってくれた。喫茶店からトゥモンのいる屋敷まで向かう道すがらだった。街角で急に足を止め、楽器を調律するように軽く喉を鳴らし、綺麗な声を響かせた。と言っても、ほんの1フレーズか2フレーズぐらいなものだった。自分が本当にまた歌を歌えるようになったか確認したかっただけかもしれない。大丈夫か? と俺は彼女に訊ねた。少し前までのナディアであれば、歌詞や音調の節々で顔の見えない母親の姿を思い出してしまい、胸が詰まって歌えなくなってしまう。
「はい、そのようです」と彼女は答えた。それから暗くなっていく空をしばらく見上げた。「どうやら大丈夫みたいです。目に浮かんでくる母の顔は、ちゃんとわたしの知る母でした。怯えるわたしを抱きしめて、優しく歌を歌ってくれる母の顔です。もちろん、これが偽りの思い出だということもわかっています。本当は継母がそうしてくれていたのだと。けれど、これはもうどうしようもないですよね。頭のなかに浮かぶイメージは、修正しようとしてもできるものではありません」
「そうだな」と俺は言った。修正しようとしてもそう簡単にできるものではない。
「あと、母の隣に継母が見えるようにもなってしまいました」とナディアは言った。「あの人、絶対に笑わないんです。ずっと唇をひとつに結んで、厳しい目でわたしを見ています。まるでわたしが音を外したりしないかチェックするみたいにです」
「そっか」と俺は言った。きっとそうなったのは、ナディアが継母なりの愛情の表し方を知ったからだろう。温かい眼差しの愛もあれば、冷たい眼光の愛もある。そのどちらがより深い親愛のしるしとなるかは、それはもう受け取るがわ次第だ。
ナディアは薄暮の空から視線を下ろし、俺のことを見つめた。感情に乏しい表情だが、歌えることの喜びを感じていることはわかった。長いあいだ、俺たちは視線を交わせた。本当に美しい少女だった。銀色の髪が、夕暮れの街角で人知れず煌めく。夜は彼女をこの世の誰よりも綺麗に輝かせる。
ふいに、彼女はコウモリの姿に変身した。こいつは人間の姿を晒し続けることに慣れていないのだ。あまり俺に見られると気分が良くないなんて言っていたが、あれはたぶん嘘だ。きっと恥ずかしくて照れているのだろう。ふふん、千年生きた吸血鬼のくせに、なかなか可愛いところがあるじゃないか。
なんて考えていると、指をガブッと噛まれてしまった。より詳細に言うなら、右手の中指の真ん中の辺りを横からだ。なかなか器用な噛み方だし、痛みもそれなりにあった。より正確に表現するとしたら、爪楊枝をかなりの強さで突いたぐらいだ。
「いてえな、なんでだよ!」
「以前から言ってるじゃないですか」と彼女は何かをテイスティングするように、小さな舌で牙や唇を舐めずりながら言った。「ハイデルベルク様の城を訪れたニンゲンは、わたしが必ず血の鑑定をしなきゃならないと。だから今その伏線を回収したんです。幸い、あの厄介な風の精霊もここにはいませんし」
ナディアはそれだけを言うと、しばらくのあいだ黙り込んだ。俺の血液を味わい、その価値を仔細に測っているのだ。どんなものなのだろう? つまり、俺の人間としての値打ちは。例えばアリスなら、SSSという異例の評価が下された。『時を駆けし者』を祖母に持ち、グスターブ皇国の正統な血を受け継ぐあいつならわからなくもない。そして、オパルツァー帝国の継承者たるザイルも莫大な資金の融資を引き出した。きっとこの二人より劣ることはたしかだろう。でも、もしかしたら、それなりの結果になるかもしれない。俺の祖先だって、家系図をかなり辿っていけば武士的な人物の一人や二人に繋がっているかもしれない。
しばらくすると、ナディアは「あっ……」と口にした。それから意外そうというふうに、俺の顔をつぶらな瞳で見つめた。「ウキキさん……、あなた近い将来ハゲますね」
「いやなにを診断してんだよ! 血の鑑定じゃなかったのかよ!」
「AGA――男性ホルモン型脱毛症です。ストレスとか食生活とか関係なくハゲます。なぜなら疾患ですから」
「具体的なのやめろ!」
知りたくもない事実を知ってしまった。男性ホルモン型脱毛症? 人を絶望の淵に立たせ、いくばくかの希望や楽観的観測をも根こそぎ奪っていく、悪魔的文字列だ。どんな素晴らしい未来予想図も一瞬で形而下に引き戻されてしまう。どうあれ俺は(しかも比較的若いうちに)ハゲるのだ、と……。全部聞かなかったことにしたかったが、それも難しそうだった。ガルヴィンは何も言わず、ちょっと気まずそうな顔で先だって歩き出した。そんなこんなで、俺たちはトゥモンが待つ屋敷に辿り着いた。ちなみに俺の血の値打ちは、掃いて捨てるほどいる平均ぐらいの価値だったそうだ。
*
その日は、南の国にしては珍しく肌寒い一日だった。薄い雲が空を覆い、地上を照らすことを運命付けられたはずの陽を執拗なまでに遮っていた。昼頃に弱い雨が降り始め、俺が飛空艇に乗り込むころまでぐずぐずと街を灰色に染めていた。たぶん止んだのは日が傾いてから少ししてだったと思う。
しばらくすると飛空艇が離陸したが、それでも俺はひとりで自室に籠っていた。ウィンディーネやガルヴィンたちが談笑する艇内ラウンジに顔を出す気にはどうしてもなれなかった。何をするでもなくベットで横になり、何度か眠ろうと目をつむった。だが眠気は少したりとも訪れることはなかった。
トゥモンは昨晩亡くなった。あの善良な十歳の少年は狭い部屋のベッドの上で、静かに眠るように息を引き取った。最期のほうは目も開けられないほど衰弱していたが、俺が手を握るとわずかな力で握り返してくれるのがわかった。死ぬ間際まで弟のことを心配し、彼の後継人となったウィンディーネに何度もか細い声でお礼を言っていた。
俺がトゥモンにしてやれたことは、あまりなかった。今にして思っても、やっぱりあまりなかったのだろう。せいぜいナディアの歌を好きなだけ聴かせてやれたことぐらいだ。死の床にいるあいつを元気づけるために色々と冗談を言ったが、あまり上手くやれた気はしない。むしろ愛想笑いに気を使わせて、残りの時間を無駄に浪費させてしまったのではないかとさえ思える。
それとは対照的に、ウィンディーネはトゥモンのためにとても多くのことを実践した。トゥモンの最後の願い。その一つは歌を聴くことだったが、口をつぐまれてしまったもう一つの願いはウィンディーネが根気強く聞き出してくれた。それは、死ビトになりたくないという心からの願望だった。違う世界で生きてきた俺には到底思いつかないような願いだ。しかし考えてみれば、それはこの異世界で暮らす人々に共通する観念なのだろう。誰だってあんな醜い化物になんかなりたくはない。この惑星の住人は、死んだあとまで自分を苦慮しなければならないのだ。
それをウィンディーネから聞いた俺は、急いで屋敷の主人であるあの男を探した。トゥモンと彼の弟の部屋を飛び出し、部屋のドアというドアをすべて開けて回った。肥えた蛙のような醜男は月の聖堂にいた。修復されたばかりの双子の月の女神リアを模った像の前で、膝をついて祈りを捧げていた。
おい、トゥモンが死んだあとはどうすることになってるんだ? たぶん、こんなようなことを出し抜けに訊いたと思う。この異世界の人々なら、こんな聞き方でもなにが言いたいのか理解できてしまう。多くの奴隷を抱えるあの男ならなおのことだ。つまり、トゥモンの三送りはちゃんとやるのか? と俺は訊ねたのだ。
「さて、それはワタシの与り知るところではありません」とあの男は言った。「もちろん、世界でも有数の送り人と生前契約しておりますが、それはワタシにだけ有効でしてな」
まだ眠れそうになかった。記憶を巡れば巡るほど頭が冴え、体が熱を帯びていくのを感じた。それから俺はどうしただろう? そうだ、トゥモンの蛙のような親方を殴りつけるのを必死に我慢し、どこかに送り人がいないか街を駆け回ったのだ。
そして――俺は彼女と再会した。流浪の送り人、ソフィエさんに。




