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485 もう一つの物語の世界

 ナディアが生母や血の半分繋がった妹と面会できたのは、そのコンサートが終わってから二日ほど経ってのことだった。ナディアとしては当然すぐにでも話をしたかったのだが、継母がそれを許さなかったのだ。面会は継母立ち会いのもと、屋敷の応接間で行われた。生母はナディアをひとしきり抱きしめ、七歳の娘を紹介し、それからかつて生活していた見慣れた空間をひどく懐かしがった。


「生母はとても健気だったと思います」と現実世界のナディアは俺に言った。「だってそうじゃありませんか? 父を誘惑して屋敷ごと奪った女に恨み言ひとつ言わず、不当に追い出された場所をこうして訪れてくれたんです。わたしなら絶対に嫌ですね。父の留守時とはいえ、こんな家の敷居を二度と跨ぎたくありません」


 ナディアは面会の様子を事細かく語っていたが、俺には七歳の半分血の繋がった妹が気になって仕方がなかった。髪の色は母親やナディアの銀髪と違って赤茶色だが、顔立ちはなんとなくナディアと似ている。しかしそういった容貌よりも、年齢に意識が傾いてしまう。だって七歳といえば、ナディアの生母がこの屋敷から追い払われた年月日と一致している。あのとき、すでにお腹のなかにこの子がいたのだろうか? あるいは妊娠したのはそれ以後のことだったのだろうか?


 現実世界のナディアも思い出の中のナディアも、そのことに頓着はしていないようだった。物語のなかでナディアは継母の同席を疎ましく思いながらも、それでも数年ぶりの生母との再会を心から楽しんでいた。妹とも打ち解けあい、次のコンサートには必ず招待すると約束していた。兄しかいないナディアにとって、突然現れた妹の存在は喜び以外のなにものでもないようだった。現在は隣町で二人っきりで貧しい生活を送っている。それを聞くと、ナディアは援助を申し出た。互いの家の行き来も提案し、その日の面会は和やかなまま終了した。


「しかし、継母はそれ以降わたしが生母や妹と会うのを許してくれませんでした」とナディアは言った。「それが原因で、わたしは生まれて初めてこの人とケンカをしました。生まれて初めてというのは、もちろん継母が女中だったころも含みます。わたしはずっとこの人の言い付けに逆らわず生きてきたのです」


 もう我慢がならなかった。わたしが産みの母親や妹と会うのに、どうしてあなたの許可が必要なの? わたしはずっとあなたが憎かった。父を籠絡して生母を追い出したことをずっと恨んでいた。もうわたしはあなたの言うことなんか聞かない。もうコンサートにもついてこないで! ナディアはこのようなことを立て板に水とばかりにまくし立て、自室に籠ってしまった。継母は彼女の去り際にとても悲しそうな顔をしていた。なにかを言いかけようとしたが、それはぐっと喉の奥に吞み込まれた。


「ふふ、きっと面食らって、なにも言えなかったんだと思います。なぜなら、ぜんぶ言われて当たり前のことでしたから。継母はずっとわたしと上手くやっていると思い込んでいたんです。けれど、この日を境にわたしはあの人と話をしなくなりました。コンサートのギャラもわたしが受け取るようにして、そのほとんどを生母と妹に使ってもらうことにしました。父のことは好きだったので屋敷を飛び出したりはしませんでしたが、月の半分ほどは生母の家で過ごすようになりました。妹はわたしにすごく懐いてくれて、新調したベッドに座ってよく二人で歌を歌ったものです。生母はそれを聴いて、とても満足そうに笑っていました」


 それからは、継母が行っていたマネージャーのような立場が生母に変わり、ナディアはこれまでよりも精力的にコンサートの舞台に立つことになった。ほどなくして、彼女は名実ともに歌姫のトップへと君臨した。五つもある南方の地の言語をすべて習得しているのも、その座に立てた要因の一つだった。彼女はどの言語でも、必要なだけ感情を乗せて観客の耳に届けることができた。継母から強制された勉強で、唯一これだけが役に立ちましたね、とナディアは言った。


「しかし、それも長くは続きませんでした。十五歳になってから半年ほど経ったころのことです。先ほど話したとおり、わたしは不運にも病を得てしまいました。黒死病。もう千年以上も前のことですから、具体的にどう苦しかったかはあまり覚えていません。けれど、すぐに歩くこともままならなくなり、ベッドに縛りつけになった記憶はありありと残っています。生母の家で、生母に看病されながら、わたしはそれから一週間ほど生きました」


 そのとき、光景が激しく歪んだ。ナディアの語りとともに、彼女の生母の家での様子が形作られる寸前でだ。視界に虚像の世界と現実の世界が入り混じり、だんだんと四方から暗く閉ざされようとしている。俺の肩にとまる八咫烏が物語に違和感を覚えたのだ。


「な、なあナディア……」と俺は現実世界の彼女に言った。「本当にそうか? 本当に、お前は生母の家で看病されてたのか……?」、場景がぐるぐると回りだし、脳が拒否反応を起こして凄まじい吐き気を催す。


「いえ、違います……」とナディアは言う。「そうです……違います。わたしは、生母の家で生母に看病してもらったのではありません……。あれは、屋敷のわたしの部屋の、ベッドです……」


 珍しく、ナディアにしては歯切れが悪かった。一言ずつ、しっかりと記憶の糸を伝いながら話している様子が窺えた。


「これは……そうです、継母です。わたしの部屋で……継母がわたしのことを看ていてくれたんです……」


 八咫烏が羽ばたく。光景が安定し、俺の視界にナディアを看病する継母の様子が映し出される。


「どうして、でしょう。なぜ継母は泣いているのでしょう……? だって、わたしのことなんか、お金になる義理の娘程度にしか思っていないはずです……。それなのに、なんでこの人はあんなにも悲しそうな顔をしているのでしょう……?」


 生母の姿はどこにもない。物語のなかのナディアは、継母に手を握られながら静かに息を引き取る。そして、そこにはハイデルベルクがいる。


「そして、わたしは、ハイデルベルク様に吸血鬼にされました……。ハイデルベルク様は、歌姫であるわたしを眷属にしたがっていたようです。その対価として、継母は莫大なお金を受け取りました……」


 いや、違う。そうではない。歪んだ光景が俺に真実を教えてくれる。継母はハイデルベルクから金を受け取ってなんかいない。しかし、彼女がハイデルベルクを拒否しているようにも見えない。どうやら、継母がハイデルベルクとなんらかの取引をして、ナディアを吸血鬼にしてしまったのはたしかなようだ。


「わたしがウキキさんに聞いてもらいたかった物語は、これでおしまいです」とナディアは言った。「けれど、やっぱり生母の顔は思い出せないままでした。すみません、ここまでしていただいたのに。黒死病の少年に歌を歌ってあげることも、どうやら難しいみたいです」


 ナディアは歌を歌いたいのに歌えない。それは、歌を歌うともやのかかった生母の顔が脳裏にちらついてしまうからだ。ナディアに優しく歌を歌ってくれていた、その生母の顔が……。そして、そうなるとひどく悲嘆してしまい、それ以上は上手く声が出なくなってしまう。


 これで終わりなのだろうか? 俺は彼女に大切な人の顔を思い出させてやれず、死を待つばかりのトゥモンに彼女の歌を届けられないのだろうか?


「いや、勝手に諦めてもらっちゃ困るぜ……」と俺は言った。俺はまだナディアの物語のなかを観ている。八咫烏が羽ばたくことをやめようとしないのだ。うむ、勝手に諦められては困る、と誰かが繰り返す。その声は、俺の肩のあたりから聞こえてくる。


 これでは、我の面目が立たないというものだ。我は導きの神。主に道を示し、その歩みを明るく照らす存在なり。


 その渋い声は、八咫烏のものだった。突然、目の前に一条の光が差し込み、やがて物語の世界が明るく照らされる。それから少しずつ、光景が眩い光で満たされていく。光の氾濫が終わると、俺は見覚えのある砂漠のど真ん中に立っている。俺の肩には一回り大きくなった八咫烏がとまっており、俺の手は現実のナディアの華奢な手と繋がっている。


「これは、どういうことですか?」と人間姿のナディアは言う。


「さあ……。よくわからないけど、もしかしたら、八咫烏がもたらしたもう一つの物語の世界なのかも」と俺は言う。


 そうなんだろ? お前がなんとかしようとしてくれてるんだろ? と俺は心のなかで八咫烏に訊く。八咫烏は俺の肩にとまったまま、一度だけ大きく頷く。


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