484 歌姫への階段
その光景は、俺の目には幾分訝し気に見えていた。ナディアは屋敷から追い払われてしまった母親と密かに会っていた。それはいい。いいと言うか、かなり感動的な光景だ。しかし、『約束のものは持ってきてくれた?』なんて台詞とともにナディアの小さな手から木箱を受け取る母親には、なにかしら胡散臭い雰囲気を感じずにはいられなかった。だって、最愛であるはずの娘に人目を忍んで会いに来たのだ。娘の笑顔以外に、なにかひとつでもほかに受け取るべきものがあるだろうか。
「なあ、ナディア」と俺は思い切って現実世界の彼女に訊いてみることにした。「あの箱の中身はなんなんだ?」
「このときは、たしかエメラルドのブローチだったはずです。父と継母からろくな準備期間も与えられずに追い出されてしまったので、生母の持ち物がまだ屋敷にいくつか残っていたんです。それを会うたびに少しずつ持っていきました」
それならべつに普通のことなのだろうか。ナディアの言うことが――あるいは生母から聞かされていたことが――本当ならば、とくに邪推する必要もないのかもしれない。
ナディアの母親は木箱のなかを確認すると、大切そうにバッグにしまってからべつのものを取り出した。綺麗な貝殻で造られた可愛らしいペンダントだ。お土産よ、と静かに言って、優しい手つきで娘の首にかけた。お父さんとマーリダさん(ナディアの継母の名前だ)には見つからないようにね。
「生母は街から追いやられて、西の海沿いの村で暮らしていたようです。砂漠しか見たことのないわたしは、海というものをいくら説明されても理解できませんでした。ですが今思えば、生母がいつも漂わせていたのは潮の香りだったように思います。わたしもそこで一緒に住みたいと言うと、もう少し大きくなってからね、と決まって返されました。どうやら、大人になるまでは豊かな父親のもとで生活したほうが、わたしの為になると考えていたようです」
ナディアの描写はかなり正確だった。たしかに彼女の母親からはほのかな潮風の匂いが広がっていた。それを俺の鼻が感じ取ると、母親の顔貌を覆う靄が少しだけ自然と払われた。そこから、美しくて艶のあるぷっくりとした唇が見えていた。
「おいナディア……! お前のお母さんの顔が少し見えたぞ!」と俺は興奮して言った。「唇だ! マリリン・モンロー並みにセクシーだぞお前の母ちゃんの唇!」
「はい、わたしも今ウキキさんに話していて思い出しました」とナディアはとくに高揚感を覚えた様子もなく冷静に言った。「ですが、誰ですかマリリン・モンローって。それに、ウキキさんはいやらしいですね、最初に見えた顔のパーツが唇だなんて。やめてください、わたしの生母をそんな目で見るのは」
「いや、お前が思い出したから俺も見えたんだろ? 違うのか?」
「わかりません」とナディアは本当にわからなそうに言った。「ですが、ウキキさんに物語っていると思い出せるのはたしかなようです。ですからやめましょう、そんな卵が先か鶏が先かみたいな水掛け論は」
母親とのささやかで幸せな時間が終わると、七歳のナディアはひとり寂しく家路に就いた。もう辺りもだいぶ暗くなり、点灯夫が街路の灯篭に火を灯して回っていた。屋敷に着くと、継母が門扉の前で燭台を手に佇んでいるのが見えた。彼女の一対の目は、帰りの遅いナディアを厳しく咎めていた。
「生母とたびたび会っているのが、もうすでにバレていたみたいです。この日を境に、わたしは特別な許可が与えられるのをべつにして、外出が禁じられてしまいました。もちろん、それで生母と会うこともできなくなりました。わたしは涙ながらに父親に訴えましたが、それが取り消されることはありませんでした。父親はわたしの教育を継母に一任していたのです」
自室で泣くだけ泣いたあと、ナディアは腫れた目で歌を歌った。自然と歌が口をついて出てきたのだと彼女は言った。幼いころに母親の背中でなんども聴いた子守歌だ。子供の歌声とはとても思えない、音律の整った流麗なものだった。
自分は歌を歌う人間になりたい、そう強く感じたのはこのときが初めてだった。歌を歌っていると胸のつかえが取れてくるし、晴れやかな気分にもなれる。どうやったらもっと上手く歌えるだろう? もっと声が響くようになるだろう? その晩彼女は喉が枯れるまで歌い明かし、朝日が昇るころ眠りについた。母親と海辺の村で歌を歌う夢を見て、昼過ぎに目が覚めた。それからも、穏やかな夢はしばらくのあいだ彼女のまわりを優しくたゆたっていた。
その日は、朝から講師を呼んで語学の勉強をするはずだった。だが寝過ごしてしまったことに気がつくと、ナディアはおそるおそる継母の座る昼食の席に着いた。みっちり時間をかけて叱られると思っていると、それよりもさらに多くの時間をかけて叱られた。そのあいだは食事に手をつけることも水を飲むことも許されなかった。
「それから、やっとパンをちぎって口のなかに入れると、継母は出し抜けにわたしに言いました。『歌を歌っていたわね』、と。はい、と答えると、次に『歌が好きなのかい?』とさらに訊かれました。またわたしがはいと返すと、それで会話は終了しました。ですが翌日、ある人物が早朝から屋敷を訪ねに来ました。いえ、ある人物なんてたいした前置きは必要ありません。それは、継母が招いた歌の先生でした。歌を歌うのが好きなら、人前で歌っても恥ずかしくない程度には上達させなさい、とのことでした」
それからは、諸々の勉強のほかに歌のレッスンが追加された。どれも厳しく、少しでも間違えば継母から手の甲に鞭を打たれた。時間も厳格に管理され、屋敷を抜け出すのはおろか自室でくつろぐのもままならなかった。彼女の歌声が街で評判になったのは、そんな生活が五年ほど続いたころだった。十二歳になったナディアは、着実に歌姫への階段を上り始めていた。
「社交界や舞踏会、それに元老院議員の集う評議会で歌うことが多くなってきました。それだけわたしの歌が素晴らしかったんです。あと世界一可愛いから。ですが、そのころはもう歌を歌っていても楽しくありませんでした。継母の呼んだ先生は優秀でしたが、きっちりと一音たりともずれるのを好まないヒトなんです。歌はもっと自由であるべきだと、ウキキさんも思いませんか? いえ、そんなに鼻息を荒くしてまで同意していただかなくて結構です。話の流れで訊いただけですから」
ナディアの歌が広く世に認められ始めても、継母は彼女に厳しかった。臨席してナディアの歌を聴くことも多かったが、けっして笑顔を見せることはなかった。時間の合間に歴史や数学、それに言語の勉強をさせ、歌唱の報酬もすべて継母が管理した。結構な額を受け取っていたはずですが、わたしはそれで贅沢をした思い出はひとつもありません、と彼女は言った。
「少しも楽しくありませんでした。大観衆の前で歌なんてこれ以上歌いたくありませんでした。わたしは、ベッドの上で生母を想って歌うだけで十分幸せだったんです。ですが、もうすでにそんなことを言える雰囲気ではありませんでした。街がわたしを祭り上げ、国がわたしを重要文化財のように扱い始めたからです。コンサートを開けば、国外からお客が雪崩のように押し寄せてきます。それで宿は予約で埋まり、レストランも大勢で賑わいます。街は潤い、国は南方の地での存在感を増していきます」
ナディアの思惑とは裏腹に、歌声はさらに磨かれ、美しさは美少女の枠を大きく飛び越えていた。十四歳になり、子供から大人になりつつある彼女は、自在に伸縮する声帯と蠱惑的なほどの容姿をすでに手に入れていたのだ。楽しくない、とたびたび口にした彼女だが、実際に俺の目から見ても充実しているとはとても言えそうになかった。彼女はどこか苦しそうな表情で歌唱し、一山いくらの作為的な笑顔を大勢の客に振りまいていた。むしろ空き時間に楽屋で継母と勉強をしているときのほうが、いくらかは活き活きとしているように思われた。
「ですが、わたしにもやっと歌を歌っていて楽しいと思えるときが来ました。それは、十五歳の誕生日を間近に控えたコンサートでのことでした」
十五歳。それはナディアが黒死病で亡くなる年齢だ。物語が終わりつつある、と俺は思った。彼女は間もなく夭逝し、ハイデルベルクに吸血鬼に変えられてしまう。『わたしをハイデルベルク様に売り渡し、巨額なお金をせしめた』とナディアは先ほど言っていた。金が大好きな継母の行いとのことだ。どうあれ、彼女の人間としての一生はそこに帰結するのだろうか。
「わたしはその日も浮かない気持ちで歌を歌っていました。ですが、舞台の上から観客のなかに生母がいるのが見えたんです。顔はまだ思い出せませんが、きっと笑顔だったと思います。一生懸命手を振って、わたしに気づかせたいみたいでした」
もう一方の母親の手は、幼い女の子と堅く結ばれていた。だが、ナディアはその少女の存在にしばらく触れなかった。母親に自分の歌をもっと聴いてもらいたいと思った瞬間から、歌うのが楽しくてたまらなくなった。そう口にしてから、やっと血の半分繋がった妹だと俺に教えてくれた。




