483 育ての母
ナディアは自らの記憶の改竄と上手く向き合うことができないでいた。いや、改竄なんて大げさなものではないのかもしれない。千年以上も前の思い出なのだから、多少の記憶違いがあってもそれほど不可思議なことではない。しかしいずれにせよ、死ビトの恐怖に怯える幼いころの彼女を、母親は優しく抱きしめてなんかいなかった。いつもの子守歌によく似た優しい歌を歌ってくれもしなかった。それが今のところの事実だ。
「どうしてでしょう? けれどわたしは、はっきりとそのときの光景を思い出すことができます」とナディアはしばらくすると言った。「耳元で聴く穏やかな歌声だってしっかり覚えています。生母の歌を聴いていると、だんだんと死ビトの恐怖が和らいでいくんです。ゆっくりと息を吸って、思い切って目を開けると、そこには笑顔でわたしを見守ってくれている生母の顔があるんです。その顔はどうしても思い出せないけれど、情景は目にくっきりと焼きついています」
「だったら、それは別の時の記憶なのかもな」と俺は言った。ナディアの語る物語から急に現実に引き戻されたせいで、まだ頭の芯がずきずきと痛む。「街から街まで砂漠の横断なんて、何度もあったんだろ? どっかで記憶がこんがらがってんじゃないのか?」
「そうでしょうか? いま話したのは六歳になってからすぐの行商だったので、よく覚えているはずなんです。ちょうど今わたしたちがいるこの都市からの帰路です。思いのほか儲かって、父の機嫌もすごく良かったのを昨日のように思い出せます。それで誕生日のプレゼントに黒真珠のブレスレットを送ってくれました」
俺はなにも言わず、彼女が自分の言葉を介して記憶を整理し、ひとところに落ち着くのを待っていた。頭の痛みが収まってくると、胸の奥にたしかな八咫烏の微熱を感じた。その熱は、必要があればまた俺を物語の世界に導いてくれると伝えているようだった。
「けれど、ウキキさんがそう言うのならそうなのかもしれません。なんせ実際に私の物語から弾き出されてしまったわけですから。次からは、色々な描写にもう少し気を配るようにします。またこんなことになったら、ウキキさんに愛想を尽かされて見捨てられてしまうかもしれません」
「いや、ここまで来て途中でほっぽり出したりはしないよ。ちゃんとお前が母親の顔を思い出せるまで付き合うつもりだ」
「そうですか。なら最後まで利用させてもらうことにします」
「おい」
ナディアはまた思い出を物語る。八咫烏が俺をその虚像の世界に連れていく。もう少し水を飲んでおけばよかったか、と俺は終わりのない砂丘の連なりを目にして思う。汗が足元に落ち、渇いた砂が瞬く間に吸収してしまう。
*
ナディアの母親の顔にはあいかわらず白い靄がかかっていた。しかしその物腰の柔らかさや幼い彼女を気遣う様子は、ナディアの記憶にある優しい母親像と一致していた。いくら記憶に幾ばくかの違いが生じていようと、そのことに変わりはないようだった。あまり甘やかすでないぞ、と父親から窘められるぐらいだ。
「ふふん、どうですか? 聖母のように優しいでしょう、わたしの生母は」とナディアは言った。音韻が重なったのは、ただの偶然だったみたいだ。「それにすごく綺麗。この人の娘なんですから、わたしが世界一可愛いのも無理はないですよね」
「いや、顔はまだわからないだろ」と俺は言った。
「そのうちきっと見られるようになりますよ。なんだかウキキさんに話していると、思い出がより鮮明になっていく気がしますから」
砂漠の旅に終わりを告げたのは、太陽が沈んでからすぐのことだった。危うく極寒の夜を砂上で迎えてしまうところでしたね、と長男が肝を冷やすようにナディアの父親に言った。声もなく頷くと、父親は三人の息子と四人の従者に積荷の運搬やラクダの世話を任せ、吸い込まれるように屋敷の門をひとり抜けていった。玄関では扉が開かれ、燭台を持った女中が主人の帰りを待っていた。
長男と次男が目を見交わし、にやにやと笑っている。従者も何人かが含みをもった顔で主人の背中を眺めている。どれもが父親と女中の関係を匂わす、示唆的な表情だ。ナディアの母親の顔色はやはり窺えないが、それでも視線が女中の顔に注がれているのは見て取れた。
「あの人は、のちにわたしの継母になる人物です。わたしが母を生母と呼んでいた理由が、これではっきりしましたね。そうです、六歳のころのわたしには知りようがありませんでしたが、もうすでに父親とあの人は不義の仲だったようです。このちょうど一年後、わたしが七歳になってからすぐに、生母は捨てられてしまいました」
時間が進み、場面がナディアの部屋のなかに転換する。彼女はベッドで泣き崩れ、心配になって諭そうとする三人の兄の話を(からかったりもするが、やはりどの兄も妹が可愛いみたいだ)背中越しに聞いている。しかしなにを聞こうが、父親が母親を捨て、街からも追い出してしまった事実に変わりはない。唯一ナディアを安心させたのは、母親が十分な金銭を持たされたので食うには困らないだろうという点だった。
「厳しい土地で成功した商人の娘でしたから、お金に関しては幼いころからそこはかとなく理解していました。それがあれば不幸にはならないと。けれど、優しい生母がいなくなってしまった悲しさが癒されることはありません。どうしてわたしを連れて行ってくれなかったのかと、それからずっと涙にくれながら考えていました」
部屋には入らず、扉のところからナディアを見ている双眸があった。二人目の母親となった、元女中の厳しい眼差しだ。いつまで泣いてるのかしら、この子は、とナディアに聞こえるように育ての親は言う。ワタシはあの女のように、あんたに甘くはしないわ。ハールーン様(ナディアの父親の名だ)の子女として相応しい教育を施してあげるから、今のうちに覚悟しておきなさい。
「あの人は女中として長く屋敷で暮らしながら、ずっと生母を憎んでいたんです」とナディアは言った。「それと同じくらい、わたしのことも。なので父親を誘惑し、何度も姦通を重ね、そして生母を追い払って屋敷を自分のものにしたんです」
予告どおり、教育はとても峻厳なものだった。名のある商家の淑女として恥ずかしくない振る舞いを叩き込まれ、五つもある南方の国の言語や文字、それに独自の文化を細大漏らさず勉強させられた。毎日のように叱られ、手の甲に鞭を喰らった。酷いときは頬がぴしゃりとはたかれた。そんな厳格な態度は、ナディアだけに向けられたものではなかった。かつて同僚だった女中たちにも同じように臨み、甲高い声で怒鳴りつけることもしばしばあった。
その反面、すでに独立して商売を始めていた年の離れた兄たちに対しては、女中のころと同じ態度が取られていた。長男や次男、それに三男がたまに生家に寄ると、女中から紅茶や菓子の載った盆を奪い自らが配膳した。満面の笑みで彼らの話を聞き、まるでどこかの国の大臣のように丁寧にもてなした。そのわずかな時間だけは、同席するナディアにも寛容の精神が向けられた。紅茶のカップをソーサーに置くときに大きな音を立ててしまっても、彼女は決して笑顔を崩さなかった。
「きっと、兄たちからお金の匂いがしたからだと思います。香辛料の貿易を始めて、すでに成功の兆しが見えていましたから。それだけ、あの人はお金が大好きなんです。なので最後はわたしをハイデルベルク様に売り渡し、巨額なお金をせしめて、わたしを吸血鬼にしてしまったんです」
そこで、俺の意識は物語を鳥瞰しながらも、現実のコウモリ姿のナディアに傾けられた。「え、いま育ての親がハイデルベルクにお前を差し出したって言ったのか?」
「そうです。それだけ歌姫になったわたしの価値が莫大だったことになります。あと世界で一番可愛いから。ですが、それは物語の最後のことです。つい口走ってしまったのは失敗でしたね」
俺の肩に三本の足でとまった八咫烏が首を少しだけ傾げている。ナディアの語りに少々の違和感を覚えた、ということかもしれない。しかし、俺がまた物語の世界から切り離されるようなことはなかった。七歳で銀髪の可愛いナディアが(たしかに世界一かもしれないぐらい可愛い)注意深くクッキーを咀嚼している姿がまだちゃんと視えていた。
「大嫌いなあの人より、生母の話をもっとしたいと思います」と彼女は仕切りなおすように言った。「実は、父親と別れてからも、こっそりわたしに会いにきてくれてたんです」
ナディアが母親の胸のなかに飛び込む光景が広がる。母親は優しい手つきで娘の頭を撫でている。しかし、やっぱり顔は白く塗りつぶされたように靄に覆われている。ナディア、約束のものは持ってきてくれた? と母親が言う。少女は元気よく返事をし、ハンカチで包まれた小さな木箱を生母に手渡す。




