482 大好きだった優しい母の顔
神話上の八咫烏について、俺はあまりにも不確かな知識しか有していない。たしか神武天皇が東征の際に、物凄く偉い神様から遣わされた導きの神だったはずだ。サッカー日本代表のシンボルマークとしても知られている。三本の足はどこか奇妙だが、しかし不思議と日本人の意識にすっと馴染むフォルムでもある。
そんな御伽噺のようなカラスだが、実際俺のなかに宿っているのだから不思議な話だ。いや、もしかしたら神武天皇に助力した八咫烏とは別個体なのかもしれない。ちょっとアホっぽい面構えだからかもしれないが、そこまで尊き存在だとは思えない。現に、ナディアはこう口にしていた。『八咫烏なんて珍しい幻獣を宿しているのは、わたしの知る限りウキキさんだけですから』、と。つまり、どれだけ希少であろうと、四聖獣のようなオンリー・ワンではないわけだ。案外、早朝の新宿のどこかの電線にでもとまっていたりするのかもしれない。そして、道を誤る幼気な少女を人知れず導いているのかもしれない。
しかしいずれにせよ、『導く』というのは八咫烏にとって共通のキーワードであるようだ。俺の心の内奥に棲むカラスも、使役すれば付近の地図を3Dマッピング的な視覚で脳に送り込んでくれる。それを見ながら走ったりすると脳や自律神経の混乱によって酔ってしまうのが難点といえば難点だ。だが、それ以外にもこの八咫烏は力を秘めている。人がとうとうと物語るストーリーのなかに入り込み、文字通り虚像の世界を鳥瞰する能力だ。しかし、誰の話にでも発揮されるわけではない(アリスのくだらない話にいちいち入っていたら脳みそがもたない)。俺が視るべき物語。それを八咫烏が自然と読み取り、俺を虚像の世界に連れて行ってくれる。今までの例からすると、そのあとのことは知ったこっちゃないみたいだ。だが、それもある意味ちょっと乱暴な『導き』ではあるのだろう。
「それでは話します。お願いです、ウキキさん。わたしの物語を見て、生母の顔をわたしが思い出すきっかけをください」
そして、俺の意識は砂漠のど真ん中に放り込まれる。
*
ギラギラと照りつく太陽の光に肌を焼かれる。汗が滝のように身体のいたるところで流れている。ときおり気まぐれのように吹く風に砂が舞い、唇のわずかな隙間を通って口のなかをザラザラとさせる。前に水を飲んだのがいつだか思い出せないほど無性に喉が渇いてくる。それだけ、ナディアの語る物語は細部に至るまで詳しかった。俺は行商人の一団に混じり、まだ六歳のころの彼女の隣を歩いている。コブが一段と大きいラクダが激しくゲップし、強烈な臭いを辺りにまき散らす。
だが、そんな微に入り細を穿つ語りにもかかわらず、ナディアの母親の顔には真っ白い靄がかかっていた。容貌どころか、表情や目の色すらわからなかった。ナディアと同じ、美しい銀髪だということしか確認できない。どうやら、ナディアの(おそらく)月の民の血筋は、母から受け継いだものらしかった。
「行商を営む一家の末娘として生まれたわたしは、こうしてたびたび砂漠を街から街まで横断していました。知ってましたか、ウキキさん。ラクダの尿って薬や整髪料に使われるんです。そして糞は水分が少なく、木材の乏しいこのあたりではすぐに燃やせる燃料として貴重なんです。あと鼻がひん曲がるほどすごく臭い。責任をもって回収するのは、いつも八つ離れた兄の仕事でした。本当に鼻から脳に直接塗り込まれたみたいにすごく臭いんです」
「ああ、今まさにその現場を視てるよ……ってクサッ!!!!! おい、あまり余計な情報を織り交ぜないでくれ……クッサッ!!!!!」
本当に鼻から脳に直接塗り込まれたみたいにすごく臭い。心なしか、俺の肩にとまっている八咫烏も顔を背けているみたいだ。しかし、この時点で俺は奇妙な点に思い当たる。それは、母親以外の顔はちゃんと視えていることだった。父と三人の兄、それと四人もの従者。全員がナディアの少ない描写以上にはっきりと顔貌が窺えている。
「美形の一家として、南の国ではそこそこ有名だったんです。そのなかでも、わたしは飛び切り美しく生まれたみたいでした。世界一可愛いといっても過言ではないと思いませんか? そんな世界の宝ともいうべき娘が若くして亡くなってしまうのですから、世界的に見ても大きな損失だったはずです」
アリスみたいなことを言う奴だ。だが、たしかに自賛するだけあって、幼いながらにかなり美しかった。額縁に入れて現実世界に持ち帰りたいほどだ。彼女の言うとおり、歌姫になった九年後の十五歳にこの子は黒死病で亡くなってしまう。けれど黄泉の客にはならず、なんらかの事情によってハイデルベルクに眷属の吸血鬼にされてしまう。
「っていうか……銀髪なのは兄妹でお前だけなんだな。みんな父親と同じ、黒髪で黒髭だ」
「いえ、姉も銀色の髪だったそうです。わたしが生まれる前に死んでしまったので、もちろん見たことはありませんが」
「そっか……」と俺は言った。悪いことを聞いてしまった。
「べつに構いません。もう千年以上も昔の話ですから。そんな顔をするのはやめてください。落ち込んだウキキさんって、たぶん自分が思ってるより相当気持ち悪いですよ」
砂漠の旅は続いている。気持ちが悪かろうが、良かろうが。まだ太陽だって燦々と輝いている。しかし、日が沈む前に次の街に辿り着かなくてはならない。彼らは極端な寒暖差に耐えられるだけの物資を備えていない。
死ビトにはかなり手を焼かされていた。ナディアの父親と一番上の兄、それと従者の二名が帯刀していたが、ぎりぎりまで戦闘を避けていた。誰かが前方に死ビトを発見すれば、わざわざ迂回して時間と体力を浪費していく。物語のなかなのだから、俺が手っ取り早く鎌鼬で首を刎ねるわけにもいかない。しかし、この異世界の人々にとっては、これが大方の常道なのだろう。避けられる危険は避けていくのが正しい判断だ。
「すみません、ウキキさん。本当なら旅程を飛ばして話してもいいのですが、なにかの拍子に生母の顔を思い出せるきっかけが掴めるかもしれないので、もう少し続けさせてください。暑いでしょ? 水が飲みたいですか? わたしはいま、キンキンに冷えた氷水を飲みながら語っています」
「お前……あのハイデルベルクの腹心だけあって、なかなか性格が悪いな……」
「性格がいい歌い手なんて存在しません。売れればカレーが辛いから帰っても許される世界ですから。わたしはそれをして、次に甘いカレーを用意されたのでまた怒って歌わずに帰りました。そういえば、あの頃は誰に対してもタメ口だった気がします。これだけ謙虚になり、ニンゲン相手でも敬語でなくては落ち着かなくなったのは、ハイデルベルク様の教育の賜物だったのかもしれません」
回り道のしようがないときは、彼らは覚悟を持って戦った。穂先が欠けた槍を携える死ビトに、曲剣を抜いた四名がにじみ寄る。距離を適切に測り、四方から囲んでいく。そしておとり役の従者が死ビトの間合いに飛び込むと、槍が一気に突き出される。達人とは程遠い刺突だ。俊敏でもなければ、狙いも大きくずれている。きっと生前はうだつの上がらない兵士かなにかだったのだろう。しかしそれすら上手くいなせず、従者は穂先を肩に掠らせてしまう。血が飛び散る。その隙に切り込んだナディアの兄が死ビトの首に一撃を加える。首が渇いた音を立てて砂の上に落ち、表情のない顔がナディアのいる方向を向く。
こういうとき、ラクダを怯えさせないように宥めるのが幼い彼女の仕事の一つだった。だが、少女はいつもラクダ以上に恐怖に慄いていた。怖くて怖くて堪らない。戦いが終わっても、しばらく身体の震えが止まらなかった。
「一番怖かったのは、表情が一切ないところでした。小さいころのわたしは、その意味がまったく理解できませんでした。だってそうじゃないですか? 死んだあと三送りされずに、四併せに遭って四の月に囚われる。それから地上を歩く死者に変貌する。そこまでは納得できます。だけど、表情がないところは本当にわけがわかりません。子供ってそういう理解の範疇を超えたところを変に怖がるものですよね。襲ってくるなら、せめて怒気を帯びてもらいたいとずっと思っていました」
考えたこともかったが、彼女の言う意味はなんとなくわかるような気がした。たしかに死ビトの形相のなさはかなり不気味だ。幼いナディアは泣き出してしまい、三人の兄は妹の臆病さをからかって笑っている。父親と従者たちは荷物が無事か仔細に点検している。
「こういうとき、母は怯えるわたしを優しく抱きしめてくれました。いつも歌ってくれた子守歌に似た、静かで穏やかな歌を歌ってくれるんです。ほら、綺麗な歌声が聴こえませんか? ああ、でもだめです。やっぱり、その大好きだった母の顔が上手く思い出せません」
そのとき、情景が大きく歪んだ。綺麗な歌声なんて、少しも聴こえてこない。視界が激しく乱れ、次の瞬間には現実のカフェの店内が目の前に広がった。ガルヴィンが暇そうに、向かいの席でストローの包み紙を水で膨らまして遊んでいる。八咫烏から切り離され、俺の意識が物語の世界から戻ってきたのだ。
「どうしましたか、ウキキさん?」とコウモリ姿のナディアが俺の膝の上にとまって言った。「まだまだ話はこれからですよ?」
どうしてもこうしてもない。こんなことは今までで一度もなかったことだ。急に意識が切り替わってしまったので、まだ脳に送られる映像が砂漠とカフェを行ったり来たりしている。ジェットコースターに乗りながらチャンネルの壊れたテレビを見ているような光景に酔ってしまい、吐き出しそうなぐらい気持ちが悪かった。
俺はコップの水をひと口飲み、それから指で強くこめかみを押さえる。それから言う。
「たぶん……お前が真実と異なることを語ったから、物語が物語として成り立たなくなったんだ……。それで、俺が八咫烏の力を借りて鳥瞰できなくなったんじゃないかな……」と俺は言った。「つまり、お前の母親は怯えるお前を抱きしめてなんかなかった。歌も歌ってなんかなかったってことだ……」
ナディアはじっと俺の顔を見つめている。しかしおそらく、その瞳が捉えているのは俺の顔ではないだろう。彼女は突き出された記憶の改竄と上手く向き合うことができないでいる。混乱の嵐が彼女の思い出を執拗に追い回す。




