479 ベッドの上のトゥモン
トゥモンは黒砂病という病に侵されている。それは、遥か東の汚染された砂漠から風に乗って運ばれてくる微細な砂を、肺に吸い込んでしまうことが原因とされている。三親方に対して不義理を働いた奴隷が多く罹り、身体が成長しきっていない子供が罹患するとまず助からない病魔。少なくとも、科学的な発展を遂げていないこの異世界の南の都市では、そのように考えられている。
それが、屋敷を尋ねたガルヴィンが料理女から聞きだしてきたトゥモンの現状だった。風通しの悪い蒸した部屋のベッドで横になってたよ、とガルヴィンは言った。お兄ちゃんのことを話したら、会いたいって言ってた。
居ても立ってもいられなかった。十歳の少年が、死を待つばかりの病床で俺のことを待っている。そう思うと、足が自然と走り出していた。自分が賞金首だろうがなんだろうが少しも気にかからない。行く手を遮る奴がいたら、飛び越してやればいい。捕まえようとする奴がいたら、返り討ちにしてやる。今の俺にとって、トゥモンに会うこと以上に大切なことはなかった。それでも邪魔をするなら、死なない程度に痛めつけてやる。
門番の制止を振り切って趣味の悪い金ぴかの門扉を抜け、屋敷の玄関に入る。素手で大きな靴を磨いている男にトゥモンの居場所を聞くが、なにひとつ答えない。奴隷は三親方の許可なく口をきいてはならないのだ。それでも問いただそうと、大声で詰め寄る。しかし男は煤けた頬をこわばらせ、困ったように何度も首を振る。無性に腹が立った。無性にこの男が許せなかった。隷属的な扱いを受ける仲間の見舞いに友達が来ているのに、こいつは律儀に腐敗した都市の決まり事を守っているのだ。あの肥えた蛙のように醜い親方に義理立てて。
騒ぎを聞きつけたのか、大勢が玄関ホールに集まってくる。まず腰に質素な布を巻きつけただけの奴隷たちが俺を中心に半円を描き、次に身なりの良い男がその中央を割って入ってくる。前にこの屋敷を訪れたときに目にした執事ふうの男だ。二人の曲剣を帯びる屈強な男を横に従えている。きっとデザート・スコーピオンの戦士だろう。感情のない目を見れば、嫌でもそれがわかってしまう。
「なに用かな、悪鬼ウキキ」と執事ふうの男は言う。「再び月の聖堂に蛮行を働きにきたのか、それとも罪に苛まれ、我が主人シャフリヤール様に許しを請いにやって来たのか」
シャフリヤール、と俺は思った。たぶんそれがあの醜男の名前なのだろう。おそらく耳にしたのは初めてだ。汚い手で成り上がった元奴隷にしては、ずいぶん立派な名に思える。あるいは、すでに俺はその名前を聞いていたかもしれない。ただ覚えておくだけの価値を見出せず、瞬間的に忘れたのかもしれない。
「どっちでもねえよ」と俺は言った。「トゥモンはどこだ、あいつのところに案内しろ」
いずれにせよ、腹が立って仕方がなかった。ここにいる全員を斬り伏せて勝手に探しに行こうという考えが頭を過った。腐った国の腐った男の声なんてこれ以上聞いていられない。今にも耳がもげ落ちてしまいそうだ。幸い、デザート・スコーピオンの男も眼に殺意の赤い光を灯している。だったら殺されようがなにをされようが文句はないはずだ。
しかし、そこでウィンディーネの声が聞こえた。「おいエロ河童、こんなところで殺気立ってんじゃねえよ」と彼女は言った。「さっさとアタイについてきナ。トゥモンに会わせてやるぜ」
失念していたが、ウィンディーネもここを訪れていたのだ。待ち合わせ場所に戻ってきたのがガルヴィンだけだった時点で必然的にそうなるわけだが、トゥモンのことで頭がいっぱいになって気が回らなかった。
俺は彼女の言葉に従い、遠巻きで成り行きを見守る無辜の奴隷たちに向かって歩を進める。しかし二歩目か三歩目のあたりでデザート・スコーピオンの戦士ふたりが腰の鞘から曲剣を抜く。青い軌道はまだ見えていない。彼らは雇い主の指示がなければまともに動くことができないのだ。
「なあ、執事さんよお」とウィンディーネは口にする。「ついさっき、アタイはこの屋敷に客として招かれたんだ。だったら、そのアタイが人を招いても問題ねえよナ?」
バカによるバカ理論だが、今はそれがなによりも心地良く感じた。まるで正体のわからない様々な死骸が浮くドブ沼に、澄んだ清流が一気に流れ込んできたみたいだった。
また歩き出してもデザート・スコーピオンの戦士に指示が飛ばないところを見ると、ウィンディーネのバカ理論は的を射ていたのかもしれない。あるいはただ単に、執事の男が彼女の凄味に怖気づいただけかもしれない。だがなんにせよ、俺は不幸な奴隷たちのあいだを抜けて、すでに絢爛な廊下を進むウィンディーネの背中を追いかけた。しばしの滞在だけなら許可しよう、とすぐにうしろから聞こえてきたが、返事をする気にはどうしてもなれなかった。
*
思った以上に衰弱している――それが、ベッドに横たわって眠るトゥモンを見た最初の印象だった。頬は痩せこけ、唇は潤いを欠き、日焼けした褐色肌からは血の気が完全に失せている。か細い腕が、狭く窮屈なベッドから飛び出し、しだれ柳のように力なく垂れ下がっていた。その先には、骨張った小さな指が四本しかついていない。彼は前に、両手の小指を俺に捧げてしまったのだ。ただ一片のチョコレートを恵んでもらうために……。
『奴隷はお願い事をするとき、小指を差し出さなければなりません。相手が三親方なら一本、他人様なら二本と決められております』、と蛙のようなトゥモンの親方は俺に言った。あのときの言葉が、呪詛のように俺の耳のなかを渦巻いて離れようとしない。もしかしたら、あれが原因でトゥモンは病を得てしまったのではないだろうか。東の砂漠の汚染やら三親方への不義理やらではなく、もっと現実的な破傷風のようなものに罹ってしまったのではないだろうか。あのときの処置は完璧だったのだろうか。俺はもっとトゥモンの身体を気遣い、無理やりにでも連れ帰るべきではなかったのだろうか……。
色々な想いが、蝋燭を中心に回る走馬灯のように頭のなかを駆け巡った。しかしどれもこれも、行き着く先は自分への重い責苦だけだった。俺はやっぱり、女神リア像の破壊なんて生易しいことではなく、トゥモンの三親方を殺して彼を解放するべきだったのではないだろうか……。
嫌悪感に圧し潰されそうだ。自分をこんなにも許せなかったことなんて今までにない。全部アリスが正しかったのだ。自らを担保に吸血鬼から金を借りてでも奴隷に自由を与えようとした、あのバカのほうが……。
そのとき、小さな手が椅子に座る俺のふとももに触れた。トゥモンが目覚めたわけではなく、かと言ってウィンディーネの手のひらでもなかった。気づけば、俺たちのほかにもう一人男の子が部屋におり、俺の隣に立っていた。銀色の髪、水色の綺麗な瞳。おそらくトゥモンの弟で、ずっとベッドの向こう側に腰を下ろして見えなかったのだろう。トゥモンから聞いていたとおり、薄暗がりのなかでも病弱そうに見えてしまう。年齢はたしか六歳とか言っていたはずだ。
「ソウじゃ、ない」と彼は小さな手で俺に触れたまま口にした。「だから、あまり、ジブンを責めないで」
不思議な物言いをする男の子だ。口調にも少し変わった癖がある。もしかしたら、俺の心を読んだのだろうか。ルナやリアや最始の魔女ならいざ知らず、普通の少年にそんなことが可能なのだろうか。
「ニイちゃん、すぐに、メを覚ます」と男の子は言った。やがてトゥモンの目が開き、遥か彼方に置き忘れた夢を俯瞰するように、俺のことを見つめた。
「ああ……ウキキさん、来て……くれたんです……ね」と少年は言った。




