474 これが最初で最後に
リアはもうそれ以上、最始の魔女ピーリカについて何も話さなかった。『ルナもしっている。でもよくないことしかおぼえていない。だからショックがおおきくてあんなふうになってしまった。ほんとうは、ルナはやさしかったあのヒトのことをちゃんとおぼえている。ただちょっとわすれているだけ』とリアは言っていた。つい数十秒ほど前のことだ。それなのに、もうまったくべつのことを考えているような顔で――あるいは何も考えていなような顔で――俺の作業を見つめていた。言葉の暗示的な響きの残滓も、もう彼女の幼い唇からは失われていた。
この機会に質問を重ねるべきだろうか? たとえば最始の魔女ピーリカとの関係性だとか、なぜ彼女が大魔導士アリューシャを名乗っているかなど、訊くべきことはたくさんある。だいたいが、ピーリカは現代を生きる月の民の末裔を自称しておきながら、本当はこの惑星の先史時代の人々や十二柱の神々を創造した五人の魔女のなかの一人だったのだ。まだまだ俺やアリスが知らなくてはならない真実が山ほどあるように思える。
しかし、おそらくもうこれ以上訊いてもリアは何も答えないだろう。この小さな月の女神は話すべき事柄と話すべきではない事柄を明確に線引きしている。まるで舞台の袖で観客に物語の理解を促す狂言回しのように。いや、それはなにもリアだけに限った話ではない。大魔導士アリューシャ様――最始の魔女ピーリカ――だって同じだ。俺は彼女たちから部分的な細かいピースを受け取り、そのたびに形を変えていくパズルの完成図を朧気に想像することしかできないのだ。
漫画の翻訳を始めてから一時間ほど経つと、そこでようやく一巻分の作業が終了した。思ったより時間がかかってしまったが、リアは不満を漏らさず忍耐強く座布団に座って待っていた。彼女は黙ってじっと漫画の表紙に目を注ぎながら俺の手から受け取ると、「ありがとう」と言ってまた最初のページから読み始めた。
俺は一巻以降の翻訳もあとでやってやるよと約束し、布団をきちんとたたんでから和室の休憩室を後にした。それから薄暗いバックヤードを抜け、ガルヴィンのいるショッピングモール二階の西側のテナントに向かった。
途中で何名かの元村人の老人たちと朝の挨拶を交わしながら歩き、俺は昨夜の出来事を頭に思い浮かべた。ガルヴィンは初恋相手のザイルにその想いを利用され、まんまと精霊王の力を奪われてしまった。だがルナの予測によると、その力の半分近くは残されているということだ。その件をなるべく早く彼女に伝え、確認しなければならない。精神的に深く傷つけられてしまったうえに気絶までさせられたことはもちろん心配だが、俺たちにはあと二十二日しか残されていないのだ。
ガルヴィンはもともと雑貨屋だったテナントの隅にひとりで寝かされていた。同じくザイルから傷を負わされたチルフィーたち四大精霊もここに運ばれたはずだが、もう姿はなかった。きっと快復して朝食を食べにジャオンのフードコートに向かったのだろう。チルフィーやサラマンダーやノームはともかく、ウィンディーネがここにいないのは好都合だった。あのバカがいたら、きっと話がややこしてくなっていたはずだ。
ガルヴィンはベッドの上で布団を首元までかけ、姿勢よく仰向けに眠っていた。つい何時間か前に淡い恋心を損なわれたようには見えない、十二歳の少女のあどけない寝顔だった。泣いたあとも見当たらない。伸び放題の赤髪が、まるで群生する彼岸花のように枕の上から下まで広がっていた。
俺は近くにあったパイプ椅子を彼女のベッドの隣まで持ってきて、そこに静かに腰掛けた。「今から言うことは、あくまで月の女神ルナの代弁だ」と俺は言った。
「だからできるだけ気軽に聞いてほしい。俺としては、なるべくお前に焦ってほしくないんだ。って言うのも……お前にはおよそ半分の精霊王の力が残されてるらしい。ほら、ザイルが背中に生やした羽は片翼だったろ? それが根拠みたいだ。ルナが目にしたことのある精霊王――たとえばオーベロンもティターニアも、普通に両翼だったらしい」
ガルヴィンは何も言わなかった。まだ眠っている設定を崩したくはないみたいだ。
「お前がめちゃくちゃ傷ついてることはわかってる。世界の命運を乗せるには、まだまだほんの小さな肩でしかないこともわかってる。だけど、俺たちはもうお前のなかに残った精霊王の力に頼るしかないんだ。それでこの惑星に人間の底力を示してほしい。自浄作用ガーゴイルの発動を考え直せと、もし必要ならぶん殴ってでもわからせてほしい」
静かな朝だった。そして静かなショッピングモールだった。アリスはどこにいるのだろう? リアはもう一巻の真ん中ぐらいまでは読んでしまっただろうか? そしてルナはここより雑音の少ないあの紅い四の月の静謐のなかで、いまごろ身を悶えて苦しんでいるのだろうか?
やがて、ガルヴィンの薄い唇がかすかに上下した。目はまだつぶったままだった。
「ねえ、お兄ちゃんって、眠ってる人間に話しかける趣味でもあるの?」
「いや、起きてる人間に話しかける趣味しかないよ」と俺は言った。「もし次に狸寝入りを決め込むなら、自分の超がつくほどの寝相の悪さも考慮しとけ」
ガルヴィンは目を開け、ゆっくりとベッドの上で上半身を起こした。「そっか、なら覚えておくよ」と彼女は言った。
身体は痛むか? と訊くと、彼女は何度か首を振った。腹は空いているか? という質問も同様だった。そこで俺はなんとなく口をつぐみ、天井を見上げた。どこの天井も似たようなものだった。知ってるか知らないか、たったそれだけのほんの些細な違いだ。
「失恋した心がどうなってるか、次はそれを訊くべきだったんじゃない?」と少しするとガルヴィンは言った。どうなってるんだ? と俺は彼女に合わせて訊ねてみた。しかし、ガルヴィンは何も言わずに、俺の顔を真剣な眼差しで見つめた。
「ねえ、お兄ちゃん。いつか髪を切ってくれるって約束だったよね」と質問の答えの代わりに彼女は言った。「いまからでいいかな?」
ああ、もちろん、と俺は言った。このテナントの五軒隣りが床屋だったはずだ。そこはいじってないとアリスは前に言っていた気がする。俺の散髪の腕前を知ってるので、アリス王国の国民のためにそのまま残してあるのだ。
靴を履いてベッドから立つとき多少ふらついたので、俺はガルヴィンの身体を支えてやった。手を貸したのはそれで最後だった。身体的にも精神的にも傷ついているはずなのに、彼女はしっかりとした足取りで床屋の戸を開け、大きな鏡の前のスタイリングチェアに腰を下ろした。
「どんな感じにするんだ?」と訊くと、ガルヴィンは難しい顔をして肩をすぼめた。
「よくわからないや。お兄ちゃんの好きな感じにしてよ」と彼女は言った。
俺は頷いてからカットクロスで彼女の身体を覆い、スプレーで生い茂る夏場の草むらのような髪の毛を濡らして、根気強くクシで梳かしていった。それから仕上がりを頭のなかに思い描き、全体を分割して部分的にクリップで留めて、トップから大胆にハサミを入れていった。
「なんとなくわかってたよ」とガルヴィンは鏡越しの俺に向かって口にした。「精霊王の力が、半分ぐらいボクのなかに留まってるって」
そっか、と俺は言った。トップをおおかた切り終わると、今度は襟足に取りかかった。全体的な長さに関わる、とても大切な部分だ。
「たぶん、生やそうと思えば生えるよ。片翼なら。いまちょっとやってみる?」
いまはやめろ、と俺は言った。後ろ髪に満足すると、一度クリップを外してバランスを確かめ、再度クリップで纏めてから次にサイドヘアーを丁寧にカットしていった。素人散髪で一番難しいのはここだ。俺は一度だけ姉の髪の毛で失敗し、罰としてモンハンのセーブデータを消されたことがある。美容院代をケチるために俺に切らせておきながら、なんて酷い姉だろう。
ガルヴィンは鏡のなかで短くなっていく自分の真っ赤な髪を見つめていた。もちろんこのヘアーカットには彼女なりの意味が込められているのだろう。いつしか、鏡に映るガルヴィンの目からは涙が流れていた。カットクロスに阻まれ、いまは自分の手で拭うことはできない。
「失恋って、けっこう悲しいものなんだね」としばらくすると彼女は言った。「もちろん初めて知ったよ。うん、これが最初で最後にしたいな。ねえ、お兄ちゃん。ザイルはいつからボクの想いに気づいてたのかな?」
どうだろうな、と俺は言った。ガルヴィンはそれから目をつむったが、それでも溢れる涙を堰き止めることはできなかった。




