472 希望のある話
ルナの頭を撫で、彼女の小さな身体をそっと抱きしめる。こんな簡単なことが、夢の中でしかしてやれない。現実の俺は巨大な惑星の隅っこにおり、現実の彼女はこの小さな紅い月の中央に永遠に囚われている。俺たちのあいだには途方もない距離があり、実際的な真空の闇がある。誰もそれを越えることはできない。
どれくらい長く抱擁していただろう? やがてルナは小さな声で「もういいわ」と囁くように言い、俺の腕の中からすっと離れた。幼い頬を少しだけ紅潮させている。ふわっと乱れた銀色の長い髪を手櫛で軽く整える。それからなにも言わず、しばらくのあいだ俺の顔をじっと見つめる。
「このまえ私はこう言った。『全部終わったら、また頭を撫でてもらうわ』……、たしか、こんなことを」とルナは言った。「けれど、今はまだなにも終わっていない。それなのに、あなたに頭を撫でられてしまった。駄目よね、神が自分で口にしたことを守れないなんて。そうしてほしくてあなたの夢の中に入って来たわけではないのだけれど」
「いいじゃないか、べつに終わったあとだけじゃなくても」と俺は言った。「俺は撫でられるときにお前の頭を撫でるよ。だって、自縄自縛に陥るなんてつまらないだろ?」
ルナはふっと口許だけで笑った。
「自縄自縛」と彼女はその言葉の意味を推し量るように反復した。「あまり関心しないわね。実際にこの四の月で自分を縄で縛って磔にしている私に、そんな表現を用いるなんて」
そうだな、と俺は言った。それからまたじっくりと時間をかけて彼女の頭を撫でまわした。
遠くのほうで、死者が群れになって歩いているのが見えた。彼らは――あるいは彼女らは――赤茶けた灰が降る荒野を黙々と進んでいき、崖の頂上まで伸びる長い列に静かに加わった。あそこからてっぺんまでは、あとどれくらい時間がかかるのだろう? 飛び降りることによって甦りを果たすことになるあの死者たちは、俺やアリスのいる惑星のいったいどこら辺を歩くことになるのだろう?
「あと二十二日よ」としばらくするとルナは口を開いた。「それが確認したかったこと。二十三日目になったら――」
そこで俺は無理やり話を遮り、引き継いだ。こんなことを、何度も何度も彼女の口から語らせるわけにはいかない。
「――この紅い月を、俺たちのいる惑星に落とす」と俺は言った。「そうすれば、惑星の自浄作用ガーゴイルにお前の妹が焼かれる前に、言わば自分の手で一緒に命を終わらせることができる」
「そういうこと」と彼女は言った。
「大丈夫だ、任せてくれ」と俺は言った。「絶対にそんなことはさせない。デウス・エクス・マキナ――機械仕掛けの神なんていないのもわかってる。そんな都合のいい存在なんかなくても、俺とアリスは仲間と協力して、お前もリアも救ってみせるよ」
「そうね、私もそう信じているわ」とルナは言った。「だからこそ、現実的な話をしなくてはならない。実際にあなたたちが今置かれている状況について」
それについて俺は考える。この惑星に自浄作用ガーゴイルを発動させないために、俺たちはこれまで動いていた。最初にルナから提示された猶予は四十七日間だったので、すでにそのうちの二十五日を費やしてしまったことになる。それでやっと精霊王を誕生させたのだが、その力をまんまとザイルに奪われてしまったのだから笑えない。
つまり現実的な話となると、俺がルナに大見得を切ったことを実現させるには、精霊王になったザイルをなんとしてでも味方に引き込み、この惑星にその力を示させる必要がある。ガルヴィンの恋心を利用したあの男を許すことはできないと言ったそばから、俺はあいつを頼らなくてはならないのだ……。
「そうとも限らない」とルナは俺の思考を読んだかのように言った。いや、たぶん本当に読んでいるのだろう。なんせここは夢の世界であり、彼女は女神なのだから。
「そうとも限らない?」
「ええ」とルナは言った。「あなたは変に思わなかったのかしら? ザイルの純白の翼が一対ではなかったことを」
ザイルの純白の翼が一対ではなかった、と俺は思った。つまり片側しか生やしていなかったということだ。
「ピンと来ないようね。まあ、これまでにほかの精霊王を見たことがないのだから、それも無理はないかもしれないと言っておくわ」とルナは言った。「私が目にしたことのある精霊王はそう多くない。けれど、この紅い四の月からリアの目を通して観た彼らは、どれも背中に両翼を拵えていた。オーベロンとティターニアだってもちろんそうだった。あんな中途半端な片翼なんて、これまで見たことがない」
また一人の死者が甦りの行列に加わっていた。あの大勢の列のなかに、俺がこれまで葬った死ビトが混じってたりするのだろうか? そんなことをふと考えたが、目を凝らして探す気にはならなかった。もし見つけたとしても、きっとやるせない気持ちになるだけだ。
俺は言った。「要するに……どういうことだ?」
ルナは呆れるように唇を軽くすぼめた。
「要するに、ザイルはガルヴィンからおよそ半分の力しか奪えなかったということ」と彼女は言った。「あるいは奪えなかったのではなく、奪わなかったと言うほうが正しいのかもしれない。それは私にはわからない。けれどいずれにせよ、ガルヴィンにはザイルと同等の精霊王の力が残されていると思うわ」
俺はなにも言わずに、ルナの頭に落ちた赤茶色の灰をつまんで捨ててやった。まるでそこらの灰のような手触りだった。灰に対して灰のようなと比喩することは間違っているかもしれないが、とにかく灰のような感触なのだ。
「あら、あなたも人が悪いわね」と少ししてからルナは言った。「どういうことだ? なんて訊いておきながら、ほとんどわかっていたみたいじゃない」
「まあな」と俺は言った。「お前の話を聞いてるうちに、そんなことだろうなとは思ったよ。でもそう答えて違うと言われたらショックだろ? だから、少しでも希望のある話は、ルナの口から聞きたかったんだ」
半分になったとはいえ、ガルヴィンのなかには精霊王の力が残されている。それでなんとかなるかもしれない。いや、それでなんとかするしかない。ガルヴィンに頑張ってもらって、この惑星に人の持つ力だけで最後の飛来種に対抗できると知ってもらうのだ。だから、ガーゴイルなんて発動する必要はないのだと。
「もうすぐ、あなたの夢が覚めるころね」とルナは言った。「その前に、リアのことを聞かせてほしい。私はこのところ、あの子を目で追う余裕がないの。私の妹はあなたたちニンゲンのなかで、なにをして過ごしているのかしら?」
また彼女の銀色の髪に灰が降りたので、俺は頷きながらそれを手で払った。それからリアについていくつかのエピソードを抜粋して話してやった。よく窓のわきに椅子を置いて、ルナのいる四の月を見上げていること。俺とチルフィーの逃亡劇のさなかに、さりげなく食料を用意してくれていたこと。最近ショッピングモールで何事かに忙しくしているらしいこと。自分の名を冠した女神像がどれも大人の姿で模られており、その豊満なボディーラインをすごく不思議そうに眺めていたこと。
ルナはリアの話を嬉しそうに聞いていた。相槌は一切なかったが、ときおり口許を優しくほころばせ、物語のなかの妹を慈しむように小さく頷いていた。
「思っていたより、ニンゲンの世界に馴染んでいるのね」と彼女は俺の話が終わると、不器用な笑顔の成りかけを表情に広げて言った。
「ああ、お前が心配するようなことはないみたいだぞ」と俺は言った。彼女は妹が人間のなかで孤独を感じ、いつか排除されることを憂慮しているのだ。なので、月の女神だとは明かさないほうがいいと、前に俺に忠告してくれた。それは一応いまのところ守られているのだが、当の本人が相手によっては明け透けに女神だと名乗っている。まるで、そうすることでなんらかの均衡が保たれるのだと言わんばかりに。
「ああ、そういえば、俺もお前に訊きたいことがあったんだ」としばらくしてから俺は言った。
それからすぐに、俺は後悔することになった。もし時間を巻き戻せるなら、なにげなく質問したあの内容を全部取り消してしまいたい。しかし残念ながら、人はいつだってなにかをやり直すことはできないのだ……。
「お前、アリューシャ様って知ってるか? ルナやリアと同じ銀髪で、本人は月の民の末裔だって言ってるんだけど。顔も結構似てるし、どうもお前らと無関係だとは思えないんだ」
「アリューシャ? さあ、聞いたことがないわね」とルナは言った。
「ああ、そうか、あれは偽名だったな」と俺は言った。「本当の名前は、最始の魔女ピーリカだ。……どうだ、知らないか?」
その瞬間、ルナの全身が動きをぴたりと止めた。顔が引きつり、瞳孔が一気に広がっていき、表情がまるで無地の絹織物を貼りつけたように失われてしまった。
「ピーリカ――」とルナは溜まった息を外に押し出すように呟いた。それからほどなくして、彼女の意識が途絶えた。




