470 簒奪の力
「夢はまだ続いていく」とルナは言った。双子の月の女神の姉のほうだ。こいつはこうしてたびたび俺の夢のなかに入って来ては、なにか重要なことを告げていく。まるでプレゼントの代わりに秘密の指令書を枕元に忍ばせる、ちょっと迷惑な真夜中のサンタクロースのように。
幼いながらに美しい顔立ち。そして蠱惑的な緋色の瞳と、綺麗に輝く銀色の髪。妹のリアがショートへアーなのに対して、姉のルナの銀髪は足元まで伸びている。顔の造りは双子だけあって見分けるのが難しいほどそっくりだ。しかしそこに浮かばせる表情の種類はまるで異なっている。リアはいつだってほとんど無表情だが、こいつは人並み以上の面持ちを携えている。もちろんそのなかには、俺を――俺を含む異世界のすべての命を――殺すと予言したあのときの冷酷な表情も含まれている。
「夢はまだ続いていく」とルナは繰り返した。そう、夢はまだ続いていく。ガルヴィンが深く傷つけられる瞬間がもうすぐやってくる……。
追憶の夢のなかで、俺もアリスも為す術もなく床に蹲っていた。四大精霊もザイルのセブンス・センス――認識阻害に苦しめられている。ガルヴィンだけが、会議室の中央でザイルと互角に向かい合っている。ザイルの手はいつでも爆破する覚悟とともに、虹色のパルケルススに伸ばされている。
「なにをするつもり?」とガルヴィンはザイルに訊ねる。その声は少しだけ震えている。
「これまでは大人しく従っていたが、茶番はもうまっぴらごめんだ」とザイルは言う。「精霊の始祖たるパルケルススをここで殺め、その力を奪わせてもらう。そして、おれがお前に代わって精霊王の座に就く」
「力を奪うって……そんなことが本当にできるの?」と少女は言う。その目は悲しみに侵されている。そう、彼女は悲しいのだ。自分が初めて好きになった大精霊士の男が、よりにもよって精霊の敵に回ってしまったことが。
「できるんじゃないかな、真面目な話」とホワイトが無関係な第三者のように口にする。「ガルヴィンちゃんだってウキキ君と一緒に観ただろ? あの、黒鎧のデュラハンの世界でさ」
現実に起こっていたときは何が何やらさっぱりだったが、こうして再現された夢の世界を俯瞰すると、ホワイトの言いたいことが手に取るようにわかった。黒鎧のデュラハンの世界で目にした、白髪の男の第四代皇帝暗殺。そして、それを実行したことで就くことのできた、第五代皇帝の座。ザイルはもちろん、その白髪の第五代皇帝の直系にあたる。ならば、彼にだって同じような力が具わっていてもおかしくはない。そう――簒奪の力が。
いや、予想や可能性を今こうして考えても仕方がない。なぜなら、どうあれ実際にザイルは精霊王の力を奪ってしまったのだから。ただし、その簒奪の力を使った相手は、パルケルススではなかった。
「だめだよ、そんなことはさせられない」と夢のなかでガルヴィンは言った。抵抗の意志をはっきりと示すように、ザイルに向かって両手を突き出して構えた。
ザイルはふっと口元で笑う。そこには師弟愛を含んだ多少なりの温もりも存在していなかった。ただ弱く憐れな他人に対する嘲笑でしかなかった。おそらく、ガルヴィンはそのことを見取ってしまったのだろう。彼女は寂しそうに少しのあいだ目をつぶった。
しかし、その目が次に開かれたとき、もうそこに迷いはなかった。ボクの想いはきっと届かない、たぶんずっと気付いてすらもらえない、と追憶の夢のなかの少女はふたたび目の奥で語った。だったらせめて、精霊士として成長したボクをちゃんと見てほしい。恋人になりたいなんて思わない。だけど、他人にだけは絶対になりたくない……!
ガルヴィンの両腕が凄まじい炎に包まれる。彼女はパルケルススの創り出した心象風景と概念的な肉体の世界だけではなく、この現実世界でもザイルに精霊魔法を放つ決意を持ったのだ。もしもザイルが俺と同じ獣の眼を有していたら、彼女の殺意の赤い光を目にしていたことだろう。ガルヴィンにとって殺す覚悟でザイルに立ち向かうことは、おそらく自分の存在証明にも等しい行為なのだ。
だが、ガルヴィンの炎は手のひらに収束して撃ち出される前に、ふっと風に吹かれる蝋燭の火のように消えてしまった。もうそこに業火は生み出せない。いや……炎だけではなく、ほかの精霊魔法も。
「弱き者、ガルヴィン」とザイルは感情の籠らない低い声で言った。「無駄だとなぜわからない? 誰の前だと思っている?」
その光景を見ながら、ルナは俺の隣で口を開いた。「位階の縛りね。精霊を中心とした円環に内包される以上、上からの許可が下りないと精霊魔法を駆使できない。大精霊士のこの男が、精霊士の彼女からそれを取り消したのね?」
ああ、そんなところだよ、と俺はルナに言った。しかしそれで終わりではなかった。虹色のパルケルススを眩い光が包み込んだのだ。ザイルはなにか予想し得ないことが巻き起こると感知し、その光の内部で迷いなく爆破を試みる。会議室が爆発の衝撃で大きく揺れる。だがそこにはもうパルケルススの姿はなかった。精霊の始祖は虹色に輝く大きな光となり、ガルヴィンの身体と同化していた。
「おやおや、これはちょっとまずいんじゃないかな」とホワイトはザイルの耳元で口にした。「だって真面目な話、これってそういうことじゃないのかい?」
「お前は黙っていろ」とザイルは釘を刺すようにホワイトに言った。それから躊躇なくガルヴィンに向けて手のひらの照準を合わせた。
「ガルヴィン、それはお前には過ぎた力だ。今すぐ破棄しろ。でなければ、おれが無理やり奪い取ることになる」
ガルヴィンはなにも言わない。静かに虹色の光に身をゆだねている。それが自分のなかに収まろうが、また外に出ていこうが、少しも気にかけていない。どうなろうがすべての精霊の想いを受け入れようと、発光する自分の両手を柔らかい眼差しで見つめている。
「ガルヴィン、おれの声を聞け」とザイルは言う。「警告はこれで最後だ。いいか、その力をすぐに破棄しろ。拒否するなら、おれはお前を殺さなければならない」
ガルヴィンはそこで初めてザイルに顔ごと目を向ける。それからゆっくりと首を振る。悲しそうな顔をしている。十二歳の少女が淡い恋心を抱く相手から、よりにもよって殺害を予告されたのだ。悲しくないわけがない。
舌打ちの音が聞こえる。もちろんザイルの舌が打った音だ。今にして思えば、それが師匠から弟子への絶縁状だったのだろう。ガルヴィンを狙って発動されようとしている精霊魔法からは、もうあらゆる気遣いが失せていた。先ほどまでの意識して弱めたであろうものとは何もかも違っている。彼がその手に帯びた炎は、青く燃え盛る火焔だった。人間も死ビトも怪物も分け隔てなく焼き尽くす、この世でもっとも冷たい炎だ。
「ならばここで死ね。惜しいとは思わん――もはやな」
悲しい顔をしている。かといって、彼女は絶対に泣き出したりはしない。泣くことを許されない環境に生まれ、泣きかたを知らずに育ってしまった。しかし屍教という狭い檻のなかで、少女は青年と出会った。精霊士としての才能を見出され、彼から多くのことを学び長い時間をともに過ごした。いつしか、その小さな胸の奥に恋心が芽生えていた。少女はそんなものの扱いかたがわからず、そっと密やかに胸のひとところにしまっておいた。今では胸から飛び出してしまうほど大きく育っていた。
ザイルは青き炎の精霊魔法を少女に向かって撃ち放つ――が、それはガルヴィンには届かない。放たれる寸前で泡のように消失する。まるで先ほどの場面の繰り返しのように。
「誰の前だと思ってるの?」とガルヴィンはザイルに言う。もう虹色の光は彼女の内奥にしっかりと宿っている。「精霊王の御前だよ。もう、あなたに精霊の声は聴こえない」
ルナは言った。「あら、精霊王の見えない力で無理やり跪かせちゃったわね。形勢逆転、といったところ?」、幼い月の女神は俺の顔を見てから続けた。「でも、あなたのその表情はさらなる展開を物語っているわね。ということは、ここからまたひっくり返るのかしら?」
ひっくり返る、と俺は思う。たしかにそのとおりだ。精霊王となったガルヴィンの前では、ザイルはもう駒ごと盤上をひっくり返しでもしない限り、この状況を打破できない。しかし、この男はそれを事も無げにやり遂げてしまう。そういう星の下に産まれた人間なのだ。用いられたのは、たったわずかな言葉だった……。
「ガルヴィン、おれはお前の気持ちに、いつか答えるつもりでいる」
誰も考えもしない一言だった。それは間違いなくザイルの口から発せられた。ガルヴィンの思考が停止するのも無理はない。顔が見るみるうちに赤くなっていく。そう、ザイルは最初からすべてわかっていたのだ。ずっと自分を見つめていた眼差しの意味も、少女の胸のなかの儚い想いも……。
その瞬間、彼らは大精霊士と精霊王の関係ではなく、一組の男と女に成り代わる。ガルヴィンはまだ真っ赤な顔をして立ちすくんでいる。その隙を、ザイルが見逃すはずがなかった。ガルヴィンの胸に手をあて、そこで簒奪の力を集中させる。そして精霊王の力を奪い取り、身動きができないまま倒れ込んだ少女を見下ろす。
ザイルは言う。「弱き者、汝の名は女」
この世で一番やってはいけない行為を、この男は遂行してしまったのだ。なあザイル、だってそうだろ? 少女の淡い恋心を利用するなんてことは、この世で一番やっちゃいけないことだろ?
俺はもうあいつを許せそうになかった。俺はもうあんたを許せそうにないよ、と夢のなかのザイルに向かって小さな声で投げかける。




