458 滑らかな口
飛空艇でシャワーを浴び、ラウンジで夕食を採る。食事のさなか、アリスから発表された今後の予定を聞き、冒険手帳に概要をまとめる。食後のワインを楽しむアナと話をしながら、一杯だけ付き合う。俺の部屋のベッドで先に寝ているチルフィーに、ハンカチ程度の大きさの毛布を掛けてやる。
それが、死霊の澱みを掃ってからザイルの部屋のドアをノックするまでに、俺がこなした行動のほとんどすべてだった。時間は二十三時を少しまわっており、飛空艇は静かに夜の空を西に向けて飛んでいる。明日の昼頃にはショッピングモールに到着するだろう。
最初のノックからしばらく待ったが、返事は聞こえてこなかった。それから続けて二度三度ドアを叩くと、カチャリと鍵を開ける音が向こう側で響いた。ドアノブを回し、扉をゆっくりと開ける。そこには白い影が立っていた。
「やあ、ウキキ君」とそいつは言った。顔もなければ口もないが、どこからか声が聞こえるのだ。それは古いラジオから漏れる音とどこか似ていた。ホワイト、これがこの飛来種にザイルが与えた名前だ。
「ザイルなら、ほら、あのとおり眠っているよ。どうしたんだい、こんな夜更けに一人だけで尋ねて?」
ホワイトは燻ぶった焚火から昇る煙のような形をしている。足元からその煙を辿っていくと、奥のベッドで横になっているザイルの姿がある。ホワイトは彼の身体に憑りついているのだ。いや、この飛来種の言葉を借りるなら、『共存』しているのだ。
「起きそうもないか?」と俺は壁側に顔を向けるザイルの後頭部の辺りを見ながら訊ねた。「ちょっとあいつに話があったんだけど」
「それはちょっとわからないな。だって真面目な話、ぼくはオオムカデとは違うからね。ほら、ハバキ村のミカゲ君の頭のなかに寄生する、あの醜い飛来種のことだよ。ぼくはザイルの脳と直結しているわけじゃないからね。おや、それなら明日の朝にまた出直すだって? 嫌だなウキキ君、それはちょっとつれないんじゃないかい? せっかく久々に外に出たんだから、もう少し喋っていこうよ。いや、本当の話、ぼくは君と大いに語り明かしてみたかったんだ。それに、君だってぼくに訊くことがないわけじゃないだろう? 違うかい?」
それならばと、俺はドアを後ろ手に閉めて、部屋の隅にある椅子に腰を下ろした。たしかに話がないわけじゃない。あるいは、ザイルよりもこいつのほうが、彼の心情について語る滑らかな口を持っているかもしれない。
「真面目な話、わかるよ。黒鎧のデュラハンの世界で、ザイルがなにを考えなにを思ったかってことだろう? ウキキ君が聞きたいのはさ。けれどもさっき言ったとおり、ぼくはザイルの思考を読み取れるわけじゃない。だから憶測になってしまう部分が多々あると思う。その点は留意しておいてもらいたいな、実際の話さ」
それでもいいよ、と俺は言った。きっと誰よりも連れ添った時間が長いのだから、ホワイトの意見は十分参考になるだろう。
「それじゃあマジな話、単刀直入に言ってしまおう。黒鎧のデュラハンの世界で、人の軍勢は死ビトの大群に敗れた。それは何名かの躊躇が原因だった。死ビトの姿や身に着けているもの、そして所作なんかが、亡くなった大事な誰かと重なってしまったんだ。そして、ザイルは『人々の持つ親しい誰かの記憶こそが、死ビトに敗れる致命的な要因』だとあらためて理解した。そう、本当の話、あまりにも理解してしまったんだ。そのときに彼の頭に真っ先に浮かんだものはなにか? それはきっと、『ならば、人々からその記憶を無くしてしまえばいい』みたいなことじゃないかな。おや、ウキキ君、あんまり驚かないみたいだね? 君のことだから、こんなことだろうとは思っていたんじゃないのかい?」
いや、そんなことは思ってもみなかった。しかし頭のどこかで、たぶん危険な思想を植え付けられてしまったんじゃないかなと予想はしていた。だからこそ、俺の心はあんなにもざわついていたのだ。今だからわかるが、目指す方向の違いから敵になり得るザイルに対して、俺の内奥に棲む幻獣たちがその熱を強めていたのだ……。
「そんなことが可能なのか、と君は問いたげだね。つまり、人々の部分的な記憶を消し去ってしまう、ってことがさ。いや、これは真面目な話だけど、精霊王になれば難なく実行できるんじゃないかな? だって考えてもみてよ、かつて二人の精霊王は(オーベロンとティターニアだったね)この惑星を壊滅する寸前まで追い込んでしまったんだよ? 争うことによってさ。精霊王にそれだけの力が具わっているなら、使いようによっては記憶を奪うなんて造作もないことじゃないかな。おっと、これはぼくの突飛な発想だけどね、実際の話」
そうかもしれないな、と俺は言った。
「そうかもしれないな、か。どうしたんだい、ウキキ君。今日はなんだか口数が少ないじゃないか。まあそうか、でも君はもともと聞き役にまわることのほうが多かったね。それじゃあ、遠慮せずに喋らせてもらうよ、実際の話さ。
ぼくが言いたいのは、そうそう、ガルヴィンだったかい? 精霊士の娘のことさ。ザイルは自分じゃなくて、彼女が精霊王になる可能性も残しているんだよ。ぼくなんていう飛来種を内包する自分のことを、どこかで自ら危険視しているわけだね。いつか利用されて、精霊王の力を悪用されるのではないか? ってさ。そんなことはないってぼくははっきり言えるけれど、ザイルは客観的に、そして俯瞰的に自分を見ているのさ。ぼくにとってはあまり面白いことじゃないけどね。
え? そんな気がしていただって? そうか、君は気づいていたんだね。いや、本当にウキキ君にはお手上げだよ。金獅子のカイルに勝るとも劣らない、慧眼をお持ちのようだね。なら、そのものを的確に見る目に敬意を表して、ひとつ口を滑らせてもらおうかな。
いや、真面目な話、精霊王になるために必要な認印のことさ。北の大魔導士アリューシャは(おっと、もう彼女の本当の名前は明かされているんだったね。ならぼくも、『最始の魔女ピーリカ』と呼ぶことにするよ)、ザイルだけではなく、内密にガルヴィンにも認印を付与しているよね。もしものときの保険としてさ。
そして、クラット皇子もウキキ君の計らいによって、同様の行為に及んでいる。つまり、可能性ではなく、ガルヴィンはれっきとした精霊王の候補者に据えられているってわけだ。おや、顔をしかめたね? どうしてそのことを知っているのかって? ああ、うっかり口を滑らせてしまったよ。いやもちろん、さっき言ったとおり、わざとだけどね。そして肝心なことは、ザイルもこの保険についてちゃんと承知しているってことさ。なんでって、ぼくが教えたからに決まっているだろう? さて、それじゃあ最後の言葉を持って、ぼくのお喋りを終わりにさせてもらおうかな。いや、君だってもうぼくの長広舌にはうんざりだろう? 本当の話さ」
窓が薄っすらと明るくなっていた。遠い地平線に新しい太陽が昇っていた。ホワイトの話を聞いているうちに、かなり時間が経過しているようだった。体感時間とかなりかけ離れているように思える。しかし、壁に掛けられている時計の針を見ていても、一秒は一秒のままのようだった。
「ザイルは自分じゃなくて、ガルヴィンが精霊王になる可能性も残している、とぼくはさっき君に言ったね?」とホワイトは言った。「これはもう過去の話さ。今のザイルの頭には、こんな考えは微塵もないよ。真面目な話、なにがなんでも精霊王の力を手に入れて、人々の持つ記憶に介入してやると心を決めている。必要なら、なにをやってでも、さ」
ホワイトはそれだけを言い残し、すっと吸い込まれるようにザイルのなかに帰っていった。しかし部屋が静かになっても、いつまでも不吉な声の響きが耳の奥にこびりついていた。




