452 黒鎧のデュラハンの世界
夜空のオーロラが大地を不思議な色合いに染めている。空気は冷たく、吸い込むと肺が軋むように疼く。城壁が目の前に高く聳えている。いくつもの馬の足跡や轍が、堅く閉ざした城門までまっすぐ伸びている。オーロラは無限に続くカーテンのように、どこまでも暗い空に拡がっている。
黒鎧のデュラハンの精神世界で最初に気づいたのは、このような些細な情景だった。しかしこれだけでもいくつかの事柄を突き止めることはできた。まず天と地がはっきりと区別されていることから、この精神世界はそれほど深層ではないことがわかる。どこかの城塞のようだが、見た感じ物理法則も狂ってはいないようだ。だとすると、それほど悲観する状況でもないのかもしれない。もっともガルヴィンとザイルを巻き込んでしまったので、その責任を感じないわけにはいかなかったが。
「これは……どういうこと?」とガルヴィンは見渡せる限りの風景を見渡しながら言った。「ここって現実じゃないよね? お兄ちゃん、何か知ってるの?」
「ああ、俺たちは黒鎧のデュラハンの意志に飲み込まれたんだ。ここはあいつの精神世界……黒鎧のデュラハンの世界ってわけだ」
「どうやら初めてではないようだな」とザイルは背中を向けたまま俺に言った。
「まあな……」と俺は言った。「追体験したアリシアの世界をべつにすれば、アリスの世界に次いでこれが二度目だ。……俺が赤い殺意や青い軌道を視ることができるのは知ってるだろ? それともう一つ、俺の獣の眼は黄金色の意志も視えちゃうんだ。だから……あんたたちが飲み込まれたのは俺のせいってわけだ。今のうちに謝っとく、巻き込んで悪かったな」
「黄金色の意志か……。それなら古い文献で目にしたことがある」とザイルは身体ごと振り返り言った。「この世には、世界の理を覆しかねないほどの強い意志を秘めた者がいる。それが黄金色の意志だと。……まさかそんなものが実現し、あまつさえデュラハンなんて化物が纏っているとはな」
「ついでに言うと、あんただって同じものを背中にしょい込んでるぞ」と俺は言った。ザイルの表情は大きく崩れなかったが、眉がぴくりと動いたのは見て取れた。
「おれの背にも、か……」とザイルは稲穂のように垂れる前髪を掻き上げて言った。こんな明かりのない薄暗い世界でも、彼の白髪は輝くように輪郭を際立たせている。オパルツァー帝国継承者は白に限る、と俺は頭のなかで復唱した。たしか、帝国の第五代皇帝が即位した際に標榜した典範だ。
「ねえ、そんなことより、早くこの世界から脱出したほうがいいんじゃないの?」とガルヴィンは言った。ことの早急さを説いたわりに、両腕を頭の後ろで組んで眠たそうにあくびをしている。
「ああ、そうだな。ずっといたら意志の世界に吸収されて、形を保てなくなるぞ。だんだん透明になって消えていくんだ」
「そしたら、外の世界に取り残された肉体はどうなるの? 死ぬってこと?」
「いや、生きてはいるはずだ。けど意識は永遠に戻らない」
「時間の流れは?」と彼女は素早く継いだ。頭の回転の速さを表す、とても良い質問だ。
「止まってるはずだ」と俺はしばらく考えてから言った。「少なくとも、アリスの世界のときはそうだった。だから意識の世界から帰還できれば、すでに黒鎧のデュラハンや紅衣のデュラハンに殺されてたって状況にはならないと思う」
100パーセントとは言い切れなかった。黄金色の意志がもたらすすべての世界が同じとは限らない。しかし、もし外の世界の時間が流れていたとしても、チルフィーがきっとなんとかしてくれるだろう。飲み込まれる直前にあいつを放り投げておいて良かった。咄嗟に取った行動だったが、悪くない判断だ。
だが、俺の杞憂は次の瞬間にかき消された。「大丈夫だす、そこはワテが保証するだす」と彼はどこからともなく姿を現して口にした。チェシャ猫だ。灰色がかった体毛が草原のように風に揺れている。三日月を逆さにしたような口から何本もの歯が覗き、エメラルドグリーンの瞳は妖しく光っていた。
「お前……またずっと俺にくっついてたのか……?」
「そうだす。猫様はいつだってピンチのときにそこにいるものだす」
「いや毎回そんなこと言うけど、お前結局大事な時にいなくなるよな。崩龍のときだって口だけだっただろ……」
「この層のゴールは城の地下だすな」とチェシャ猫は俺の苦情を無視して言った。「そこに次の層への入り口があるだす。その先が、外の世界に繋がる表層のようだす」
「そっか、じゃあやっぱり深層じゃなくて、かなり浅い階層だったみたいだな」と俺は言った。「運が良かったってことなのか?」
チェシャ猫はその問いに答えなかった。地面で軽く伸びをして、それから俺の肩に飛び乗った。「急いだほうがいいのは確かだす。さあ、早くその城門からなかに入るだす」
大きな門をくぐると、都市が目の前に拡がっていた。堅固な壁がその周りを何キロにも渡って囲んでいる。夜にもかかわらず、往来にはたくさんの人の姿があった。祭事かなにかの途中なのだろうか? 何組もの人々がテーブルで酒を飲み交わしており、陽気な声がそこかしこから聞こえてくる。中央に建設された舞台では賑やかな音楽が演奏されていた。リズムに合わせ、チェシャ猫は器用に髭を上下させている。
思わぬ風景に俺は立ちすくみ、うしろのガルヴィンをかえりみた。彼女は俺の視線に気づくと、何も言わずに首を振った。こいつも状況が飲み込めないみたいだ。
「城塞都市ミュンヘルン、か……。謝肉祭の真っ最中のようだな」とザイルは独り言つように呟いた。
「それってオパルツァー帝国の一部か?」と俺は訊ねた。するとザイルは何も言わずに頷いた。そうなると、ここは黒鎧のデュラハン――オパルツァー帝国第四代皇帝の時代の城塞都市ミュンヘルンなのだろうか?
「しかし、帝国領だったのも十年前までの話だ」と彼は煌びやかな情景に目を奪われたたまま口にした。「この都市はおれが十六のころに地図上から消滅した。なんの因果か、ちょうどこの光景と同じ謝肉祭の日だ。円卓の夜でも高い壁に護られている、そんな虚実性の安堵感に誰もが包まれていた。だが――北西の川沿いを伸びる壁が老朽化していた。それを知る左官も石工も補修を後回しにしていた。まだ当分のあいだは問題ないだろう、とな。だが壁は崩れた。そして死ビトの群れの侵入を許し、都市は瞬く間に地獄と化した。人々は逃げ惑う。訓練を受けた兵士が武器を投げ捨て、民を踏みつけ我勝ちに遁走する。死ビトに立ち向かおうとするのは、動けない幼子を背後に隠す母親だけだった。だが錯乱した群衆に飲まれ、小さな手が離れてしまう。次に母親が我が子を目にしたのは、死ビトの振る剣に腹を割かれたところだった。悲鳴を上げる間もなく、ほかの死ビトが彼女の心臓を槍で突いた」
フォーク・ギターの音色がゆっくりと夜を抜け、静かにピリオドを打った。次に手風琴の楽士が軽快な音楽を奏でると、人々は手を取り合いその場で踊り出した。
「まるで見てたかのような物言いだな」と俺はザイルに言った。「あんたはそのとき、ここにいたのか?」
ああ、と彼は言った。演奏に上塗りされてしまったが、少なくとも俺には言ったように聞こえた。彼は唇を噛みしめ、もう戻れない遠い過去を顧みるように目をつむっていた。ザイルのこんな表情を目にするのは、もちろんこれが初めてだ。
しばらくすると、ガルヴィンが静かに声を上げた。「ねえ、あれ……」と彼女は言った。人差し指がまっすぐに一方向を指している。その先にはザイルによく似た白髪の少年がいた。いや、似ているどころではない。それがかつてのザイル本人だということは、誰の目にも明らかだった。
ザイルは言葉を失ったまま立ち尽くしていた。ガルヴィンは彼のそばに立ち、慮るように彼を見上げていた。楽し気な音楽はいつまでも鳴り響いている。踊りの輪がどんどん大きくなっていた。
そう、ここは黒鎧のデュラハンの時代ではなく、今まさにザイルが語った十年前の城塞都市ミュンヘルンそのものだったのだ。虐殺は今にも始まろうとしていた。




