448 人を殺した召喚獣
シルフォニアの街外れに飛空艇が着陸したころには、もう夜が明けようとしていた。ケルベロスによって荒廃した街並みに冬暁の陽が射し込み、薄く弱々しい影を地面に落としている。街も人もまだ眠っているようだった。深く静かに眠り込み、小さな穴倉の傷付いたリスのように悲しみを癒していた。
ザイルは甲板に出ると、早々にアリスやアナやレリアを連れ立って臨時政府に赴いた。ザイルにとっては例え相手が国の中枢を担う連中とはいえ、眠っていようがなんだろうが関係がないみたいだ。何名かは迷惑そうに顔をしかめるかもしれないが、だがたしかにケルベロス討伐の報告は早ければ早いほどいいかもしれない。
アリスは自薦する前から同行を求められたことを得意げに(そしてウザったく)俺に自慢してきた。会談メンバーに選ばれた私とあなたの違いをよく考えておくことね! と言っていたのは覚えているが、他はほとんど聞いていなかったのでわからない。だがどこからか用意した貴族ふうのつばの広い帽子を被っていたのは映像の記憶として残っている。きっとバカなりに高貴に見えるよう努力したのだろう。
彼らが去ると、談話室はとたんに海の底のような静けさに包まれた。ソファーで眠るサラマンダーの寝息だけが聞こえていた。シャワーを浴びてきたらしいガルヴィンが部屋に入ってくると、濡れた髪のままサラマンダーを背負い、そしてちゃんとベッドで眠らせるために船員室に連れて行った。自分以外のことには気が回る奴なのだ。
「お兄ちゃんも少し眠ったら?」と談話室に戻ってくると、彼女は俺に声をかけた。長く真っ赤な髪の毛が生乾きになり、夏場の雑草の群れのように天を突き立てていた。
「ああ、そうするよ、実はめちゃくちゃ眠いんだ」と俺は言った。「でも、その前にちょっとやっておきたいことがある」
ザイルがこの国の為政者との会談にアリスたちを連れて行った理由は、もちろん対外的な側面が大きいのだろう。アナは辺境の国とはいえミドルノームの騎士だし、レリアはファングネイ王国の六代名家の一つ、パンプキンブレイブ家のご令嬢だ。アリスはまあ中身はともかく、外見がすこぶる良いのは否定しようもない。ケルベロス討伐の吉報をそんな人物らを引き連れてオパルツァー帝国第一継承者が持ってくるのだから、相手は媚びへつらうように迎合するほかないだろう。ザイルはそこでなんらかの条約を批准させ、いずれこのシルフォニアも帝国領にするつもりなのかもしれない。
だがこの飛空艇に俺とガルヴィンを残した理由はもう一つあるような気がした。それは自室に引き籠るクラット皇子が関係している。つまりザイルは自分がいないあいだに、クラット皇子を使ってガルヴィンに認印を付与しろと暗に言ってるのではないだろうか? 危うい自分の代役として、ガルヴィンにも精霊王の資格を与えておくために。
ガルヴィンにそのことを説明するかどうかで、俺は大いに悩んだ。というのは、アリューシャ様はそれを内密に行ったからだ。したがって、ガルヴィンは大魔導士からの認印が自分の手に施されていることをまだ知らない。それなら召喚士からの認印も同じように伏せておいたほうがいいのではないだろうか。
「なあガルヴィン、ちょっと一緒にクラット皇子の部屋に行かないか?」
逡巡の末に、俺はこいつには黙っておくことにした。たぶんそれを告げるべき時には、またアリューシャ様がアリューシャちゃん人形になってアリスのリュックから飛び出てくるだろう。傍らに置いてあるリュックはまだ沈黙を保っている。つまり、俺の配慮はいまのところ正しいということだ。たぶん。
ガルヴィンはとくに反対もせず俺についてきた。クラット皇子の部屋の前まで来ると、俺は彼女に少し待っているように言い、それから一人で扉をノックした。
三回目か四回目のノックで返事が聞こえてきた。起きているみたいだ。入るぞ、と伝え、俺は扉を小さく開いてなかに入り込んだ。扉を閉め、窓際まで歩いてカーテンを引き、薄暗い部屋に慎ましやかな冬の朝日を入れた。
「なんじゃウキキ」と彼はベッドに横になったまま俺に言った。「慰めにでも来たのか?」
俺は首を横に振った。「慰められたかったのか?」
「誰がじゃ、この阿呆めが……」とクラット皇子は精一杯の威厳じみたものを内包し口にした。
この少年は深く傷ついている。自分が『龍を宿せし者』ではなかったためにラウドゥルに捨てられ、そのうえほんの数時間前に地獄から舞い戻った先祖をその手で殺めたのだ。傷つくなというほうが無理な話だ。だけど、俺はどうしても安い言葉で彼を慰めてやろうという気にはなれなかった。たぶん、それは俺の役目ではない。
「ちょっと頼みがあるんだ。しばらく俺の言うとおりに動いてくれないか?」
ぐちぐちと文句を吐きながらも、彼は俺の頼みを聞いてくれた。きっと報酬にアリスの生写真をくれてやったのが決め手となったのだろう。入ってきたガルヴィンの手をそれとなく握らせ、頭のなかで認印がどうとかこうとか唱えさせてみた。するとガルヴィンの左手の甲が仄かな光を放ち、魔法陣のようなものを刻ませた。しばらくすると、共鳴するように右手の甲にも同じものが浮かび上がってきた。こっちはアリューシャ様が与えた認印だろう。
俺とクラット皇子はその光景を黙って見ていたが、ガルヴィンは何も気にしてないようだった。というか、彼女には何も見えていないようだった。もともと付与された本人には目視できないのか、それともアリューシャ様がそういうふうに細工していたのかはわからない。しかしあまり自信はなかったが、どうやら上手くいったみたいだ。やはり世界最高の召喚士の称号を戴冠したのはアリスではなく、亡者とはいえ伝説の召喚士アメリア・イザベイルを実際に討ったクラット皇子だったのだ。
「ええい、ウキキ! いつまでこうさせておくつもりじゃ!」とクラット皇子は言い、ガルヴィンの手を乱暴に振り払った。「余はこんなに長いこと男の手を握るような趣味はないっ!」
なんだか色々と誤解しているようだ。まあ俺だって一緒に風呂に入るまでは男だと思っていたので、無理もない話だろう。しかしガルヴィンはわざわざ自分の性を訂正するつもりはないみたいだった。手を離してからも、クラット皇子のことをじっと見つめていた。
「ねえ、キミ、今自分のなかに生まれつつあるものがなんだかわかる?」とガルヴィンはクラット皇子に言った。「それはキミには過ぎた力だよ。もっと言えば、余計なものまで背負い込んでしまう力だ。ボクならそれを今のうちに取り除いてあげることができる。と言っても、キミにはなんのことだかわからないだろうね?」
ガルヴィンの言うとおり、わからないようだった。俺も沈黙することで彼女に答えを求めた。ガルヴィンは言った。
「ケルベロスだよ。どういうわけか、アメリア・イザベイルが滅んだことによってケルベロスが卵に戻り、キミのなかで孵化しようとしているんだ」、彼女はクラット皇子の胸に手をやり、診察するように目を細めた。「ボクにはそれを感じ取ることができる。キミたちに召喚される召喚獣や神獣だって、その本質は精霊と似たようなものだからね。ついでに言えば、お兄ちゃんが使役する幻獣だってそうだよ。うーん……そうだな……ボクが処置しなかったら、たぶん二、三日もすれば卵から孵ると思うよ」
どちらかといえば、それはクラット皇子にとって光明のようだった。六龍こそ宿せなかったが、あるいはそれに匹敵し得る召喚獣を手に入れられるわけだ。だがガルヴィンの継いだ言葉で、その顔がたちまち曇ってしまった。ガルヴィンの手の認印は、いつの間にか俺にも見えなくなっていた。
「そのケルベロスはこの国の人々を何人も殺した。栄養にもならないのに貪り喰ったんだ。キミが召喚獣として孵化させるなら、キミはその罪を背負うことになる。クラット・イザベイル、その覚悟がキミにあるとは思えない」
気づけば太陽が大きな雲に覆われ、部屋のなかは以前にも増して薄暗くなっていた。感じていた眠気が今では遥かに遠ざかり、水平線の向こうに沈もうとしていた。




