447 さよならチルフィー
今日という一日は、アリスにとってとても辛い一日になってしまった。つい先ほど亡者となった大伯母を失意のままに見送り、今度はチルフィーを失おうとしている。涙のあとをまた涙の粒が伝っていき、口許で水晶のように砕けた。綺麗に切り揃えられた前髪が、しなやかに風に吹かれていた。
「どうしてチルフィーがいなくならなきゃならないのよ! 私はそんなの絶対に嫌だわ!」
「仕方がないのであります! だってあたしは風の精霊シルフになったのであります! 風を絶やさないように、ずっと世界を渡らなくちゃならないのであります! もうアリスともウキキとも、一緒にはいられないのであります!」
「どうして一緒にいられないのよ! 私は絶対に嫌よ!」
「嫌でも仕方がないのであります! あたしたちの我儘に世界を付き合わせるわけにはいかないのであります!」
ふたりは詰め寄り、かなり近いところで視線をまじわせた。互いに相手を納得させる言葉を心の内側で探した。しかしそこには論理立てられた形のあるものなんて何もなかった。あるのは共有された思い出ばかりだった。
アリスもチルフィーも口をつぐみ、思い出のなかをふたりで巡る。ショッピングモールでチルフィーを虫取り網で追いかけまわしたこと。シルフの隠れ家で一緒に食人花を討伐したこと。ファングネイ王国の喫茶店で口にしたレモンコーヒー。タマハガネにあるナカゴ村の温泉や、就寝前の白熱した枕投げ大会。きっと俺の知らない思い出だってたくさんあるのだろう。初めてできた異世界の友達との色鮮やかなアルバムに、終わりはないみたいだった。本当に次から次へと溢れ出していた。流れるふたりの涙がページをゆっくりとめくっていく。しばらくすると、チルフィーは栞を挟むようにそっと呟いた。
「アリスはマナが強くて多いので、きっと風のなかにあたしを見つけられるはずであります。夢のなかにも遊びに行けるのであります。だから……ここでお別れではないのであります」
「ホント……?」とアリスは小さな声で囁くように口にした。「本当に私の近くに来てくれるの? 夢のなかでまた会えるのね?」
「絶対にであります! もしアリスがピンチになったら、全部ほっぽりだしてでも助けに行くのであります!」
ガルヴィンが俺の隣に立ち、抱きしめ合うふたりを目にしながら口を開いた。お兄ちゃんは大丈夫なの? とかそんな内容のことを訊かれた。俺は黙って頷いた。俺はアリスと違って平気だ。なぜなら、チルフィーがまだこの世界に存在できるだけでもちょっとした奇跡だからだ。ふと、シルフィー様の穏やかな眼差しが目に浮かんだ。俺が会釈をすると、彼女は優しくそっと笑ってくれた。
「まあ、俺はアリスやお前と違って大人だからな」と俺はガルヴィンに言っておいた。ここらで長幼の序を意識させておくのも悪くない。
「そっか、お兄ちゃんはもっと取り乱して、泣き喚いて、それでチルフィーを攫っちゃったぐらいだったもんね」とガルヴィンは手を頭の後ろで組んで言った。「だから、チルフィーがまだこの世界に存在できるだけでも儲けものってわけだ」
「お前な……わかってるならいちいち聞くなよ……。恰好つけて損しただろ……」
「でも、ボク思うんだよね」
なにをだ? と訊いたところでスプナキンが大声を上げた。「チルフィー! お願いがあります!」と彼は多少かすれた声で言った。
「ワタシを、ワタシをチルフィーと一緒に連れて行ってはくれないでしょうか!?」
アリスはチルフィーを抱擁から解放し、自分は一歩だけうしろに下がった。こいつはこういう気の回し方だってできるようになったのだ。いや、もしかしたらべつに気配りがどうこうではないのかもしれない。アリスも俺と同じように、チルフィーと最後の言葉を交わすのはスプナキンだと自然と感じていたのかもしれない。
「スプナキン……」とチルフィーは言った。「それがどういうことだか、わかって言ってるのでありますか?」
もちろんわかっています、それが騎士のようにチルフィーの前で跪いたスプナキンの口上だった。彼はトンガリ帽子を脱いで膝元に置き、眼鏡をその上に載せた。
「ワタシはこの体を捨てて、チルフィーとともに世界を渡る風になります。ワタシは愛するあなたの一部になりたいのです。小さい頃から、ずっとあなたに恋をしていました。ワタシの目は自由に風と歌うあなたをずっと追っていました。花の香りをかぐあなたの横顔をずっと見つめていたのです。お願いです、ワタシをあなたと一緒に連れて行ってください」
全員の目が一斉にチルフィーに注がれた。チルフィーは顔を真っ赤にして俯いていた。アリスがにんまりと笑い、クラスを代表するお節介な女子のような顔つきでチルフィーの背中を静かに押した。「これってプロポーズみたいなものよ!」と余計な一言まで添えてしまった。
「スプナキン!」とチルフィーは怒ったような口調で顔を上げて言った。「もしかして、あたしからの手紙を読んだのでありますか!? そうでもなければ、スプナキンから愛とか恋とか言うはずないのであります!」
「はい、読みました」とスプナキンは真面目な顔を崩さず口にした。
「なんで読んじゃうのでありますか! あれはあたしがこの世界から消滅したら読んでほしい手紙だったのであります! あたしはシルフになったのだから、もう読んじゃ駄目な手紙なのであります!」
「しかしもう読みました。チルフィー、まさかあなたもワタシと同じ気持ちだった――」
チルフィーは吹き荒ぶ風となり、スプナキンの口を手で塞いで、その流れで俺のポケットから二通の手紙(彼女が俺とアリス宛に書いてくれたものだ)を奪った。さすがは風の精霊シルフという身のこなし方だった。それから一言だけ俺たちに残し、スプナキンを連れて突風のように慌ただしく夜空に消えていった。じゃ、あたしたちはもう行くであります! 最後の別れの言葉は、色々と省略されたこんな簡単なものだった。
たぶん、これで良かったのだろう。涙に塗れた別れの挨拶なんてあいつには似合わない。明日も明後日も、チルフィーは悠久の風を纏って元気に世界を駆けまわる。一年後も、十年後も、五十年後も、きっとあいつは俺の近くにいてくれる。それだけで十分だった。だってほかに何がいるだろう?
俺たちはそれから飛空艇まで戻り、アリスたちがすでに談話室で開催していたクリスマス・パーティー兼新年会に参加した。飛空艇にはアナとレリアとサラマンダーが同乗していた。ほかの連中はショッピングモールで俺たちを待っているらしい。先に飛空艇に戻ったザイルとクラット皇子は自室に籠っているようだった。アリスが小言を口にしながらが参加を呼びかけに走ったが、余計に小言を増やして戻ってくる羽目になっただけだった。どうやら素っ気なく断られてしまったようだ。
俺はソファーに座り、クリスマスケーキを食べながら、アリスのことを眺めるともなく眺めていた。サンタクロースの恰好をして、サラマンダーにドヤ顔でプレゼントを渡していた。ガルヴィンは無理やりコスプレに付き合わされ、トナカイの姿をしている。どうやらふたりともチルフィーのことは会が終わるまで黙っているつもりのようだった。
航行する飛空艇の窓からの景色はありふれたものだった。いつもと変わらない世界がずっと先まで続いていた。いつもと変わらない水平線がオレンジ色に輝き、夜通し空を旅する鳥の群れに朝を示唆している。遠くに浮かぶ紫色の雲が、いつもと変わらない風にたなびいていた。
さようなら、俺の指先の糸と結びつく運命の女の子……、と俺は心のなかでそっと呟いた。またここではない世界で、どこかの時間で、いつかのあの夏の空の下で。




