441 緑を駆ける
遠近法の見本のように、遠くの深い森を背景にして建物が佇んでいた。そこに黄泉の世界から舞い戻った召喚士がおり、そいつが際限なくケルベロスをこの現世に呼び出している。それが、吸血鬼という最強の助っ人を失う代わりに俺たちが得た推測だった。いや、シルフィー様が口にしたからには、予想ではなく事実と捉えて問題ないだろう。
「またすぐにでもケルベロスは召喚され、私たちに襲いかかって来るでしょう」とシルフィー様は言った。「その前に、ウキキにとっての認識を、ひとつ改めておいたほうが良さそうです」
俺は頷いた。改めるべき認識? なんのことだろうか?
「吸血鬼は――ハイデルベルクは――たしかにケルベロスの三つ首を瞬く間に刎ねてしまいました。それも二度続けてです。あれでは、さすがに太陽模様の頭部も再生の能力を発揮することはできません。私はもとより、ほかの四大精霊でさえ決して真似のできない神業と言えるでしょう。ですが、あれはそうなるようにある程度仕向けたのだと私は思うのです。つまり、ハイデルベルクは首を刎ねたのではなく、『星模様』を浮かべる頭部の深遠なる智慧により、刎ねさせられたのです」
刎ねさせられた、と俺は思った。そうなるようにある程度仕向けられた?
「私はここで断言してしまいますが、ケルベロスはあんなに弱くはありません。いえ、もちろん吸血鬼と較べなければという意味ですが、少なくとも防御に回ればあんな簡単に勝負が決まることはありません。その気になれば、相手が吸血鬼とはいえ、三日三晩は大立ち回りを演じられるでしょう。しかし、ケルベロスは文字どおり一瞬で殺されることを選びました。ウキキ、この判断がどういう結果に繋がったかわかりますね?」
「敢えてそうすることで、ハイデルベルクをこの場から去らせた……ということですか?」と俺は言った。「要するに、全部ケルベロスの計算だった……と?」
シルフィー様は夜に覆われた遠くの建物を眺めながら頷いた。「そういうことです」
ハイデルベルクが立ち去った際の顔が目に浮かぶ。「我はすでに汝との約定を果たしている……。ケルベロスは屠った、そうだね……?」と彼は俺に言った。そこには最強がゆえの虚しさと同時に、若干のドヤ顔感も混在していた。ハイデルベルク、もしシルフィー様の見立てどおりだとしたら、お前はなんて間抜けな吸血鬼だろうか。
「わかりました」と俺はシルフィー様に言った。「俺が思ってる以上に、『智慧』とやらはずる賢いみたいですね……。でも、じゃあここからはどうします? ケルベロスが再召喚される前に召喚士を叩きますか?」
しかしそういうわけにはいかないようだった。シルフィー様の視線を追うと、夜闇に輪郭をぼかされた建物から黒い物体が飛び出してきた。間違いない、ケルベロスだ。同じ轍は踏むまいと、俺はシルフィー様を頭上に座らせたまま身構える。また上半身への一撃を喰らう前に、大きくうしろに飛び跳ねる。
ケルベロスの爪が、コンマ数秒前まで俺がいた空間を引き裂く。相変わらず研いだ直後の刃物のような鋭さだ。この爪にシルフォニアの多くの街の建造物が破壊され、そして決して少なくない数の人々が殺害されてきた。許すことなんてとてもじゃないができそうにない。たとえ暗闇に紛れる召喚士の手によって、無理やり地獄の底から引っ張り出されたのだとしても。
こいつとの再戦が始まる。前回はイーブンといったところだ。あのときは黄泉性を纏う(だからこそ唯一攻撃が通る)俺の出現に警戒し、ケルベロスは一度退くことを選んだ。だが今回は撤退するような気配を見せなかった。ここで天敵となり得る異分子の俺をきっちり始末しておこうという気概が感じられる。俺の使役する鎌鼬がケルベロスの腹をわずかに掠る。爪が俺の左肩をかすかに抉り、シャツを鮮血に染める。
激しい痛みを肩に感じる。だがそれ以上に強い違和感を覚える。ケルベロスの眼は殺意の赤に輝いており、だからこそ攻撃の予兆はしっかり視えている。だが今しがたの一撃は一瞬だが青い軌道が消えてしまった気がする。本当に刹那の出来事だったので、確信を持つことはできない。気のせいと言われればそれで納得してしまう。
「いえ、気のせいではありません」とシルフィー様は言う。俺の懸念を俺よりも大事として捉えているみたいだ。「気のせいではありません、ケルベロスはウキキの先を視る能力をすでに見抜いています。なので稀に瞳を閉じ、その優位性を奪っているのです」
なるほど、と俺は思う。相手の眼が開いてないと青い軌道を視認できないという、俺の言わば弱点を突いてきているのだ。特に『稀に瞳を閉じる』というのがかなり鬱陶しい。たったそれだけで視えたり視えなくなったりと、頭がこんがらがり行動が一瞬間遅れてしまう。
「ウキキ、なんとか持ち堪えてください。私はケルベロスの隙を突き、あの太陽模様の頭部の特性を封じてみようと思います」
「再生させなくできるってことですか……?」と俺は訊く。爪撃を二つ続けて避け、顎による一撃をいつもより早めに退ってやり過ごす。しかしそのせいで反撃まで手が回らない。「わかりました、ならできるだけ気取られないようにしてみます」
後方に飛び跳ねた位置から右腕を構え、十か所ほど狙いをつける。そして朱雀を使役し、赤々と燃える羽根を一斉に発射させる。羽根はそれぞれが違う軌跡を描き、宙を突き進んでいく。しかしケルベロスはほとんど意に介さない。悔しいが、俺の使役する朱雀にそれほどの威力はないと看破しているのだ。
何本かはケルベロスの体毛に絡まり、何本かは爪で払われる。刺さったものもあるが、やはり手応えはまったくと言っていいほどない。だけど俺はそのことを残念には思わない。なぜならすでにシルフィー様は一陣の風となり、ケルベロスの上空に辿り着いているからだ。
しかし舞い上がる風を見て、俺は咄嗟に思考する。シルフィー様が一陣の風となった? それでは話がおかしくなるではないか。だって、シルフィー様はチルフィーの身体に封印されていたはずなのだから……。
「ダメであります!」とチルフィーは俺の頭の上で言う。シルフィー様がいなくなり、無理くり意識を引き上げられたのだ。「これじゃ、シルフィー様が消えてしまうのであります!」
良いのです……。
声が聞こえる。
これで良いのです、チルフィー。そして人の子ウキキよ。私はもとより呪縛をいつでも解ける状態にありました。ごめんなさい、あなた方みんなを騙していたのです。しかし、それはなによりこの一時のためなのです。敵を騙すにはまず味方から、と言うではありませんか。ね……?
滞留していた風が、竜巻のようになって一気にケルベロスの頭部に向かって降下する。シルフィー様の狙いは再生を司る太陽模様の首だ。それさえ封じれば、あとは残りの首を落とせばこの場は切り抜けられる。また召喚される可能性も大いにあるが、とりあえず今は。
だが、再生の重要性を誰よりも理解しているのはケルベロスだった。おそらくシルフィー様の捨て身の行動を察知していたのだろう、ほかの首を庇わせるようにして上向かせ、太陽模様の頭部はそこで首を垂らした。智慧を冠する星模様の頭部は、上空から落ちてくる虫を噛み砕こうとするみたいに顎を開いて待ち構えている。目論見を破ったためか、その口は笑っているようにさえ見受けられた。
シルフィー様! と俺もチルフィーも声を上げる。このままでは魂を賭けた不意打ちさえ無為に終わってしまう。だが……また声が聞こえる。チルフィーは蛇口を閉じるように泣き声を止ませる。
私はうそぶいてばかりですね、とシルフィー様は言う。大丈夫、心配しないでください。私の本当の狙いは、最大の脅威である智慧の首なのですから。だからチルフィー、泣くのはもう少しあとにしましょうね?
顎が開き切った星模様の頭部を、静かに風が包み込んでいく。シルフィー様の声は、いつ聞いても緑を駆ける草原の優しい風を思わせる。




