440 魂を地獄に突き落とされた死者
シルフの里の小高い丘を駆け上がる。半分ほど登った中腹辺りで、耳をつんざくほど強烈な断末魔が聞こえてくる。それから少し遅れて、地響きがブーツを通して足の裏に伝わってくる。かなり質量のある巨大なものが勢いよく横たわったような衝撃だ。吸血鬼は――ハイデルベルクは――俺が丘を登りきる前にケルベロスとの決着をつけてしまったのだろうか? だとすると、彼が去ってからわずか数分程度の出来事ということになる。
丘を上がると視線の随分先まで花畑が敷かれた平地になっていた。遠くのほうにひっそりと大きな建物が佇んでいる。その奥全面は深い森になっていた。月明かりだけではどんな建物かわからないし、ハイデルベルクの姿を認めることもできない。しかし目が慣れてくると、ケルベロスの巨躯らしきものが50メートルほど前方にだんだんと浮き上がってきた。詳細まではわからないが、少なくとも戦いは終わっているようだった。
先に声をかけてきたのは、ハイデルベルクの左手に握り込まれたチルフィーだった。彼女は俺が駆け寄ると、ハイデルベルクの手から無理やり脱出して俺のもとまで飛んできた。
「一瞬だったであります!」とチルフィーは興奮するように言った。「この吸血鬼、とんでもない強さでありました! 大鎌でスパスパッといっちゃったであります!」
俺の耳はチルフィーの声を聞き、俺の目は落とされたケルベロスの頭部を見ていた。三つ首が綺麗な断面をこちらに向けて、一定の間隔で転がっている。俺より先に追いついたスプナキンが、検分するように近くから観察していた。ハイデルベルクは何も言わず、虚しそうに体の重心を右に寄せて突っ立っている。
意を決して、ケルベロスの頭部に軽く手を触れてみる。生命の鼓動のようなものは感じない。まるで精巧に作られた、がらんどうの剥製のようだ。あれだけ白く輝いて見えていた額の模様も、今は心なし灰色がかって目立たなくなっている。それぞれ三頭の額の星と月と太陽。星の模様は『智慧』を、月の模様は『呪詛』を、そして太陽は『再生』を司っている。しかしそれらの異能も、吸血鬼の手にかかりまったく無意味なものに成り果てていた。
「終わりましたね」とスプナキンは小さな声で俺に言った。「しかし、シルフィー様が解放されたような気配はありません。これから、ということなのでしょうか?」
俺とスプナキンは同時に振り返り、同時にチルフィーに目を向けた。きっと伏し目がちだったのも同じだと思う。これでチルフィーの魂が消えてしまうと思うと、正面切って見つめる勇気はなかった。徐々に目線を上げていく。すると、ぱっちりした大きな瞳でチルフィーは俺たちのことを見ていた。
「なんともないでありますね……」とチルフィーは手を広げて自分の身体を見下ろしながら言った。「もっとこう、覚醒的な衝動があるのかと思っていたのでありましたが……」
その直後だった。残されたケルベロスの躯と三つ首が眩しく光り、誰かの影が束の間のあいだ花畑に落とされた。それからすぐに、また深い闇が重厚な絨毯のように大地を覆い尽くす。振り向くと、ケルベロスは忽然と姿を消していた。
「っ……!」
いま目にしたことを脳裡で反射的に整理する。まさか再生したのか? いや、しかしその隙を与えることなく、ハイデルベルクは太陽模様の頭部を刎ねたはずだ。現に今さっきまで三つとも転がっていたではないか。答えは導き出されそうになかった。しかしケルベロスが消える際に放った光は、どこか見覚えがあるもののような気がした。
「なるほど、そういうことですか……」とチルフィーは言った。いや、シルフィー様が表に現れているようだった。彼女は羽ばたいてすっと俺の頭に着地する。混乱した脳が心地良い重みを感じ取る。
「ケルベロスは召喚されていたのです」とシルフィー様は口にする。「召喚士の手によって、地獄の底から……」
そうだ、と俺は思う。たしかにさっき見た光は、アリスが召喚するカーバンクルやグリフィンが還るときと同じものだ。……いや、でも、と俺はすぐに自分の考えに反証を与える。しかしケルベロスが召喚獣だったのであれば、それこそアリスの召喚獣と同じく頭の上に光輪があったはずだ。だがケルベロスにはそんなものはなかった。これをいったいどういうふうに説明すればよいのだろう?
俺はまったくそのままシルフィー様に質問としてぶつけてみる。すると、彼女は静かに首を縦に振る。
「ウキキの言うとおり、たしかに召喚獣であれば光の輪っかが頭の上に輝いていたはずです。そしてウキキも知ってのとおり、召喚者の頭上にも同じものが浮かびます。光の加減に強弱の差こそあれ、召喚獣はその輪をゲートとして通ってくるのです。しかし、それは両者が別の世界に属する場合に限ります。アリスにチキュウから召喚されたウキキに輪っかがないことを考えれば、それには納得してもらえるはずです」
俺は何も言わずに頷いた。そうだ、俺はアリスの軽く召喚獣なのだ。この『軽く』という部分が光の輪が存在しない根拠になっていたと思っていたが、そういう理路の整ったちゃんとした理由があったみたいだ。
「でも、シルフィー様……」と俺は言葉を選びながら彼女に言った。「ケルベロスと世界が異なるのでないとすれば、召喚者はどこからどうやってあの化物を呼び出しているんですか?」
「簡単な話です。そのまま受け入れれば良いだけのことです」と彼女は言った。「召喚者もまた、ケルベロスと同じ世界を根城としているのでしょう。つまり、その何者かは、魂を地獄に突き落とされた死者ということになりそうです」
俺もスプナキンも口を挟まなかった。俺たちは無言のまま目を見合わせ、それからまたチルフィーの身体に宿るシルフィー様に視線を移した。その瞬間、静寂のなかに唯一金属音が鳴り響いた。ハイデルベルクが大鎌の石突を地面に突き立てたのだ。
「なるほど、なるほど……」と彼は独り言つように暗闇の向こうを見定めながら言った。「それで、この黄泉を思い起こさせる気配に、我は得心がいったよ……」
ハイデルベルクは黒い森を背景に佇む建物を見ていた。そこに召喚者がいるということだろうか? しかし訊いても返事は返ってこなかった。その代わりというわけではないだろうが、彼は大鎌を水平に構えて静かに口を開いた。
「ああ、厭だ、厭だ……。終わりなき者は、何故こうも醜いのだ……」
俺の目には、建物から何か黒い塊が飛び立ったようにしか見えなかった。しかし吸血鬼の目はちゃんと捉えられていたのだ。また新たに召喚された、地獄の番犬ケルベロスを。
「っ……!」
夜に閉ざされた空から、ケルベロスが強襲する。その鋭利な爪は俺の上半身を的確に引き裂こうとしている。いや、俺をというよりは、俺の頭上のシルフィー様をだろう。どちらにせよ、俺も彼女も咄嗟の出来事にうまく対処できずにいる。俺は玄武を使役しようと腕を掲げるが、もう間に合わないと半ば脳が諦めかけている。
しかし、寸前のところでハイデルベルクの横槍が入る。彼は一瞬で間合いを詰め、俺の目の前に立って大鎌を払う。そしてケルベロスの爪撃を弾くと同時に、三つの首を斬り落とす。正確にどう斬ったのかはわからない。ただ眼前で起こった事実として、三つ首のすべてが刎ねられたということだ。再び巨大な躰が倒れる衝撃で、大地が荒波のように激しく揺れ動く。
「二度目は、サービスというものだ……」とハイデルベルクは言う。「我はすでに汝との約定を果たしている……。ケルベロスは屠った、そうだね……? 次は、キミが我の望みを叶える番だ……。ミツイ・ユウキ……我はキミがブラッド・バンクを訪れる日を、いつまでも心待ちにしておくよ……」
反論のしようがなかった。その暇もなく吸血鬼は漆黒の翼を羽ばたかせ、吸い込まれるように夜闇に消えていった。
ここからは化物の力は借りられない。俺はそう自分の脳と体に言い聞かせ、遠くの建物を眺めやった。もう咄嗟に体が動かないなんてことがあってはならない。頭を研ぎ澄ませ、体の隅々まで血を巡らせる。




