439 シルフの里
シルフォニアの街からシルフの里まではかなり長い道のりだった。三台の馬車が大きな川に架かる石橋を渡り、鬱蒼とした森を横切り、地平を見渡す平原を駆け抜けた。あらかじめガルヴィンやザイルたちが死霊の澱みを掃ってくれていたが、それでもところどころで死ビトの群れと遭遇した。しかしそのたびに俺とチルフィーはザイルから待機を命じられ、彼らが戦うところを馬車のなかから見ているだけだった。そんなお膳立てもあり、俺は万全の状態でケルベロスが潜む伏魔殿まで到達することができた。
青い月明かりが踏み荒らされた広大な花畑に沈んでいた。萎れた花々の道がケルベロスの寝床を案内するように、小高い丘の上までまっすぐ伸びていた。チルフィーは悲しそうに荒らされた故郷を眺め、それからすぐ口をきっと結んだ。そして隣のスプナキンに力強い声を届けた。
「今日こそ絶対にシルフの里を取り戻すであります! 覚悟は出来てるでありますか!?」
スプナキンはとんがり帽子を傾けて頷いた。
「ええ、何が何でも」
俺は二人のぴんと張った背筋を指でとんとんと叩き、リラックスを促した。あまり気負わないほうがいい。それから馬車のなかから出てこようとしないクラット皇子に目を留めた。彼は所在なさげに狭い空間のなかで身を縮めて座っていた。
皇子はどういうわけか街を発つ直前になって、どこからともなく現れたリアに無理やり馬車に乗せられていた。なぜ月の女神がそんなことをするのか、誰にもわからなかった。訊いてもリアは何も答えてくれなかった。しかし彼女がそうするなら、そうする必要があるのだろう。リアは人間の愚かな質問を笹の葉のそよめきのように聞き流し、またふと光のなかに消えてショッピングモールに帰っていった。
ザイルは馬車を降りてからガルヴィンを伴い、横手にある緩やかな川のほとりを歩いていた。もちろんただ散歩するわけではなく、周りの状況を見定めているのだろう。俺の近くで足を止めると、彼は月を見上げるように無言で空を仰いだ。しかし目にしているのは蒼い三の月ではないようだった。
「吸血鬼が到着したようだな」とザイルは言った。「ここからは化物の時間だ。人の出る幕はそうそうない。おれたちはここに陣取り、川下で群れる死ビトの接近に目を配っておこう」
吸血鬼――ハイデルベルクは滞留する瘴気のように空に浮かんだままだった。蝙蝠のような漆黒の羽を目一杯拡げていた。長い黒髪が月の光を帯びて青白く発光している。まるで、月が生み出すものは余すことなく力として吸収するのだと言わんばかりに。
「おや、おや……。オパルツァー帝国の第一継承者にして、大精霊士ともあろう者が、随分と自分を卑下する物言いだね……」とハイデルベルクはザイルに言った。「キミなら、ケルベロスを屠ることぐらい、そう難しくないのでは……?」
「ああ、もしおれがウキキのような、隠り世に足を踏み入れたことのある人間ならばな」とザイルは言った。「ケルベロスに触れられるのは黄泉性を纏うウキキと、お前のような黄泉そのものの化物だけだ。それを知らずにのこのこと現れたわけではないだろ?」
「もちろん、承知しているよ……。ただ、なんとなく、キミの口を滑らかにしたくなっただけだ……。ヒトの会話というのは、得てしてそういうものだろう……? 無意味な言の葉の積み重ねだ……」
ザイルはハイデルベルクに取り合おうとせず、視線を彼から丘の上に移動させた。
「おれならそう難しくないとお前は言う。なら吸血鬼にとっては造作もないことだろう? 討つ準備はできているな?」
「怪物を殺す準備を……という意味なら、この世界に生み出された時点でできているよ……。あまねく星が夜空で瞬かずにはいられないのと同じことさ……」
ただ……、とハイデルベルクは終わりに付け加えた。そのころには白濁した目で覗き込むように俺を見ていた。
「その前に、我々の交わした約定をあらためて確認しておきたい……」と吸血鬼は言った。「我がケルベロスを殺せば、キミは我の望みを満たしてくれる……。つまり、我と存分に殺し合う……。それで、間違いないね……?」
「ああ、すべてが終わったあとにな」と俺は言った。いい加減首が疲れるので降りてきてほしかったが、そんな親切心はないようだった。あるいは人に見上げらえることこそ吸血鬼の矜持なのかもしれない。「念のために言っておくと、すべてってのはこの惑星を救ったあとだからな。そしたら俺からブラッド・バンクを訪ねるよ、約束する」
ハイデルベルクは見ていなければわからないほどかすかに頷いた。「良い……だろう」と彼は言った。そんな吸血鬼を恐れずぶっきらぼうに質問を投げかけたのは、つまらなそうに話を聞いていたガルヴィンだった。
「でも、どうしてそんなにお兄ちゃんとの死合いにこだわるのさ? たしかにアンタに触れる人間は、黄泉性を帯びたお兄ちゃんぐらいだと思うよ。だけど戦いたいだけなら、これからケルベロスとみっちりやるんでしょ? ほかにもアンタと殺し合える怪物がわんさかといるんじゃない?」
いい質問だ、というふうにハイデルベルクはにやっと笑った。長く鋭い犬歯までもが青白い光をたたえている。
「たしかに、我に片膝をつかせるほど強き怪物は存在する……。そう多くはないがね……。だがそこに悦びは生まれない……。強大であることを義務付けられた怪物の首を手折ったところで、我は虚しさに打ちひしがれるだけだ……。我はヒトが好きなのだよ……。果実をみのらせることを神から禁じられた、徒花たるヒトがね……。か弱きヒトが手にした強き力こそ、真の輝きが得られる……。曇らせたいのだよ、我は……。その一瞬の炎で眩しく燃え上がるような、儚き力の輝きをね……」
これ以上好きに話させないほうがよさそうだ。だってよだれをだらだらと口元に垂らし、恍惚した表情で俺のことを見ている。今すぐ襲われてもおかしくない状況だ。俺の内に棲む幻獣たちも、かつてないほど警戒の熱を強めている。
「準備ができてるなら、さっそく作戦会議を始めないか?」と俺は慎重に言葉を選んで提案する。「あんたならケルベロスを、それこそ一瞬で殺せるんだろ? だけど勝手に一人でやられちゃ困るんだ。ケルベロスが斃れたとき、そこにチルフィーがいないとシルフィー様は解放されない。それを念頭に置いといてくれ」
ハイデルベルクは翼を羽ばたかせた。次の瞬間には俺の眼前にまで迫り、鋭い牙を覗かせていた。俺は本能的に素早く飛び退り、右腕を伸ばして構える。しかし彼は――少なくとも今は――弁えているようだった。俺に攻撃するために間合いを詰めたのではなく、俺の頭の上に座るチルフィーを掻っ攫う目的だったのだ。すぐに突風が吹いたかと思えば、すでにハイデルベルクは蒼い月を背景に高く上昇していた。「ならば、こうすれば――」、それが彼の残した僅かな言葉の切れ端だった。チルフィーの悲鳴で多くは聞き取れなかった。
「お、おい! 無茶すんなよバカ!」
自分がチルフィーを抱えながらケルベロスを殺せば良い、きっとハイデルベルクはこのような考えに至ったのだろう。それも悪くはないが、かと言って見えないところで処置されるのも心配ものだ。だからこそ俺はすぐさま走り出したが、スプナキンはそれより一瞬早く動き出していた。彼は一目散に羽をぱたつかせ、ハイデルベルクを追って飛び去っていった。
背後からガルヴィンの適当に応援する声が聞こえる。俺は傾斜な緩やかな丘を、蒼い月に照らされながら登っていった。




