438 ここではない世界で、どこかの時間で、いつかのあの夏の空の下で
チルフィーが今朝見た夢の話をすると、その光景が俺の目の前にも広がる。まるで凍りついていた夢が、夏の強い日差しで溶けていくみたいに。俺たちは同時に同じ夢を見ていたのだ。シルフの仮宿でもそんなことがあった。あのときはたしか、十五少年漂流記を模範した夢だった。チルフィーが主人公のブリアンで、アリスが嫌なイギリス貴族のドニファン。そして俺がなぜか島を侵略しようとする無法者の役だった。
しかし、俺たちが今朝見た夢には俺たちしか出てこなかった。暑い真夏の空の下、田舎の緩やかな坂の上で、俺たちは出会った。
「ウキキはちっちゃい男の子だったであります」とチルフィーは言った。「あたしは坂の上に立って、登って来るウキキをなんとなく見ていたのであります」
「ああ、そうだな」と俺は言った。「お前もちっちゃい女の子だった。白いワンピースを着て麦わら帽子をかぶった、緑色の髪の女の子だ。髪の毛は今みたいにポニーテールに結んでいる。目が合うと、お前はニコッと笑ったんだ」
形のはっきりとした入道雲が空に浮かんでいる。蝉が近くの山で声を限りに鳴いている。ワンピースの裾とポニーテールが風に吹かれて揺れている。少年は少女から目を離せないでいる。
ボーイ・ミーツ・ガール。少年には必ず出会わなければならない少女がいる。同じように、少女には必ず出会わなければならない少年がいる。空から落ちてきたシータと地上で受け止めたパズーのように、二本の糸が結びつく運命を誰もが必ず手にしている。
しかし、誰もがすぐに巡り合えるわけではない。違う一生を幾度となく繰り返して、やっと絡み合うことができる運命の糸もある。いや、きっと割合で言ったらそっちのほうがずっと多いのだろう。ほとんどが時間や空間の壁に阻まれ、ほつれた糸の先端を目にすることすらままならないのだろう。
俺にとってのその相手はチルフィーだったのだ。今までも漠然と感じていたが、俺の指先とチルフィーの指先にあるものは結びついているのだ。しかしこの世界では絡み合わないみたいだ。交錯こそしたものの、指先は別の方向を差しており、それぞれ別の使命を背負っている。足の爪先はもう決して交わらない場所を目指し始めている。
「あたしは精霊だから、なんとなくわかるのであります」とチルフィーは言う。「あれはただの夢ではないのであります。ここではない世界で、どこかの時間で、いつかのあの夏の空の下で。あたしとウキキは、きっとまた逢えるのであります」
少年は少女と手を繋ぐ。少女は少年の温もりを手のひらに感じる。ふたりは同時に同じことを考え、同時に同じことを口に出そうとする。しかし今感じていることを上手く言葉にすることができない。ふたりは想いを形にすることを諦め、かわりに指先で相手に伝えようとする。空にはいつだって大きな入道雲が浮かんでいる。
「だから、あたしは少しも怖くないのであります!」とチルフィーは言う。
俺たちはどちらからともなく拳を握り、相手に突き出す。先っぽをこつんとぶつける。小指の糸が少し締まり、心の内側を疼かせる。だけど俺もチルフィーもその感覚を言葉には置き換えない。いつかまた、少年と少女として巡り合うお互いの目をじっと見つめている。
「ああ……。いつかまた、だな」と俺は言う。チルフィーはにこっと笑い、また俺の膝の上に座って前を向く。
*
村の入り口付近には馬車がある。馬はどこにも見当たらないが、馬車を引く馬もどきには心当たりがある。もちろん、俺の胸の奥で不機嫌そうな熱を強めているスレイプニルだ。きっと昨夜から俺の動向を察知し、使役されるであろうことを予感していたのだろう。そりゃあれだけ馬車をチェックしていれば当然かもしれない。俺の思惑は共生する幻獣には筒抜けだったわけだ。
時刻は十六時ちょっと前だった。普通であればケルベロスの討伐になんてとてもじゃないが間に合わないが、亜光速で走るスレイプニルならあっという間に街まで戻れるだろう。だから俺はもう少し話をしないかとチルフィーに提案し、またコーヒーを淹れなおした。今度はチルフィーも自分から紅茶を注文してくれた。
今となっては朝食か昼食かわからないが、リアは俺たちが寝ているあいだにまた食事を届けてくれたようだった。カップ麺が二つとリンゴとチョコレート。俺とチルフィーはそれを食べ、コーヒーや紅茶を飲みながらたくさん話をした。彼女がこの世界で俺のことを一番よく知っていると言ってくれたように、俺も彼女のことを最も知る存在になりたかった。その希望を少しは叶えられただろうか? それはわからないが、少なくとも今日起きたときよりさらにチルフィーのことが好きになっていた。こんな女の子と結ばれるあの少年に少しだけ嫉妬を覚えるほどに。
時計の針が十八時を指すと、俺たちは小屋を出て馬車のところまで歩いた。スレイプニルを使役し、馬具で馬車としっかり繋いだ。スレイプニルは文句こそ言わないものの、俺とチルフィーが馬車に乗り込むまで終始そっぽを向いていた。ドアを閉めると走り出し、景色が光に包まれたときにはすでにシルフォニアの街に辿り着いていた。馬車から降りると、もうスレイプニルは俺の胸のなかに還っていた。
高い壁の前に群がる死ビトを蹴散らし、俺は木霊の階段で壁を乗り越え街に入った。あたり前だが、街には少しの変化も見られなかった。しかし一度は見捨てたこともあり、どことなくアウェイな気分にさせられる。みんなのいるところに戻るのは、本来的な意味で敷居が高く感じられた。
しかし最初に会った仲間がガルヴィンだったことが幸いした。彼女は俺とチルフィーを見かけると腕を頭のうしろで組んだまま近づき、何事もなかったかのように声をかけてきた。
「ああ、お兄ちゃんとチルフィーじゃない。いま戻ったの?」
俺の離反を知らないはずがない。なんせ何も告げずに、チルフィーを抱えて消えてしまったのだ。しかしこいつはあくまであっけらかんとしていた。たとえどうなろうと、最終的には帰って来ると見透かされていたみたいだ。
「ボクはなんとも思ってないよ」とガルヴィンはガルヴィンなりに言葉を選んで口にした。「どうあれ討伐の時間には間に合ったんだから、お兄ちゃんが文句を言われる筋合いはないと思う。だけど、ちゃんと謝らなきゃいけない相手が一人だけいるんじゃないかな。お兄ちゃんなら、それが誰だかわかるよね?」
俺は何も言わずに頷いた。言われなくてもそれが誰だかわかっていた。消滅する運命を背負ったチルフィーを救う目的で、かつて時の迷宮の操作を試みたスプナキンだ。そうあらためて考えてみると、彼は俺よりずっと前からチルフィーのために世界を敵に回していたことになる。殴られても文句は言えないな、と俺は思った。たぶんずっと前からチルフィーに恋しているのだろう。俺なんかよりずっと彼女のことをよく知り、もっと深く彼女のことを想っているのだろう。
スプナキンは一晩中チルフィーと俺を捜索し、今は疲れてテントのなかで休んでいるようだった。ガルヴィンはなんの話だか飲み込めていないチルフィーを預かり、俺ひとりでテントを訪れることを勧めた。
小さな三角形のテントは街外れに建てられていた。屈んでファスナーを開けると、なかでスプナキンが横になっていた。だが眠ってはいないようだった。物音に気がつき、彼は枕元の眼鏡をかけて俺のことをよく見た。それから安心したようにほっと胸をなでおろした。
「良かった、帰ってきたのですね、ウキキさん。もちろんチルフィーも一緒ですよね?」
「ああ……。ごめん、チルフィーを黙って連れ出して悪かった。心配しただろ?」
スプナキンは起き上がると、小さな羽をパタパタとはばたかせて俺の膝元まで飛んできた。そして、眼鏡の奥から俺の目をじっと見た。
「ええ、心配しました。それにあなたのことをかなり嫌いになりました」
「そっか……あたり前だよな、俺だって同じことをされたらそうなると思うよ」
目を逸らすつもりはないみたいだった。唇が小刻みに震えているのが見て取れた。
「俺のことを殴りたいか?」と俺は訊いた。
「ええ、殴りたいですね」とスプナキンはすぐに答えた。「もし、ワタシがあなたと同じ大きさで、それなりの痛みを与えられるのなら」
そう言うと、彼はその場に座って眼鏡をかけ直した。とんがり帽子をかぶり、小さなマントを身に纏った。もう唇の震えは収まっているようだった。
「すみません、嫌いと言ったことは訂正しておきます。ウキキさんはきっと、ワタシと同じことをしようとしたのだと思います。同じ過ちを犯しかけ、同じような省察を経てここにいるのだと理解しているつもりです」
俺はテントを壊さないよう慎重に入り、スプナキンの隣に片膝を立てて座った。とても小さなテントなのだ。風の精霊にはちょうどよくても、俺だけでぎゅうぎゅうになってしまう。
「いや……俺のはただの『ふり』だよ」と俺は言った。「俺はお前には到底並び立てない、中途半端な人間なんだ」
「それでもチルフィーのために行動を起こした相手を、ワタシは認めないわけにはいきません。それにウキキさんはちゃんと戻ることを選択しました。チルフィーの勇気と希望を尊重してくださった結果です」
俺はコートのポケットから桜柄の封筒を取り出し、スプナキンに手渡した。チルフィーが昨晩書いた手紙の、三通あるうちの一通だ。残りは俺とアリス宛で、それぞれ違うコミカルなウグイスのシールで封がされている。スプナキンは手紙を受け取ると、眼鏡のずれを中指でそっと直した。
「絶対に全部終わる前に読んじゃ駄目だってよ」と俺は言った。それからスプナキンが手にする封筒をちらっと横目で見た。
スプナキンの封筒は、つがいのウグイスのシールで封留めがされていた。ウグイスは仲良く手を繋ぎながら青い空を羽ばたいていた。たぶん、チルフィーがこの世界で選んだ相手はスプナキンだったのだろう。きっと何事もなければ、二人は夫婦になって仲睦まじく暮らすはずだったのだろう。
「最後まで、あいつのそばにいてやろうな」と俺はつがいのウグイスをじっと見つめるスプナキンに言った。
彼は溢れる涙を流れるがままにしておき、ただ静かに一度だけ頷いた。




