437 安堵の息
「なんでそんなことを言うのでありますか!」とチルフィーは振り返り、大きな声で俺に言った。「ウキキはあたしに嘘をついてたのでありますか!? 初めからこうしようと考えていたのでありますか!?」
俺はチルフィーの涙の一滴目が頬を伝うのを見届けた。それは彼女の着ている白いワンピースの胸元に落ち、染みになってゆっくりと拡がった。少し遅れて、また同じところを二摘目が濡らした。
心に厚い膜を張らなければならない。でないとすぐにほだされてしまう。「ああ、そうだよ」と俺は言った。色味を欠いた、平板な声で。
「どうしてでありますか! ちゃんと理由を説明してほしいのであります!」
理由なんて明白だった。ただチルフィーにこの世界からいなくなってほしくないという、その一点のみだ。しかし上手く言葉にして伝えることができそうになかった。口が開くのを体のどこかの器官が拒んでいるように感じられた。
「……あたしを助けたいからでありますか?」とチルフィーはしばらくしてから小さな声で言った。「あたしの身体を、シルフィー様に渡さないためでありますか?」
俺は深く沈んだソファーから立ち上がり、冷たいコーヒーの残りを口のなかにしばらく含ませてから飲み込んだ。それからまた新しいコーヒーを淹れようとヤカンに火をかけた。マグカップに小さなスプーンでインスタントコーヒーを多めに入れた。
「もしそうだったら、余計なお世話なのであります!」とチルフィーは俺のことを涙に濡れた目で追いながら言った。「シルフィー様に体を捧げられるのは、あたしにとってほかにちょっと思いつかないぐらい嬉しいことなのであります! シルフィー様の子供ならみんなそうなのであります! 族長も、スプナキンも、産まれたばかりの子供たちだって、同じふうに思うはずであります!」
沸いた湯をマグカップに注ぎ、少量の砂糖を入れてひと口飲んだ。胃に流れ込んでから、いま飲んだものは熱い液体なのだと初めて気がついた。
「お前もなにか飲むか?」と振り返らずに俺は言った。「ハニーオレンジはないから……紅茶でいいか?」
「いらないのであります! そんなことより、ちゃんと話をするであります! このままあたしがここにいたら、あたしの中のシルフィー様はどうなるのでありますか! ウキキは酷いであります、シルフィー様を見殺しにするつもりであります!」
舌が濃い苦味を遅れて感じ取ると、やっと俺はミルクを入れてないことに思いあたった。やれやれ、ブラック・コーヒーなんて埼玉では寝起きの姉貴ぐらいしか飲まない代物だ。粉末のミルクを少し多めにマグカップに注いだ。それから念入りにスプーンで掻き混ぜ、またひと口飲み込んだ。
「この世界だって大変なことになるのであります!」とチルフィーは言った。「シルフィー様がいなくなれば、風が吹かなくなっちゃうのであります! それに、ガーゴイルの起動だって防げないであります! ウキキは今までそのために頑張ってきたのでありますよね!? それが全部台無しになっちゃうのであります!」
チルフィーは胸にそっと手をあてた。「シルフィー様もなにか言ってやってほしいであります! 我がままで自分勝手のウキキにお説教してほしいのであります!」
しかし反応がまったくないようだった。もしかしたら、このことについては口を出さないつもりでいるのかもしれない。あるいは俺に愛想を尽かして、ほんの少し言葉を交わすことすら厭わしいのかもしれない。
チルフィーは風の精霊シルフの御説法を諦めると、また自分の胸元から俺の顔に視線を移した。目が合ってしまい、俺は咄嗟に横を向いた。心に厚い膜を張らなければならない。
「ウキキ、こうしているあいだも時間はどんどん過ぎていくのであります! あたしの魂なんてどうでもいいであります、だから早くみんなのところに帰るのであります!」
とてもじゃないが、コーヒーでは感情の昂りを抑えることはできそうになかった。気づけば俺はチルフィーの視線を真っ向から受け、大きな声でどなっていた。
「どうでもよくねえよ! お前の魂がどうでもいいはずないだろ!」
荒い語気に驚き、チルフィーは一瞬体をびくっと震わせた。それから眉を曇らせ硬直したが、それもほんの一秒か二秒のあいだだった。
「だって、この世界のほうがよっぽど大事なのであります! だからあたしのことなんて、この際どうでもいいのであります!」
「よくねえよ!」
「いいのであります!」
「よくねえって言ってんだろ!」
少し落ち着こうとマグカップに手を伸ばしたが、中は空っぽだった。底のほうに入道雲のような形をした残滓がこびりついているだけだった。そもそも俺は、本当に新しいコーヒーなんて淹れたのだろうか?
「もういいのであります! わからず屋のウキキと話していても、埒が明かないのであります!」とチルフィーは言った。「こうなったら、あたし一人で街に戻るであります! 今からでも急げば間に合うはずであります!」
行かせるわけにはいかなかった。俺はチルフィーを両手で掴み、体の自由を完全に奪った。それでも蝶のような羽はパタパタと羽ばたいている。まるで意志だけでもここから飛び立とうとするみたいに。
「わかってくれよ!」と俺は言った。「お前をこのまま向かわせるわけにはいかないんだ! 俺はお前に消えてほしくないんだ! あとはあいつらに任せて、俺たちはどこかに身を隠そう!」
声が震えているのが自分でもわかった。いつからか涙で目がかすんでいた。どうして俺は、もっとクールに物事を進められないのだろう。泣きながら行かないでくれと哀願するなんて、恰好悪い男の見本のようではないか。
だけど、今さらこいつの前で虚勢を張ったって仕方がない。溢れるように出てくる言葉をいちいち選んでもいられない。せめてチルフィーが痛くないよう、手の力を少しだけ緩める。
「頼むから諦めてくれ! 俺はこの異世界より、お前のほうが大切なんだよ!」
羽がぴたっと静止した。風がこの小屋のなかを静かに巡回していた。チルフィーが口を開いたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
「違うであります。あたしの大好きなウキキは、そんなこと言わないであります」と彼女は言った。「あたしはずっとウキキを見てきたであります。シルフの仮宿を助けてくれたときも、一緒に死ビトになったトロールをやっつけたときも、スプナキンを追って時の迷宮に駆けつけたときも、いつだってウキキはカッコいいあたしのヒーローだったであります。だからこんなウキキは違うのであります。あたしのヒーローは、あたしの大好きな世界を見捨てたりなんてしないのであります」
心に厚い膜を張らなければならない。ほだされてはいけない。だけど、大好きなチルフィーの言葉を遮ることも今はできない。俺はポニーテールの少女のうしろ姿をじっと見つめる。彼女は俺の手のなかでゆっくりとまた語りだす。
「いっぱい一緒に旅をしたであります。いっぱいいっぱい一緒に美味しいものを食べて、楽しくお話をしたであります。きっと、あたしはこの世界で一番ウキキのことを知ってるであります。だから、ウキキはあたしの大事な世界を救ってくれるとわかっているのであります」
どこだかはわからない。しかし、確かに俺の体のどこかがほっとするように力を抜いたのを感じた。チルフィーを捕獲する両手だろうか? 踏ん張ったままの両足だろうか? あるいは膜を厚く張ったはずの心だろうか?
どこだかはわからなかった。だけど、ほっとした自分がいたことは明らかだった。ほっとする? そう……俺はこれで、やっとチルフィーより世界を優先することができるとほっとしたのだ……。
そうなると、もうあとからあとから嫌な証左が頭を過った。大きな鏡が立てられたように、最低の糞野郎が目の前に映し出されていた。
なんてことはない、俺は最初から剥がされる前提で薄い膜を心に張っていただけなのだ。チルフィーのために行動したが、彼女にほだされてしまったのだと納得したかっただけなのだ。いや、ただたんに自分を納得させるためだけではない。俺は世界を裏切ってでもチルフィーを護ろうとしたのだと、見栄えのいい額縁にでも入れて仲間の前で掲げたかったのだ……。
本当に自分が嫌になる。昨日の出来事がいくつも脳裏に甦っていく。なぜ俺はあんなにも必死に街道の死ビトを始末したんだ? なぜ俺はアリスともう連絡を取るつもりはないと考えながら、煌銀石のリングネックレスを大切にコートの内ポケットにしまったんだ? なぜ俺はあんなにも馬車のことが気になったんだ? そのすべては帰還することを前提とした行動ではないか。意識的にしろ無意識的にしろ、俺は端からチルフィーを犠牲にすることを選択していたのではないか……。
本当に自分が嫌になってしまう。今回ばかりは自己擁護の隙もなく、糞な自分をまざまざと見せつけられる。しかし、チルフィーはそんなろくでもない俺のことを、ずっと心配そうに見つめていた。ほどけた俺の手のなかで振り返り、どうしたのでありますか? と思いやりに溢れる声を届けてくれた。
「……ごめん」とやっとの思いで俺は口にした。「……俺は、結局お前を差し出してでも、世界が救われる道を選ぶんだ……」
ソファーの上にそっと降り立ち、チルフィーは隣に座るよう俺に手で合図をした。そのとおりにすると、彼女は俺の膝の上にぴょんと飛び乗り、背を向けて静かに座った。
「謝らないでほしいのであります。だいじょうぶ、あたしはずっと前から、シルフィー様に身を捧げることを受け入れて生きてきたのであります。本当であります。本当にそれはあたしにとって、ちょっとほかに思いつかないぐらい嬉しいことなのであります」
チルフィーは夜空の星を見上げるように上を向いた。視線が交錯すると、はにかむように彼女は笑った。
「でも、本当に本当のことを言うと、ちょっとだけ寂しい気持ちもあるのであります。もう少しだけでも、みんなと一緒にいたかったであります。ウキキだけじゃなく、アリスのこともこの世界で一番よく知りたかったのであります。そのことは手紙に書いたので、きっとアリスは夢のなかであたしに会いに来てくれるのであります。またアリスの頭の上に座って、たくさんお話ができると思うのであります」
俺の流した涙が雨粒となって、チルフィーの肩口に落ちる。だけど彼女は傘を差そうとはしない。すべてを自然の流れとして受け入れてくれている。なにか話さないといけない。チルフィーの気持ちに寄り添ったなにかを話し、いま感じている俺の気持ちを伝えなければいけない。しかし、言葉を形づくることがどうしてもできない。唇が震え、喉の奥に溜まりができ、拭っても拭っても涙が溢れてくる。
するとチルフィーはゆっくりと首を振る。無理して喋らないでいいのであります、というふうに。
「違うのであります。だいじょうぶ、あたしはべつに弱音を吐いてるわけではないのであります。あたしにとって、ウキキとアリスとの出会いは宝物なのであります。ちょっとほかに思いつかないぐらいの宝物なのであります。大好きな二人がいるから、あたしは前向きにここまで旅を続けられたのであります。だから……ウキキには最後まであたしを見守っていてほしいのであります。嘘もつくし子供みたいに泣きもするでありますが、あたしのカッコいいヒーローは、最後まであたしのそばにいてくれるのであります」
ああ、もちろんいるよ、と俺は言った。継ぎ接ぎだらけの拙い言葉ではあったが、たぶん言えたのだと思う。チルフィーはにこっと笑った。それからまた前を向いた。
「今朝見た夢の話をするのであります」とチルフィーは言った。「ウキキもきっと同じ夢を見たのであります。シルフの仮宿でもそうだったであります」
そうだ、俺は夢を見たんだ。起きた瞬間に泡沫となって消えてしまったが、ポニーテールの少女の夢を。
チルフィーは今朝見た夢を話しはじめる。そして、あの夏の日の空が、あまりにも鮮やかに俺たちの目の前に広がる。




