431 一時的に得たもの
吸血鬼の住む城――ブラッド・バンク。ここではハイデルベルクなる人物(もちろん吸血鬼だ)が人を顧客とし血と引き換えにして金を融資している。しかしそれはとうぜん慈善事業などではなく、首がまわらなくなった人間を眷属として取り込むためだ。事実アリスも一度は契約を交わし、めちゃくちゃな利子をふっかけられ吸血鬼になりかけてしまった。あのときラウドゥルに肩代わりしてもらわなければ、本当にアリスは吸血鬼となり今ごろはコウモリに姿を変えてその辺を飛びまわっていたことだろう。
あのときに訪れたのを数えると、ここに足を踏み入れるのはこれで二回目になる。今回も城門から言葉を話すコウモリに案内され、天井や梁に逆さになって張りつく数えきれないほどのコウモリに監視されながら長い廊下を歩いた。謁見の間の重い扉を押し込んで開けると、そこでまた違うコウモリが俺たちを待ち受けていた。
「やっぱりあなた方でしたか」と綺麗な女性の声を持つコウモリは言った。たしかナディアという、ハイデルベルクにとってもっとも重要な血の鑑定に従事する眷属だ。
「ああ、邪魔するよ」と俺は言った。
「前回はぞろぞろと何名も引き連れていましたが、今日はお二人だけですか?」
チルフィーは俺の頭の上で「そうであります!」と答えると、いつも以上に力強く羽ばたいてナディアの正面に躍り出た。「言っておくでありますが、今日もウキキはあたしが守るであります! ウキキの血は吸わせないであります!」
ナディアは馬鹿を相手にするように、わざとらしく首を何度か横に振った。「また血の鑑定の邪魔をするつもりですか。べつに構いませんよ、ウキキさんの血にたいした価値があるとは思っていませんから」
「ウキキ、良かったでありますね!」と振り返ってチルフィーは言った。「ウキキの残念な血は味わわなくてもわかるみたいであります!」
「ああ、いやそれはそれでちょっと傷つくけどな……」
「しかし、血の鑑定なしに融資が行われないことは、あなた方もご存知のはずです」とナディアは言った。「今回は別の要件ですか?」
俺は頷いてから壇上に目を向けた。破壊された王座にハイデルベルクの姿はない。その裏手の幕のあいだからは薄っすらと光が漏れている。奥で何かしているのだろうか?
俺の視線を追うと、ナディアは頷いてから口を開いた。「ええ、主さまはあちらで読書ちゅうです。ですから、どのようなご用件であれしばらく待ってもらうことになります」
俺は彼女の声を背中で聞きながら壇上に飛びあがった。「いや、わるいけどそんな時間はないんだ」、足早に歩き、木っ端みじんの王座を横切って黒い幕に手を伸ばした。制止するナディアの声が後方から聞かれたが、無視をして幕の奥を覗いた。
「よう、吸血鬼」と俺は言った。「ちょっと相談があるんだけど、今すこしいいか?」
舞台袖にあるようなちょっとしたスペースにベッドがあり、そこでハイデルベルクは横になって肩肘をつき分厚い本を読んでいた。丸いテーブルの上に蝋燭があり、小さな炎が彼の影を細長く壁に映している。ハイデルベルクはしばらくしてからこちらを振り向いたが、影が動いたのはそれから一瞬遅れたように感じられた。
「我が城にようこそ……と言いたいところだが、今は融資を打ち切っている……。新しき友人となり得たニンゲンにこう宣するのは慙愧に耐えないが、即刻お引き取り願おう……」
少し感じが変わっている、というのがハイデルベルクから受けた第一印象だった。以前のように高慢な態度でもなければ、ミュージカル俳優のようだった演技じみた仕草も失われている。声には張りがなく、今にも消え入ってしまいそうだ。そして何より奇妙に思えたのは、俺を覚えていないことだった。あるいは血の価値でしか人を見分けられないのだろうか。
「新しき友人?」と俺はややあって言った。「違うだろ。あんたの場合は『新しいカモ』が妥当じゃないのか?」
「どちらでもよい……」とハイデルベルクは本のページに目を落として言った。「我は今ヒトと議論を交わす気にはなれない……。我が求めるは永遠の静寂……。夜よりも暗き闇黒の帳……」
「なんだか落ち込んでるみたいでありますね」と俺の耳元でチルフィーが言った。それを即座に否定したのは、慌ててパタパタと追いかけてきたナディアだった。
「落ち込んでいる、なんてものではありません。前回あなた方がいらしてから、主さまはずっとこのような状態です。昼も眠らずに鬱々と本を読み、綺麗な月明かりの夜も外に出ようとしません。食事さえ、ほとんど喉を通らないようなんです」
たしかに重症のようだった。精神を病んでしまった患者のように目からは光が失われているし、ぶつぶつと何か独り言を口にしている。早いペースで捲られていく本だって、きっと内容はほとんど頭に入っていないのだろう。ただ意味もなく活字を目で拾い、遅い時間が流れるのをじっと耐えているように感じられる。
「なので、現在はヒトの訪問をすべて断っています」とナディアは言葉を継いだ。「あなた方だけ特別に通したのは、園城寺アリスをここに連れてきてもらいたいからです。というのは、わたしはこう推測するのです。主さまがあんなにも変わってしまったのは、SSSの血を持つ彼女を眷属に取り込めなかったからだと」
ナディアの声に反応したのか、ハイデルベルクは明るい星を覗くように天井を見上げ、小さな声で呟いた。
「我は最近、一瞬ではあるが、たしかに何かを得たのだ……。この身が芯から震え上がる何かを……。ああ、だがそれは失われてしまった……。血の沸き立つ高揚感は損なわれ、心の中心に空虚を埋め込んでいった……」
ナディアは心配そうに首を振り、それから医者を見るような目で俺のことを見つめた。俺は生唾を一気にゴクリと飲み込んだ。これから俺がやろうとしていることを考えれば、いくら飲んでも飲み切れないほど喉の奥に溢れている気がした。
「いや、たぶん違うよ」と俺はナディアに言った。「こいつがこうなった理由に、たぶんアリスは関係してない」
俺は何歩かハイデルベルクに近づき、そこで足を止めた。蝋燭の火が風に揺らめき、俺とハイデルベルクの影を不均衡に伸縮させた。
「なあ吸血鬼、それがなんだか教えてやろうか?」
振り向こうともせず、象牙色の瞳だけが無言で俺のいる方向に移動する。しかしその目に俺は映っていない。あるいは映っていても見ていない。どのような感情も呼び起こされず、とくに意識を傾けようとさえしない。ただ蠅が音を立てたので、ちょっと覗いてみただけのような反応だ。
なかなかにつれない奴じゃないか。ほんの一時とはいえ、本気で殺し合った相手のことを忘れるだなんて。
「出でよ――MAX鬼熊!」
ガルウウウウウウッ!!
俺はその場からフルパワーで鬼熊を使役した。もちろんハイデルベルクに向けてだ。暴走する機関車のように鬼熊の剛腕が伸びていき、呆けた吸血鬼の顔面を捉える。しかしぶち当たる極めて直前に彼の目に生気が戻り、予備動作もなく瞬間的に跳ね起きて躱す。それから、頬の横数センチを通り過ぎていく巨大な拳を肩越しに顧みる。
彼の寝ていたベッドは粉々になり、俺たちの影を映していた壁には大きな穴が開く。ひらけた眺望に夜空が広がり、蒼い月が高い柳の木の上に浮かんで見えている。長い廊下を歩いてきたので空間の把握に乱れが生じているが、どうやらここは三階程度の高さにあったようだ。青白い月明かりが蝋燭の炎を奇妙な色合いに染めている。
「これで、俺のことを思い出してくれたか?」と俺は言った。「あんたのあの王座を破壊したのは俺だ。そしてあのときあんたに、身の毛がよだつほどの戦慄を何十世紀かぶりに呼び覚まさせたのも」
仮面のようだった顔が表情を取り戻していく。鋭い牙が覗き、エルフのような長い耳がぴくりと波打ち、蠱惑的な瞳に妖しい光が宿る。左の眼球にはしっかりと債務者の名前が放射線状に刻まれているが、前に見たときより一人分減っているように思える。しかし完済して名が解放されたのか、あるいは期限までに払えず眷属に取り込まれたのか、それは俺にはわからない。
「そう……あんたが一時的に得たものの正体は、戦いの悦びだよ」と俺は言った。「今から俺が、もう二度と忘れないぐらい思い出させてやる」
ハイデルベルクはにやりと笑う。




