番外編 赤い銀河 sideアリス
神社は見るからに荒れ果てていた。向拝柱はあと一度でも嵐が吹けば耐えられそうにないし、虹のように湾曲した虹梁は荷重を分担する役目に嫌気がさしたように外れかかっている。羽目板に施された多彩な彫刻は無数のひびによって巧みに秘匿されており、もともとの題材がなんだったのかという謎掛けを後世に残している。落ち葉が積もりに積もった賽銭箱は、もう何年も参拝者がいないことを示唆していた。無残なまでにほつれた鈴緒が鳴らす音も、どこか寂しげだ。
本殿の御扉を開けて中を覗いてみたが、御神体のようなものは祀られていなかった。もちろん神様らしき人物も見当たらない。狭いスペースに畳が一枚斜めになって敷かれているだけだった。御霊を鎮める神秘的な場所というよりは、どこかの盗賊のケチなアジトのようだ。もしかしたら、奉納されたものはすべて誰かに持ち去られてしまったのかもしれない。あまりにもうらさびしい風景なので、せめてもの慰みに、私はゴリラちゃんの魔法人形(アリス戦隊のなかで一番レベルが高い子だ)を置いておいた。もといた神様も、これできっと安心してくれることだろう。
しかしそんな荒廃した神社でも、ウィンディーネが姿勢よく拝殿に立つだけでかなり洗練された格式高い秘所という趣が与えられた。ウィンディーネは賽銭箱の枯れ葉の山を手で払うと、ワンピースのポケットから銅貨を一枚取り出し、そっと投げ入れた。
「たしかこうやって、そんでこうだったナ」
ウィンディーネは鈴緒に手を伸ばし、威勢よく振って本坪鈴を鳴らした。やっぱり悲しい物語を想起させる張りのない音色だ。彼女はそれから二回ほど深くお辞儀をし、そして同じく二回続けて手を拍ち鳴らした。最後にもう一度腰を九十度曲げて神様(新しいゴリラ神だ)に礼を示すと、うしろを振り返ってサラに目を留めた。
「これが歴代のサラマンダーとやってた拝礼だ。この行動にどんな意味があるのか知らねぇが、ちょっとやってみナ」
サラの記憶の中で眠る先代までのサラマンダーたちは、この国に数多くある神社仏閣のなかで毎回この場所を選び、ウィンディーネをなかば強引に引き連れ参拝していた。そこには何か意味があったのではないか、というのが私たちの考えだ。おそらく、サラの覚醒に繋がる何かが。
サラは小さな手でアナから銅貨を受け取ると、それを握りしめながら辺りをきょろきょろと見回した。その動作に合わせて、ブルーニ(歴代のサラマンダーが身に着けていた赤い宝石の首飾りだ)がせわしなく首元で揺れ動いていた。
「うん、わかった!」とサラは言った。「でもその前に、ちょっとだけでも神社をお掃除してあげたいな……」
「あぁ?」といかにも面倒そうに顔を歪め、ウィンディーネは眉間に皺を寄せて神社の至るところに目を向けた。「んなダリィことやってられっか。だいたい、ここはアタイが初めて連れて来られた時からこんなんだったぞ」
「いいじゃない!」と私は言った。「まだ暗くなるまで時間があるし、みんなで片付けてからサラの覚醒といきましょ!」
アナとレリアが同時に頷くのを見ると、ウィンディーネはこの日一番の大きな舌打ちをした。
「チッ、4対1か……。ならしゃあねぇ、さっさとやってそこそこ綺麗にしちまおうぜ」
きっと神社の惨状を純粋に気の毒に思っていたのはサラだけだろう。もちろん私もそんな気持ちがないわけではないけれど、それよりも違う意図が頭のなかで働いていた。もしサラが新しいサラに生まれ変わるのなら、その代替えが果たされる場所はできるだけ美しくあるべきだ。アナもレリアも同じことを考えているんじゃないかしら。たぶんウィンディーネだって。
掃除は私の号令のもと、手際よく行われた。レリアとサラは境内の外れに落ちていた竹箒を使って巫女のように参道を掃き、アナとウィンディーネは手分けして倒れている灯籠を起こしてまわった。私はみんなの仕事を監督しながら、それと並行して散乱する落ち葉を風の加護で一か所に集めた。それから竹箒を股に挟んで魔女っ子ごっこを始めたサラに、火蜥蜴になってもらって着火を指示した。サツマイモを用意してなかったのが残念だけれど、ただの焚火でも寒空の下だと風雅なものだ。煙は一直線に天へと昇り、しばらくすると夢のなかの霧のように砕けた。
外の片付けがおおかた済むと、私たちは拝殿や奥に続く本殿の清掃に取りかかった。赤いリュックから取り出した人数分の雑巾をウィンディーネに水術で濡らしてもらい、よくしぼってから拭き掃除をした。私とレリアとサラが板張り床を担当し、背の高いアナとウィンディーネには欄干や柱などを磨いてもらった。
何度か黒く染まった雑巾をウィンディーネのところに持っていくと、そのたびに指先から吹き出す水があっというまに汚れをそそいだ。水道みたいですごく便利だ。しかし私のうしろに行列ができると、ウィンディーネはうんざりした表情で放置されたままの木桶を拾ってきた。そしてヤンキー座りになって人差指をホースのように垂らし、桶に水を注いだ。
私は隣に屈んで満たされていく桶の中に手を突っ込んでみた。触れてみなければわからないこともある。水は冷たくもなければ熱くもなかった。かといってぬるいというわけでもない。なんだか不思議な感じのする澄んだ透明感のある液体だ。手を引っ込めて匂いも嗅いでみたが、とくになんの香りもしなかった。
「それ、どうやっているの?」
「あぁ?」
「どうやって水を出しているの? 私にもできるかしら?」
「できるわけねぇだろ。ってかなに匂いなんて嗅いでんだよ、ケンカ売ってんのかアリス」
桶が水でいっぱいになると、ウィンディーネはみんなの雑巾を放り込んで念入りにごしごしと洗った。
「そういや、どうやってなんて考えたこともなかったナ」と彼女は思い返すように言った。「まあ、アタイは水の大精霊様だかんナ。できて当然なんじゃねえの?」
神社の掃除が終わったのは、それから真っ黒に濁った桶の水を六回ほど取りかえたころだった。時間にするとだいたい二時間だ。もう日も暮れてだいぶ薄暗くなっている。新しく薪をくべた焚火が、這い寄る夜闇に抵抗するように辺りを仄明るく照らしていた。
サラはずっと楽しそうだった。上手く雑巾をしぼれないレリアに鼻高々でお手本を見せたり、即興のお掃除ソングを歌ったりしていた。何度も開催された雑巾がけ大会の優勝は、サラが四回で私が三回、そしてアナとウィンディーネがともに一回ずつという結果だった。レリアは三位が一回だけであとは全部ビリだったけれど、それでも笑顔が絶えないサラを見て終始嬉しそうにしていた。
それから私たちは神社を背景に記念撮影を行った。撮った写真をサラに見せると、大喜びで食い入るようにデジカメの画面を覗いてきた。今までもたくさん写真を撮ってきたが、そのなかでもかなりお気に入りの一枚になったみたいだ。サラは小さな画面のなかで、屈託なく笑ってレリアと手を繋いでいた。
「みんなとお掃除、すっごく楽しかった!」とサラは写真から目を離さずに言った。「これがちっちゃなあたちの最後のシャシン! 次サツエイするときは、きっとレリアよりおっきなおねえさんになってるよ!」
レリアは優しく微笑んだ。「ええ、そうかもしれませんわね。けれど、そうなっても姉はわたくしのままよ?」
「うん、わかってる! あたちとレリアの決まり事!」とサラは言った。そしてひとり賽銭箱の前までゆっくりと歩き、それから振り返った。「じゃあ、あたちセンダイの記憶を引き継いじゃうね! もしかしたらこれでバイバイだけど、絶対みんなのこと忘れないからね!」
私は唇を強く噛みしめた。そうでもしないと涙が溢れてしまいそうだった。地べたと足の裏も強く密着させていた。じゃないとすぐにでも駆け込み、サラを抱きしめてしまいそうだ。
私が悲しむ必要なんてどこにもない。だってレリアもサラも迷いや不安を断ち切り、明日に希望を抱いているのだから。サラはどうなってもサラよ、と私は自分に自分で言い聞かせた。だから泣いたりしたら絶対にだめ。
ウィンディーネが問いかける。もう一度拝礼の仕方を教えてやろうか? 覚えてるから平気! とサラは自信を持って答える。その返事のとおり、サラは銅貨を賽銭箱に入れてから鈴の音を響かせ、丁寧に間違えることなく二礼二拍手一礼をこなす。ここにいる全員がその様子を固唾を飲んで見守る。いや、きっと私たちだけではないのだろう。この世界のありとあらゆる精霊たちが、そして焚火の炎が、そこから立ち昇る儚い煙が、ちいさな少女の後見人となって行く末を見守っているのだろう。
やがてブルーニに変化が訪れる。サラの目線と同じ高さまで浮かび上がり、宝石の内部でほのかな赤い煌めきを帯びはじめる。この光こそがサラマンダーの記憶なのだ。私たちは誰の説明もないまま、自然とそう認識する。まるで前世の自分が知っていたかのように。
記憶はいま殻を破ろうとしている。赤い宝石を脱ぎ捨て、サラと結びつこうとしている。光はより強く、より大きく、より激しく、まるで宵の赤星のように燦爛と輝く。そして、その瞬間はやってくる。
湖底の泡のようにたおやかに記憶が解き放たれ、サラの胸の辺りに広がる。サラはすべてを理解し、すべてを受け入れる。赤い銀河のような煌めきを両手で掬い、その感触と温もりを肌に感じる。心地良い重みに顔がほころぶ。
「そっか……。これも、全部あたちなんだ」
サラはゆっくりと顔を上げる。幾千本の鳥居を背景に、私たちみんなを視野の中心に持ってくる。
少女の瞳にレリアが映る。私が映る。アナが映る。ウィンディーネが映る。
みんな、ありがとう!
とびっきりの笑顔を残し、少女は記憶の奔流にすべてを委ねる。そして、サラは赤い銀河とひとつになる。




